恋愛実践学
ちえ
後編
待ち合わせの30分前には、映画館に着いた。
加奈子は、そわそわして落ち着かなかった。
スマホのオフにした画面で前髪やネックレスの位置を、最高の状態で会えるように何度も何度もチェックをした。
麻友に習って、初めて化粧もした。ファンデーションを塗っただけで急に大人になった気がした。つい、自分の顔を見つめていると、麻友に「ほら、時間がないから進めるよ」と怒られた。
目元はピンク系のアイシャドウにアイラインを引いて、マスカラもつけた。チークを塗って口紅をつけたら、さっきまでの自分の顔と別人で、急に恥ずかしくなった。
洋服も、いつもはデニムが多かったけれど、今日はスカートを履いた。これも、麻友に借りた。
膝丈の白いフレアスカート。制服でスカートは慣れているはずなのに、私服として履くと妙に落ち着かない。
靴下がなくて、ストッキングに七センチのヒールを履いているからかもしれない。普段、そんな高い靴は履かない。せめて三センチのパンプスくらいだ。麻友が気を利かせて、ヒールの幅が広い靴にしてくれた。それでも歩きにくいけど。
10分前になった。緊張とそわそわはピークに達してきた。
目の前を通り過ぎるカップルを羨望の眼差しで見とれたり、行き交う人の中に土屋先輩が混ざっているんじゃないかと気が気でなかったりしていた。
ぼーっと、人の流れを眺めていると、「ごめん、待った?」と反対側から声をかけられた。
加奈子が振り返ると、土屋先輩が立っていた。黒のジャケットにインナーはVネックのシャツ。下はデニムを履いていて、靴は、明らかに学校の通学靴よりも高そうな革靴だった。
制服姿の何十倍もかっこよくて、大人っぽくて、加奈子は自分が惨めな気持ちになった。付け焼き刃で化粧なんかしちゃって。履きなれないヒールなんか履いちゃって。この人の隣を歩くなんて、恥ずかしくて泣きそうだった。
あー、今すぐ家に帰りたい。
加奈子が切に願っていたとき、ふいに土屋先輩が微笑んで、言った。
「今日、学校で会ったときと雰囲気違うね。すごくかわいい」
「え?!」加奈子は顔が赤くなるのがわかった。チークを塗っていてよかったと思う。「あ、ああありがとうございます」
土屋先輩は、追い打ちをかけるように「もしかして、照れてる?かわいいね」と言って笑った。
加奈子は、頭が真っ白になって、これ以上土屋先輩の顔を見ることもできなくなって、うつむいた。嬉しさで心臓だけがドクドクとうるさかった。
「加奈子ちゃんは、ポップコーンは好き?」
「え、あ、はい」
「よし、じゃあ、買いに行こうか」
そう言って、先輩はポップコーン売り場へ向かった。加奈子は後を追いかけながら、映画のチケットは買わなくていいのかな、と思った。ポップコーンを買ったら訊いてみよう。
ポップコーン売り場の前は長い列ができていた。やっぱり、カップルにばかり目がいってしまい、私たちも側から見たらカップルに見えるのかな、と想像して、照れた。
「加奈子ちゃんは、何味が好き?」
「えっと、キャラメルです」
「お、本当に?俺もキャラメルが一番好き。気が合うねー」
先輩が加奈子を見て笑う。目尻と頰のシワがくしゃっとなる笑顔。加奈子はきゅん、と胸が締め付けられて、「はい」と笑いかえすことしかできなかった。
回転率が早いようで、あっという間に順番が回ってきた。
「ドリンクは決まっている?」
加奈子が頷くと、先輩は店員に注文を始めた。「ポップコーンペアセットください。味はキャラメルで、ドリンクはコーラと」
「あ、オレンジジュースを」
ペアセット。その響きにまた、きゅん、とした。
先輩といると、心臓が忙しない。
注文をして、すぐに商品が準備された。お会計を告げる店員にお金を出そうとしたら、先輩に右手で制された。
戸惑う加奈子をよそに、先輩はさっさと自分の財布からお金を出して払ってしまった。
「先輩、あの、お金・・!」
「いいの、俺も男だからね」土屋先輩は、ポップコーンを片手に、もう一方の手でジャケットのポケットを探り出した。「はい、これ映画のチケットね」
加奈子は、差し出されたチケットを受け取る。こんなスマートな対応の男の人を生で見たのは、しかも自分が実際にやられるのは、生まれて初めてだった。
「ありがとうございます」
ドルフィンズは、水族館のイルカが主人公のアニメで、幼いイルカが人間と触れ合いながら、最後は立派なショーを成功させる、という話だ。
ネタバレも混じったあらすじによると。
見たかったのは本当。でも、映画に全然集中できなかった。
映画館の椅子は、思ったよりも隣の席が近くて、ポップコーンを食べる手がたまに当たって、ドリンクを取った時に腕が当たって、とにかくずっと緊張していて、意識はずっと先輩の方にあった。
ゴツくて大きな手がポップコーンをつまんで口元へ運ぶ。
手を、つなぎたい。
ふと、そんな気持ちになった。映画館の暗闇がそうしているのか、先輩との物理的距離だけじゃなく、心理的距離も近くなった気がして、そんなことを考えてしまっていた。
だから、映画が終わった後に、「おもしろかったねー。俺、つい泣きそうになっちゃったよ」という先輩の言葉には曖昧に笑ってしか反応できなかった。邪な気持ちになってしまった自分を恥じていた。
映画の後、ご飯を食べにいって、そこでもうまく会話ができなかった。喉が、何かが詰まったようにすぼんで、言葉を発するどころか、食べ物も喉を通らなかった。ドキドキドキ、と胸の鼓動だけが大きくなっていた。
今度こそ払おうと思っていたお金も、また出させてもらえなかった。
お店を出ると、外はもう暗かった。
「先輩は、電車ですか?」
ようやく、やっと、先輩の顔を見て声を出せた。
今日がまだ終わってほしくなくて、外が暗いのも後押しして、聞くことができた。
「うん。加奈子ちゃんは?」
「私も、電車です」
暗闇にいると、映画館で思ったことがフラッシュバックして、恥ずかしくなってきた。きっと、いま、顔が赤い。
駅に向かって歩きながら、先輩が加奈子の手を握った。
不意打ち、だった。
「・・・?」
先輩が何かいった。でも、頭が真っ白になって、よく聞き取れなかった。
「加奈子ちゃん?聞いてる?家はどこ?」
「あ、すみません。え、えっと、〇〇駅です」
「お、俺ん家も同じ方向だよ。帰ろっか」
先輩は、駅に着くまで手を握っていて、電車を降りてからもまた手を繋いだ。
加奈子は、抵抗することもなく、むしろ嬉しさを感じながらそれに応じた。
先輩は家の前まで送ってくれて、来た道を戻っていった。
加奈子は、すぐに麻友に今日起こったことを報告した。麻友は同じ気持ちで興奮してくれた。「やっぱり対応がすごく大人だね」という返信に、「でしょ?」と得意げになって返した。
先輩にもすぐに連絡をした。「また、遊びに行きましょうね」と送ると、「もちろん」と返事がきた。
先輩との未来が見えた気がした。
その後先輩とは何度か連絡をして、夏休みに入って、遊ぶことになった。
LINEで、またおもしろい映画を観に行こうという話になって、でも観たい映画がなくて、どうしようか、となった時に、先輩が言った。
『俺ん家来る?DVDいっぱいあるよ。夏休みの宿題もできるし、どうかな?』
先輩の家!
加奈子は、『ぜひ!お願いします!』とすぐに返信をした。
先輩の家に行けるなんて、嘘みたい。
楽しみな感情だけが、加奈子の胸を埋め尽くしていた。
先輩の家は、加奈子の家から駅五つ分隣だった。
電車で20分くらいの距離で、近かった。
大きなマンションだった。20階以上はありそうで、横も何部屋あるのかわからない。リゾート地の海辺の側に建っているホテルのようだ。
一軒家の加奈子には馴染みのないオートロックに先輩の部屋番号を指で押す。
『はーい』
と少しくぐもった先輩の声がして、自動ドアが開いた。
エントランスもソファが置いてあったりお花が飾ってあったりして、まるでホテルのようだった。
加奈子は緊張したまま、エレベーターに乗り込んだ。
先輩の家の前まできて、一呼吸着いてからインターホンを鳴らした。
「ようこそ。入って」
先輩は、Tシャツにデニムというラフな格好だった。
「お邪魔します」
玄関は4人くらい立っても余裕があるくらい広くて、リビングに続く廊下も、リビングも、モデルルームのように綺麗だった。
テレビは、リビングの壁に取り付けられており、153センチある加奈子の身長よりも横幅が広いのでは、と思うくらいに大きかった。
「今日、誰もいないからさ。ゆっくりくつろいで」
テレビの前にあるL字型のソファを指しながら先輩が言った。ソファの前のテーブルには、お菓子とジュースが置いてあった。コーラとオレンジジュースだった。それだけで、加奈子の心臓の音はまた加速する。
先輩は、テレビの方に向かって歩く。テレビの周りにある棚の扉を開けると、そこにはぎっしりとDVDが並んでいた。
「俺のオススメでもいい?」
「は、はい!」
加奈子の返事を聞くと、先輩は早速DVDをセットし始めた。
リモコンを片手に加奈子の横に腰掛けた。
ち、近い・・・・
手すりのあった映画館の時とは違って、少しでも動けば腕がぶつかりそうな距離で、加奈子は硬直した。
また、映画に集中できなかった。
どうやら、アメリカの凄腕の詐欺師の話で、シンガポールに宝石を盗みにいく話のようだった。
何分くらい経ったかわからない。シンガポールに着いて警備をすり抜けているから、中盤はいっているだろう。
先輩が、動く気配がした。
そして、加奈子の肩と先輩の腕が、しっかりと触れた。そのまま先輩は停止する。
体が強張る。肩に全神経が集中していた。
離れたいけど、離れたくない。このままくっついていたい。
加奈子が葛藤していると、先輩の手がソファに置いていた加奈子の手に覆いかぶさった。
!?
加奈子は、震える体で、そっと先輩の方を見た。
先輩は、加奈子を見ていた。ふふ、と微笑んで耳元に顔を近づけて囁いた。
「加奈子ちゃん、かわいい。髪の毛、いい匂いするね」
完全に、加奈子の思考は停止した。
先輩の顔が耳元から正面に移っていて、気がついたら、唇に柔らかい感触を覚えていた。
キスをした。
それすらもわからないくらい、先輩の動きはスムーズでスマートだった。
先輩の手が、加奈子の服の中に入ってきた。片方はブラウスの裾から、片方は、スカートの中に。ゴツくて大きい手が、加奈子の肌を撫でる。
加奈子は、何も考えられなかった。
いつの間にか、ブラウスは剥がれて、ブラジャーを露わにしていた。
先輩の右手がブラジャーのホックをパチっと外そうとした時だった。
浩太郎の言葉が、脳内に蘇った。
「男なんて、ワンチャンあるかもって思いながら女を見ているんだよ」
急に、我に返った。
「やめてください!」
「え?どうしたの、急に」
戸惑う先輩を両手で押し飛ばした。
加奈子は、慌ててブラウスを着た。
「加奈子ちゃん?」
「すみません。私、帰ります」
玄関に向かう加奈子を先輩が追いかける。
「ちょっと待てよ。何があったの?嫌だった?優しくするから」
加奈子は廊下で立ち止まって、振り返った。
「先輩、私のこと好きなんですか?」
「もちろん。好きだよ」
「じゃあ、付き合う気はあるんですか?」
先輩は、一瞬たじろいだ後、優しい声で答えた。
「うん。いいよ」
「じゃあ、なんで付き合う前にあんなことしたんですか?」
「え・・」先輩は明らかに狼狽していた。「それは、、ごめん。俺、加奈子ちゃんのこと好きだよ。だから、機嫌なおして、あっちに戻ろ?」
ずるい。先輩の優しい声に、加奈子の心は揺らいでいた。
その時、玄関のチャイムが鳴った。エントランスじゃなくて、すぐ目の前の。
「ちょっと、ごめんね」
そう言って、先輩がドアを開けると、綺麗な女の人が立っていた。肩まである髪はサラサラのストレートで、青と白のストライプのノースリーブのワンピースに、すらりとした白い脚。
加奈子とは真逆の、大人の女性だった。
「ごめん、祐介。昨日、カーディガン忘れちゃって。あら、ごめんなさい。お取り込み中だった?すぐに帰るわね」
女性は言葉通り、寝室からカーディガンを取ると、さっさと帰っていった。その足取りは迷いがなく、何度もここに着ていることがわかった。加奈子は、ただただ呆然と女性を眺めていた。
一気に気持ちが冷めるのがわかった。
帰る前に、女性は先輩の耳元で囁いた。加奈子にははっきりと聞こえていた。
「私の胸じゃ不満だったのね。いいおっぱい見つけたわね」
先輩の顔も、もう何も言えないくらい蒼白としていた。
加奈子が靴を履いて玄関を開けようとしたときに、ようやく、苦し紛れのような声を発した。
「散々奢ってやったし、自分から寄ってきておいて一回もやらせてくれねえのかよ。これだから、処女はやりづれえんだよ」
加奈子は、何も応えず、玄関を出た。
帰り道、悲しくなんて無いはずなのに、無意識に涙が溢れてきた。
事のいきさつを麻友に報告した。本気で心配してくれて、その気持ちが嬉しくて、加奈子の心を軽くしてくれた。
そうして、先輩とのことは、加奈子のファースキスは、黒歴史となって、そっと忘れるつもりだった。
浩太郎にバレるまでは。
油断した、完全に。浩太郎が、「最近、例の先輩とはどうなったんだよ?」とか、「そろそろ迫られたりしてねえか?大丈夫か?」なんてしつこく聞いてくるから、忘れようにも忘れられず、思わず言い返してしまった。
「先輩とはもう終わったの!あんたの言う通りだったわよ。これで満足?」
「何があったんだよ?」
加奈子は、これまでのことをすべて話した。
聞き終わった浩太郎は、はあ、と呆れたようにため息をついた。
「ほらな、やっぱり、言わんこっちゃない」
「ムカつくけどね、今回はあんたのお陰で難を逃れた。ありがとう。もう先輩のことは忘れるから、ご心配なく」
「いや、忘れんな」浩太郎は真剣な顔をして言った。「お前はバカだから、きっとまた同じ過ちを繰り返す。ま、いい勉強になったと思えばいいんじゃん?」
そう言って、浩太郎は何やらノートに書いてページを破って加奈子に手渡した。
加奈子は受け取って、激昂した。「浩太郎〜?!」顔を上げると、そこにはもう浩太郎の姿はなかった。怒られることを察した浩太郎は、すでに遠くまで逃げていた。
加奈子も、今回は見逃すことにした。今回は、浩太郎の言うことが正しかった。
加奈子はもう一度ノートを見た。
『・彼氏じゃない男に奢られるな
・簡単に男の家に上がりこむな
・付き合うまでは絶対に隙を見せるな
・優しくてスマートな男には気をつけろ
・男は好きじゃない女ともヤレる』
加奈子は、傷をえぐられる思いで読む。
情けないなあ、と思いながらも、最後までやられたわけじゃない、と自分を慰めて。
女は、好きじゃない相手とは恋愛なんて考えられない。
でも、男はヤレるなら好きじゃない相手にも優しくできるんだということを学んだ。
よくドラマで観る、女は関係をはっきりさせたがるけど、男は曖昧な関係を続けたがるのは、そういう心理だったのか。
加奈子はきれいにノートを折りたたんでカバンにしまった。
顔を上げて、真っ直ぐと前を見て歩き出した。
これがきっと、いい恋愛をするための教訓になると信じて。
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