第76夜 潔斎

 最近、東北のとある山に登ったときのことじゃ。


 ……ん? うん、もうあまり長くはないからのう、死ぬ前に行って置きたかったってこっちゃ。


 ああ、ただの登山じゃないわい。


 古来篤く信仰されてきた山の上に神社があってな、そこにお参りしたかった。


 標高は千メートル以上あって、夏でもむろん寒い。若いのふたりに荷物持ってもらってな。


 わがままにつきあわせて……体力からいって、ふもとからじゃとても登れんので、途中まではバスで行った。


 バスの終点にも神社があって、斎舘がある。うん、サイカン……こりゃあまあ、わしみたいな参拝者のための宿泊施設。レジャー目的では泊めないところだ。


 その斎館で一泊して、いよいよお山に向かうこととなった。


 ところが出発して三十分ほど、まだほとんど平坦な道でな、若いもんのひとりが突然足を止めたんじゃ。


「どうした」と聞いたら、


「分からない、なぜか身体が動かないんだ」という。


 前の日の朝からいっしょじゃが、原因になるようなことは思いあたらん。本人に尋ねても、


「調子は悪くない、むしろすがすがしい気分です」なんていっとる。能天気なもんじゃ。


 もうひとりの若いもんが、ふざけてるだけなんじゃないのかってな、背中を強く押した。


 じゃがのう……つんのめって倒れてな、手をついたんだが、足の方はガンとして動かない。


 ぴったり地面にくっついておる。


 わしとふたりがかりで足を持ちあげようとすると、本人、ひどく痛がる。


 そうして困っとったところへ、人が通りかかったんじゃ。


 山伏姿でな。額にゃ黒い頭巾、鈴懸を首にかけて、錫杖シャンシャンいわせてな。目鼻口が大きくてまるで天狗じゃ。


「どうしましたか」とかける声はふつうじゃった。


 事情を説明すると、


「ああ、たまにそういうことはあります」顔色を曇らせてな、「お山に登られるのは、止めた方がいいかもしれませんよ」


「ですが、この歳ですのでね。こうしてくることはたぶん二度とできませんので、なんとか登っておきたいんです」


 山伏はそうですかと答えた。首をひねって考える風じゃった。


「罰当たりな話ですけど、昔このあたりで首をくくった者がおったんです。そのせいかもしれない」


 そばに岩があって、その上に張り出している枝を指さす。


 ハアそうですかと間抜けな返事をすると、これでなんとかなるかもしれないって、若いもんの足のあたりで指をスウーッと何度か上下させた。


「どうですか」


 すると若いもん、


「ああ、動くようになった」


 これも間抜けな返事じゃな。それにしても驚いた。さっきはテコでも動かんかったのが、自由に足を上下させている。


 ピョンピョン跳ねたり足をかわるがわる上げ下げしたりしていると、山伏は、


「よかった。それでは」といいのこして、去っていった。


 それがまたたいそうな早足でのう、わしらもそのあとについていったわけだが、あっという間に見えんくなった。


 真夏のことで、天気がよかった。


 まだそう標高のある場所ではないからか、天候が急変する恐れはなさそうじゃった……と、いうのが甘かったんじゃな。


 なんだか曇ってきたなと思ってからすぐじゃ。


 霧雨がサアーッと周囲に現れ、視界がほとんどきかなくなった。


 当たり前じゃが周囲にあるのは木々や草、あとは自分の前後に道あるのみ。


 つれは便りない若いのがふたり。


 その時点では斎館を出発して一時間少々だったか、足が地面にひっつく騒ぎもあって全行程の二割程度しか進んどらんはずじゃった。


 ……そこへのう、シャン、シャン、シャン……と、音が聞こえてきてのう。


 うんにゃ、背後からじゃ。


 わしらは、山伏がひとり、またきたんじゃないかっていい合った。


 ところが、だんだん霧の粒子の中に現れてきたその姿を見ると、さっき追いこしてった山伏じゃった。


 でっかい目鼻口、天狗みた風貌。まちがいない。


 三人で顔を見合わせたけれども、とにかく向こうの方が足の速いことは確か。


 わしらの歩いているのは、けもの道に毛の生えたような程度。もちろん、道を譲ろうとして脇に寄って足を止めたんじゃ。


 距離は二、三メートルくらいか。


 山伏がこっちへ向かって……こない。


 錫杖をシャンシャンいわせて歩いているらしいんだが、いつまでたっても追いつかん。


 しかも、さっきわしらを追いこしてった山伏が、だぞ。


 この状況にたまりかねたのか、若いのがいった。


「なんだよ、あれ……」


 そうはいわれても、わしにも分からん。


 狐かなんかじゃないかと笑って、また歩きはじめた。追いついたらその時点で道を譲ればいい。


 こうしてしばらくの間、うしろでシャンシャンいってたんだが、いつのまにか音がしなくなった。


 すると、ひとりがオオッと叫んだ。


「あれ、あれ……」


 あれじゃ分からんと指さす方を見れば、やっぱり山伏は二、三メートル後方を歩いている。


 錫杖の輪っかが揺れている。


 でも、音が聞こえない。


 まあ山ん中じゃから音がどっかに吸いこまれとるんじゃろうって、若いもんに適当なことをいってな、また歩きだした。


 こうしてるうちに、山頂のお宮に到着した。


 念願かなってわしは心おきなく参拝しての、鳥居の上にうまく小石が乗っかればいいことあるって聞いて、乗っかるまで投げつづけてから、御朱印とお守りをいただいて下山することにした。


 いくらこれが目的だったといっても、頂上全体に強風が吹き荒れとったし、霧だか雨だか分からないもんが四方八方からぶつかってくるし、雲のきれっぱしがあちこちを流れてるしで、さすがに年寄りにはきつかった……それどころか、若いもんの顔を見ると、これもかなり疲れとるようじゃった。


 山に登るときには、登りより下りに気をつけよというのう。


 どうしても勢いがつく場所が多いから……それで、のんびり下るぞといって歩きだしたんじゃが……若いもんのひとりが突然、怖い、行きたくないといいはじめた。


 理由を聞いても、なんとなく怖い、このまま進みたくない気がすると、なんだかシャキッとしない返事をする。


 なだめたり、すかしたりしつつ、しばらくのあいだは歩いておったんじゃ……ああ。違うちがう、下りる道は登ってきたのとは違うんじゃ。


 下りてった先にも神社があってな、そこで一泊の予定じゃった。


 じゃから、そいつはべつに、山伏が現れた道をもういちど通るから怖がっていたわけじゃない。


 ……とはいえ、そいつの予感は正しかったのかもしれん。


 また後方からシャンシャン聞こえだしてのう、若いのふたりの顔を見ると、強張っておった。


 振り返りはしないが、そっちに意識が向いておるのがありありと分かる。


 わしは足をゆるめて、肩ごしに見た……うん、これが、例の山伏じゃった。


 いやあ……山伏が危害を加えてきたりな、山の中を迷わされたりしてるんならともかくなあ、なにも問題はなかったからわしは平気じゃった。


 生身の人間といわれても信じそうなほど、ハッキリ、クッキリした姿じゃったしなあ。


 山伏は前方に回り込むことなく、ずっと背後をつけてきて……そんな状況がだいたい二時間。わしがビビったのはそれからじゃ。


 もう、目指す神社が見えてくるじゃろうってとこまできとった。


 目の前に、突然白いもんが現れたんじゃな。


 初めはケモノかなんかかと身構えたら、これが子供……女の子で、いっちょまえにこれも山伏の格好をしとった。


 目がくりくりしとっての、こりゃまたかわいらしい子じゃった。


「なななんだ、どうした」


 わしが動揺してそんなことを叫んだらのう、


「おじいちゃんたち、うしろに気づいてないの?」


 いい終わらないうちに若いもんがあいついで、奇声をあげつつ駈けだした。


「べつに悪いことはせんじゃろう」


「ううん。するよ。おじいちゃんにはしないけど、あの人はお肉を食べたのに、お山に登ったから罰を当てにきたの」


「あれ……やっぱり人間じゃないのか?」


「うん、山伏さんの霊なの。死んでからもずっと修行しなきゃならないんだって」


「おまえさんは……?」


 すると、知らない、といい残したきりその子は背中を向けて、茂みの中に入ってしもうた。


 草の搔き分けてみたが、もう姿が見えんくなっとった。


 いやはや……この子も変よのう。変、変。どう考えてもおかしい。


 わしはまた歩きはじめた。


 するとな、山伏が……ここで追いついたんじゃよ。ああ、例の山伏。天狗みたいな男な。


「やっと追いついた……残りのおふたりは」息を切らしていた。


「先に行ってしまいました」


「ああ……遅かったか。いま、小さな女の子がいましたよね」


 ええ、と答えるしかない。


「じゃあ、先に行った人を追いかけます。失礼します」


 そういって山伏は駈けだしていった。若いのふたりと違って、その足取りの見事なこと、ほれぼれするくらいじゃった。


 狸や狐じゃなかったのか。女の子は山伏の霊ともいっとったが……と、わしはなにがなんだかさっぱり分からんかった。


 山を下りきって神社の前までくると、若いもんが倒れとったが、意識ははっきりしとった。


「山伏がこんかったか」


 すると、ふたりとも、


「やめてくださいよ」と泣きそうな顔でいった。


 どうやら山伏はふたりに追いついていないらしい……むろん、わしが山伏を追いこしたとは考えにくい。


「おまえさん、きのう肉を食わんかったろうな」


「食べてませんよう。食うなっていわれたから、我慢したんだから……カップ麺で我慢したんで」


「あのなあ、カップ麺にも肉が入っとろうが」


「ああ、そういえばそうですね」


 わしは、ガックリきちゃった。


 もうそいつには参拝させんで鳥居前で待たせておいて、わしともうひとりの若いのとでお参りをすました。


 その後、おかしいことはなんもなかった。


 このお山には、肉を食ったつぎの日に登っちゃいけん。そういう教訓じみた話じゃ。

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