第32話 未熟な妻は夫を想ふ

 ひよりは心のどかで、自分は自衛隊とは違う普通の人という線を引かれているように感じていた。自分が住む世界に彼らはいるけれど、彼らの住む世界に自分はいない。社会に手を差し伸べてくれるくせに、社会から伸ばされる手を彼らは取らないからだ。

 独立したした完全なる世界に彼らは存在している気がしていた。とても不思議な組織である。

 それでもいい。それで、いい。

 そうでなければ彼らの存在意義が問われてしまうから。


 でも、本当は少しモヤモヤしてしまう。

 同じ日本国民なのに……と。


 夫をはじめとする自衛隊員は日々の職務をしっかりとこなしている。ひよりには想像のつかない理不尽なことがたくさんあるだろう。それでも、ひよりの周りにいる自衛官やその家族はいつも優しい。


「だから、わたしも八雲さんや自衛隊の人たちのためにできることをやるわ!」


 自分にできることはなにか。民間人としての感覚と自衛官の妻としての常識をうまく活かしたい。

 彼らを社会から孤立させないためにも、そして民間と彼らを繋ぐ橋になりたい。


「まずは!」


(赤ちゃんができるように身体を整える)


 家族が増えれば八雲の味方が増えると考えたひよりは、いつも以上に健康管理に努めることにした。それは自分の身体だけでなく、八雲の身体も含まれる。


「医者の不養生って言うじゃない? 夜勤でカップラーメンたべたり、食べかけたまま患者さん診たり、食べる暇もなく働くことあるじゃない?」


 医療ドラマではよくあるシーンだ。

 休憩室でカップ麺にお湯を入れたところで、緊急呼び出しがかかる。ソファーで仮眠中に叩き起こされる。

 八雲もそうとは限らないが、医療行為は民間と変わらないと言っていた。


「そろそろ帰ってくると思うから、今度こそはわたしが八雲さんを甘やかす番!」


 よし! などと化粧室の鏡に向かってガッツポーズをしてみせた。



「東さん。銀行お願いできますか! 手が離せなくて」

「大丈夫ですよ。わたしは一区切りついたので、今から行ってきます」

「ありがとうございます」


 会社での自分、家で一人で居るときの自分、自衛官の妻としての自分。どれもひよりにとって欠かせないスタイルなのだ。その全てを受け入れてくれる夫を思うと、自分はもっと頑張らなければと思う。




 ◇



 二週間が過ぎた金曜日、会社を出てすぐにひよりのスマートフォンが点滅しながら震えた。

 ひよりは今度こそはリアルタイムに知らせを受け取ろうと、すぐにバッグからスマートフォンを取り出す。するとそれは東からのメッセージではなく、着信だった。


「あらっ、電話⁉︎ もしもし、八雲さん?」

『ひより。仕事は終わった?』

「はい。今、会社を出たところです」

『お、我ながらいいタイミングだったな。今日は外で食べよう。実はひよりの会社の近くの駅まで来ているんだ』

「そうなの? すぐに行くから」

『慌てないで、歩いてくるんだよ』

「はい」


 早く勤務が終わったのだろうか。八雲はひよりの会社の最寄り駅で待っているという。思わぬ連絡にひよりは浮き足だった。

 今回の夫の出張は結婚してからいちばん長かった。一度帰宅はしたものの、いつまでと期間の分からない出張だった。考えると寂しさや不安よりも、心配の方が大きかったような気がする。

 どこでどんな危険な仕事をしてるいるのか分からないという心配と、今回は夫の別の顔を知ったことによる見知らぬ女性への嫉妬である。いつもの見慣れた制服とは違う、医師としてのあるべき姿はひよりにとって新しい刺激だった。

 医官は医師であると頭では分かっていたけれど、どこかで違うものと認識していたのかもしれない。


 ひよりは今回の八雲の出張でまたひとつ学んだのだ。


 甘えてばかりではいられない

 守られてばかりではいけない

 夫婦は平等に寄り添って、支え合うものだ


 駅に着いて改札口に目をやると、八雲が立っていた。贔屓目かもしれないが、どこの誰よりもその姿は凛々しくかっこよかった。


「お待たせしました!」

「お疲れ様。おや、ひより汗かいてるじゃないか。ゆっくりでって言ったつもりだけど」

「仕方ないでしょう? 早く会いたかったんだもん。あれ、制服じゃないんですね」

「うん。早く帰れたから着替えてきた。流石に制服で可愛らしいお嬢さんを連れて歩くとよからぬ噂をたてられかねないからね」

「それに、リラックスできないもんね」

「そういうことだ。何が食べたい? 一人だと質素な食事になってたんじゃないか」

「バレてる! 一人だと、どうしてもね」

「よし! じゃあ肉を食べよう」

「賛成! お家じゃやらない焼肉食べたい」

「いいね」


 ひよりは八雲の腕に自分の腕を絡ませた。制服ではないなら遠慮はいらないからだ。

 それに、今まではひよりから腕を組むという行為はほとんどなかった。きっと、離れ離れの日々がひよりの中に眠る独占欲を起こしてしまったのかもしれない。



 ◇



 お腹いっぱいに美味しいお肉を食べ、店を出たところで八雲はタクシーを拾った。

 着いた先は自宅マンションではない。


「あれ? 八雲さん、ここって」

「覚えてる? 僕が一世一代のナンパをひよりにした場所だよ」

「一世一代っておおげさ! もちろん覚えてるよ。雨が降る夜だった。部下さんたちは濡れながら走って帰ってましたね」

「懐かしいなぁ。あの時からひよりは僕たちのことを勘違いしていたんだもんな」

「もー、忘れてください。一生の不覚です」

「あはは。忘れられるかなぁ。久しぶりに、今夜付き合ってもらえるかい?」

「はい。でも、もうバーボンは飲みませんよ」

「あはは」


 ひよりと八雲が初めて出会ったのはどこにでもあるような居酒屋だった。会社の仲間と来ていた飲み会だった。ひよりは八雲たちのグループがどうも怪しげで、たまに聞こえてくる言葉に完全に社会的にアウトな人々だと思い込んでしまったのだ。

 それなのに店を出たとき、八雲に声をかけられて雨宿りという理由で地下一階にあるBARに誘われるがまま一杯付き合うことにしたのだ。そう、命の危機を感じながら。

 今となればとても懐かしい思い出だ。

 あのとき八雲と目が合わなければ、あの時雨宿りを断っていたら、ひよりは八雲と結ばれることはなかった。


 階段を降りると、八雲が木製の重い扉を押し開けた。チリンとレトロなベルが鳴る。


「いらっしゃいませ。おや、これは久しいですね東さん」

「こんばんは。ずいぶんとご無沙汰しています。今夜は妻を連れてきました」

「そうでしたか! どうぞ奥に。ああ、あの時のお嬢さんですね」

「こんばんは。あの時はご迷惑をおかけしました。ほとんど覚えていなくて……」

「そうでしたね。可愛らしすぎて、東さんが頭を抱えていたのを思い出します」

「マスターときたら、ほんとうに酷いんだ。攫ってしまえと大胆なアドバイスをくれてね」

「マスターのおかげですね。そうだ。マスターが仰ってた優良物件、あとからその意味を理解しました」

「私はいい仕事をしたということですね」


 あの日の晩と同じ席にひよりは座った。違うのは隣に座るのが見知らぬ危険な男ではなく、愛おしい夫である。

 八雲はバーボンをひよりはカクテルをお任せで注文した。マスターは二人に結婚祝いだと、それらをご馳走してくれた。


「おめでとうございます。ごゆっくりどうぞ」

「「ありがとうございます」」


 ひよりは八雲とグラスを交わして一口飲んだ。甘酸っぱい爽やかな味がするカクテルだった。

 八雲は居酒屋での野朗たちの話を懐かしそうに語った。自衛官になりたての若者をおだてたり励ましたり、大変なんだよと。ときにハメを外してやらないと、規律の厳しい世界では息が詰まるのだと。


「そうしたら、忙しそうに働くひよりを見つけたんだ」

「わたしもあの日は忙しかったんですよ。けっこう気を使うし」

「民間で働く女性も大変なんだなぁと、思ったよ」

「わたしは怖い集団がいるって、焦ってたのに」

「あはは」


 どこか懐かしくて、どこかむず痒い。それでも自分を見つめる八雲の瞳はしっとりと濡れていた。

 グラスを持つ手、口の中に流し込む仕草と、それを嚥下したときの喉元の動きは今までにないくらい色っぽい。


(八雲さんに出会って、男の人の色っぽさを初めて知ったわ)


 少し濡れた唇を舌先で舐めるその仕草さえ、たまらない。思わず頬杖ついて見惚れてしまうほどだ。


(私の旦那さん、かっこよすぎる)


「ひより? もしかしてもう酔っ払った? 目がとろんとしてる」

「え? そんなことないよ。まだ半分しか飲んでないもん。そうだなぁ、強いて言うなら八雲さんのせい」

「僕の、せい?」


 なんで僕のせい? と、言いたげに八雲は不思議そうにひよりを見つめ返した。ひよりはその仕草すらたまらずに悶えた。


(あーん、だめ。このちょっと暗い照明のせいで、余計にかっこいい!)


「もう、全部飲んじゃう!」

「おい、こら。ひより、ゆっくり飲みなさい」

「飲ませてお願い。じゃないとわたし悶え死んじゃう」

「おいおい、なんてことを言うんだ」


 酒に酔ったのではない。八雲の色気に当てられて酔っ払ったのだ。そうとしか考えられない。


「八雲さんが、素敵すぎていけないの。他の女の人にそんな顔を見せちゃダメだからね」


 ひよりはそう言うと、右手を差し伸べて八雲の頬に触れた。八雲はゆっくりと頬骨を上げると、ひよりの手に自分の手を重ねた。


「誘っているのかな? お嬢さん」

「わたしの誘いに乗ってくれますか?」

「もちろん」


 八雲の眼差しはどこまでも優しい。けっしてよそ見などしない、ひよりだけを見つめる温かな瞳。


「じゃあ、帰りましょう。私たちの家に」

「ああ。帰ろう」


 未熟な妻の誘惑に、しっかり乗っかる医官さん。

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