女のロマンを叶えさせていただきます
忙しかった八雲の仕事も最近は平時の体制に戻ったようで、朝7時すぎに家を出て、夕方6時頃には帰宅するようになった。
自衛官である八雲の出勤スタイルは、迷彩柄の戦闘服装か制服だ。いつも見慣れているのは迷彩柄のほうで、帽子も同じく迷彩柄。黒い半長靴という重たそうなブーツを履いて家を出るのに、不意をつくようにネクタイをしめた制服姿の時もある。
ひよりはどちらの服も好きだが、たまに予告なしにやってくる制服姿はもっと好きだ。
白いシャツを着てネクタイをしめる夫の姿は永遠に見ていたいくらいだ。
背の高い八雲の鍛え上げられた体に、最近新しく支給された黒い制服(正しくは紫紺色)が見事にマッチする。
ひよりはいつもスーツ姿の男性に囲まれているというのに、夫の白いシャツに黒いネクタイは格別らしい。
(かっこいい……やだ、よだれ出そう。どうしよう! お仕事休みたい。ずっとお家で余韻に浸っていたいわ)
「ひよりは着替えなくていいのかな? それとも、具合が悪い?」
ぼんやりと夫の背中を見つめていたひよりが、ようやく我に返る。
「あっ、ううん元気です。着替えます! 着替えます!」
―― ひよりはこの制服がお気に入りのようだね
八雲自身も何となく気づいている。この制服に着替える時はひよりの視線がいつもより熱いということを。
でもそれを指摘してしまうと、ひよりは恥ずかしさを覚え、着替えは別々すると言うに違いない。
だから八雲は、遅刻しない程度の時間を見計らって声をかけているのだ。
ひよりは、まさか夫に気づかれているなんて思っていない。大急ぎで着替えて、玄関に向かった。
「あれ、ひよりの仕事に早出があったっけ?」
今日の八雲は県内にある別の駐屯地に日帰り出張だ。だからいつもより家を出るのが早い。けれど、営業職でもないひよりは、もう少しゆっくりできるはずである。
「えっと、月末だから締め切りが色々と迫ってるの。だって残業はしたくないし? それに午前中の方が頭が動くの。あっ、あと、お気に入りのカフェのコーヒーが並ばずに買えるから!」
まだ中旬で月末とは言い難いが、まあよしとしよう。午前中の方が捗るのは理解できる。そして、お気に入りのコーヒーを並ばずに買えるのは、朝が早すぎて人がまだいないからだ。
取り繕いの理由はさておき、ひよりは何がなんでも制服姿の八雲と並んで歩きたいのである。例えそれがほんの数歩だとしても。
素直にそう言えばよいのだろうが、ひよりはまだ恥ずかしくて言えない。言えば八雲なら大喜びでそれに応えてくれるというのに。
「なるほど、ひよりも忙しいな。今日は車だから駅まで送ろうか?」
「いいの⁉︎ 嬉しい。お願いします」
頬をポッと赤くして嬉しそうに笑顔を見せるひよりに、八雲は早くも撤退を余儀なくされそうになる。あまりにも可愛らしすぎて、自衛官の顔を作れそうにない。
「困ったお嬢さんだ」
「えっ、なにっ……ん、にゃっ」
八雲はその小さな唇に落とすようなキスをして、ひよりの頬を両手で挟んでむにむにと優しくほぐした。今すぐにでも部屋に連れ戻りたいのを誤魔化しているのだ。
「あまり可愛いことをするもんじゃないよ。仕事に行きたくなくなる」
八雲は困ったように眉を下げて見せた。
「かわいいことなんてしてないのに。あと、仕事に行きたくないのは私も同じです」
「おや?」
「だって、せっかく八雲さんが制服着てるのに会社にだなんて行ってる場合じゃな、あっ……」
ひよりは慌てて顔を逸らし、手で口を押さえた。
(しまった! わたしのフェチがバレちゃう!)
「ひより? そろそろ出ようか。話の続きは帰ってから」
「はい! 今日の帰宅は遅くなります?」
「そうだな。県境にある駐屯地だから、7時ぐらいかな」
「了解しましたっ」
今日は何がなんでも八雲より先に帰宅するんだと心に決めている。それのためだけに、早めに出勤をするようなものだ。
たった1分だとしても、退社時間は遅らせたくない。
(今日こそは勇気を出して、八雲さんのお着替えを手伝うんだから!)
月に一度、あるかないかの制服姿だ。
ひよりの勇む気持ちも分からなくもない。
◇
朝早くから仕事に取り掛かったおかげか、退社時間を待つ形になった。そして、ひよりがあと10分、あと5分とカウントダウンしているのを同僚や上司は感じ取ってしまう。
滑り込みで渡そうとした書類を引っ込める上司。物品購入申請のメールを送ろうとして下書きに戻した営業マン。
男性優位な会社に見えて実はそうでもない。
明日でいいよと言葉を添えても、ひよりが後回しにできない性格をみんな知っている。今日は早く帰宅したい理由があるんだろう。それを聞くのは少しばかり野暮な気がする。そんな空気が漂っていた。
パソコンの時計が5時になった。
ひよりはパソコンにシャットダウンの処理をして、退社カードをタッチした。
「お疲れ様でした!」
「はい、お疲れさん」
聞きたいのに聞けないおじさん達は、ひよりの背中を静かに見送った。
◇
ひよりは、はやる気持ちをグッと抑えて駅の改札を通った。スマートフォンは5時45分をさしていた。このまいけば家に着くのは6時。お風呂を洗って夕飯の準備をしても、八雲が帰宅する7時には十分に間に合う。
「よし!」
気合も十分だ。
時刻はまもなく7時になろうとしていた。ひよりはキッチンで忙しくしている。目的はあろうとも料理の手を抜くわけにはいかない。
医師として人の命を預かる夫を思えば、せめて家では寛いでほしいものだ。そのためには掃除の行き届いた部屋、美味しい食事、温かいお風呂で迎える必要がある。いくら何でもできる自衛官とはいえ、せめて家庭では普通の男であり夫でいて欲しい。
『僕が帰る場所はひよりのところだ』
八雲がひよりに言った言葉は今も胸にある。
「ただいま」
八雲が帰ってきた。
時計は7時を少しだけす過ぎた頃だった。朝出た時となんら変わりないかっこいい夫の姿に、ひよりは目眩がしそうだった。
(かっこいい……もう、その笑顔、反則なんだからーっ)
「八雲さん、お帰りなさい」
「ただいま。ああ、やっぱりエプロンはいいね。さて、僕も着替えたら手伝うよ」
「ありがとう……じゃ、なくって!」
「うん?」
危うくいつものように、八雲は手早く着替えを済ませてキッチンに並ぼうとしている。
そうじゃない! それをしてもらっては、今日の計画が台無しになってしまう。
「お疲れでしょう? 慣れない駐屯地でのお仕事は」
「いや、とくにいつも通りだよ」
「いいえ。疲れています。だから、お着替えは私が手伝います」
「……え?」
キリがついたところですからと、ひよりは八雲の背中を押して寝室に押し込んだ。どういう風の吹き回しだと戸惑う八雲の足取りは、やや不自然だ。
「八雲さんは何でも自分でしちゃうから。たまには私にもさせてください。はい、ジャケット失礼しますね」
「ひよりが着替えを手伝ってくれるのかい? そんなことしなくていいのに。自分のことは自分でだな」
なぜか抵抗する夫に、ひよりは頬を膨らました。
「ひより? もしかして、今ので怒った?」
「怒ってないですけど、ものすごく寂しいです。だって、わたしは八雲さんの奥さんなのに」
「だけど、僕はひよりにそんなことをして欲しくて結婚をしたわけじゃないよ」
「わかってます! ちゃんと、理由を言いますから聞いてください。ここにはっ、女の! わたしのロマンが詰まってるんです!」
「ロマン? ひ、ひよりの……ロマンって」
「八雲さんの、そのネクタイを……外したいの」
「なんと……」
八雲は天井を仰いだ。なぜならば、ひよりがとてつもなく照れた顔でネクタイを外したいと言ったからだ。こんなに破壊力のある言葉を、八雲は他に知らない。帰ってそうそうに、こんな気持ちになろうとは。飯よりも風呂よりも、目の前の可愛らしい妻を食べてしまいたい。
「ダメ、でしたか?」
恐る恐るそう問いかけてくるひよりに、八雲は小さく首を振った。
「ダメなものか。これを解くのがひよりのロマンならお安い御用さ。どれ、今日はひよりに甘えようか」
「いいの? 嬉しい。恥ずかしくて言えなかったけど、この制服姿の八雲さんがとても素敵で。めったにこんなチャンスこないから、無理強いしてごめんなさい」
「謝らなくていいのに。初めからそう言ってくれれば、喜んでお願いしたのに。今朝も僕がネクタイをしめるところ、ずっと見ていたね。よっぽど好きなんだな、これが」
「ネクタイがと言うか」
「と、言うか?」
「ネクタイをする時の八雲さんの手つきが、大好きなんです。キャーッ、恥ずかしいぃー」
ひよりは顔から火が出る思いだった。思わず両手で顔を隠して屈み込んでしまった。そんな妻に夫はドン引きかもしれない。怖くて顔も上げられなくなった。
すると、八雲の気配がゆっくりと近づいて、ひよりの頭を優しく撫でた。
「顔を隠していては、ネクタイが外せないだろう? ひより、思いっきりロマンを堪能しなさい。僕もひよりにいつも俺のロマンを味わせてもらっているよ」
「八雲さん、優しすぎる」
「お互いさまだと、思うがね」
「では、参ります」
「うん、どうぞ」
とうとう八雲のネクタイを外すときが来た。完璧なまでのこの鎧を、今夜ひよりが崩す。これをロマンと言わずしてなんと言おう。
緊張と興奮とが入り混じり、ひよりの指は震えた。
「たしか、ここを持って引っ張ったら……」
「もう少し上、この辺かな」
迷うひよりを導いたのは八雲の大きな手だった。ここだよと優しく手を重ね、一緒にそのネクタイを解いた。
シュル――
「あっ……」
一人で解くつもりが、まさか二人で解くなんて。その行為に思わずひよりは目を瞑った。
(なんて、
ドキドキが止まらない。ネクタイを外すだけだったのに、今度は緩まったワイシャツの首元がボタンを外してくれと訴えてくる。
誘われるようにひよりは指をボタンにかけた。遊びの少ないそのボタンはすぐには外れてくれない。
しかし、八雲は手伝うふうはなくだまってそれを見つめていた。
八雲の視線が熱い。
「外れました」
「うん、ありがとう」
「はい……」
なんだかどっと疲れが押し寄せてきた。たかがネクタイとボタンを外すだけなのに。
「腰が抜けたな」
「お恥ずかしながらもう、降参です」
「おやおや」
(八雲さんの色気に勝てないよ)
「とりあえず、ソファーに座ってもらおうかな」
「すみません」
「まったく、本当に可愛い妻だ。今夜は覚悟するんだよ?」
八雲はへたり込んだひよりを軽々と抱え上げ、リビングのソファーにおろした。
嬉しそうに微笑む八雲に、ひよりが朝までお世話されたのは言うまでもない。
確かにひよりは、これは女のロマンだと思っていた。今もそう思っている。
しかし、このロマンはしばらく封印しようと思った。
この医官には何をもっても、勝てそうにないからだ。
返り討ちが怖いです医官さん。
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