死んだ日常を生きる世界

朝の光


 最期に見たのは、いつもより少しだけ背の低く見える見慣れた自室の家具たちと、薄暗い部屋をさらに薄暗く見せる、自分の長い前髪だけだった。足の下に置いたミニテーブルが僅かにギシギシと軋んでいて、その音は最期の音だった。

 日暮れの淡い光を窓から少しだけ招き入れているその部屋に感慨などなく、ましてその他の場所には興味すらなく、軋むミニテーブルにのみ労るようにそれを足元から解放して、そこからの意識はぷっつりと途切れている。

 それが最期だった。

 それが、最期である筈だった。





 チョークに黒板が叩かれる、とうの昔に聞き飽きた音が再びにして耳に届き、少年はのろのろと顔をあげる。誰がどう見てもそこは授業中の教室の中で、少年は珍しくも眠ってしまっていたようだった。

 教壇に立つ教師が、よく通る声でなにかを話し出す。少年はそれを聞こうともせず、腕の下に敷いていた閉じたままのノートを、いつも通り開かずにぼうっと見つめ、ゆっくりと動き出した寝起きの頭で思考を巡らせた。

 ……何故自分はここにいる? つい先ほど……かは解らないが、自分は確かに死んだ筈なのに。

 あれが夢だったなんてまさか、信じられる筈もない。だが、今目の前に展開されている悲しいほどにいつも通りの日常もまた、夢ではなく紛れもなく真実。なぜ、死を選んだ自分がここで授業を受けているのか、少年には全くもって理解が及ばない。

 ……まあ、いいか。

 どっちが夢かは知らないが、どちらにせよ自分がこうして思案にくれているということは、自分は生きているのだろう。そうであるならば、やることは一つのみ。もう一度世界を絶つことだ。

 それにしてもこれは不思議なことだが、それにすら興味なんてものはないのだから、どうだっていい。ただ、この日常を絶つことができるのなら、それでいい。

 少年は退屈を感じ、閉じたままのノートを手に取り、開こうとしてやめた。

 勉強が将来のためと言うなら、将来のない自分にそれは必要ない。やったってひたすらに虚しいだけなのだ。生きないのに、生きるためのことをするのは。

 だから、少年は再びノートの上で腕を組み、そこに頭を乗せて、意味もなく教師の声をその耳へ流し続けた。



 授業は終わり、ねえ、という自分を呼ぶ声がするのを聞き取る。それを無視する少年に、おーい、生きてるー? と、おどけたように訪ねる声。つまらなさげに、生きてないよ、とだけ内心で返した少年は、やはり主だった反応を示さずに机へ突っ伏している。どうせ誰か同級生が次は移動だなどと言い出すのだろう、そう予想はついているし、それでなくてもろくなことではない筈だから。

「ね、起きてるんだからなんか言おうよ? 死んだ柏木くん」

 どこか楽しげにかけられたその言葉に、弾かれたように少年は顔を上げた。そして、眼前に立つ恐らく同級生であろう少女を視界に納める。

「やっぱり起きてるじゃんかー」

 不満げに、但し冗談めかして怒ったふりをした少女は、へらりとした笑顔をその顔に貼り付けて少年を見下ろした。それから少年に返答する間を与えずに続けて、

「まさか、私以外にそんなことする人がまさか同じ学校の同じ学年にいたなんて、思ってもみなかったよ」

 そう説いた。少年は少女を見上げながら考える……つまり、この少女も、自分と同じく自殺を図ったと言うのか。唖然として少年は、何も言わずに少女のおどけたような瞳を見つめる。すると、少女はさらに笑みを濃くしてにっこりと笑顔を作った。

「やだなぁ見つめちゃって。なんで俺はここにいるんだーって訊かれても、私が知るわけないじゃんか? まあ強いて言うなら、天国だと思うけどねっ!」

 あはは、と微かな笑い声を交えて、少女はくるりと回転して教室の出口へ向かう。すでに教室には誰もおらず、少女の笑い声は小さくもよく響いた。時計を見やると、次の授業が始まりチャイムが鳴るまで残り二分を指している。

「次、移動だよ。早くしないと遅れるよ」

 そんなことを口走りながらもその手には筆箱すら持たず、少女は元気よく、タタッと教室から出ていった。

 茫然と開きっぱなしの横引き扉に目線をあてがう少年は、一人残される。席を立とうとする様子もなく、無音に帰した教室の中に沈み込むように。


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