第73話「その命、もういらないのか?」

 身体に力が戻った晴翔たちはみんなでリビングに降りていった。

 炎怒たちではない。

 晴翔たちだ。


 おそらく最後の夕食になる。

 任務が失敗した場合はもちろんだが、成功した場合もだ。


 翌朝七時に降りていくが、世話になった挨拶をするだけだ。

 そのときにはもう朝食も必要ない。

 午前中のうちに兜置山中腹、最初に出会った〈あの大木〉に戻る。


 そこで晴翔との約束を履行し、今回の任務が全て完了する。


 だから夕食が終わるまで交代を待つことにした。

 一家にも晴翔にも、最後の思い出になるように。

 その間、炎怒は一人、部屋に残って煙っていた。


 静かだった。

 一階から人の声があまりしない。

 だが、初日のような不穏な感じはしない。


 四人がそこに揃っている——

 そのことを噛み締めているような、そんな穏やかさだった。


 やがてトン、トン、と晴翔が上ってきた。


「ありがとう」


 一言礼を言うと右手を差し出した。


 炎怒はその手を見ながら、

「時間が残り少ないのは確かだが、みんなともう少し居ても良かったんだぞ?」

 と気遣う。


 晴翔は少し微笑み、

「大丈夫」

 と右手を下げなかった。


 交代したら、あとはずっと炎怒が身体を操ることになる。

 次に晴翔が自身の身体を動かすのは、大木のところであの日の続きを再開するとき。

 言わずとも、晴翔自身がそのことをよく理解しているはず。


 もはや何も言うまい。

 炎怒はそうか、と差し出された右手を握った。


 交代した炎怒は風呂に入るために下りていった。

 これから悪魔退治に挑む。

 決戦だ。


 だからといって特別変わったことはしない。

 普段通りに過ごす。

 飯を食い、風呂に入り、いつもの場所で寝るのだ。


 それに今日、晴翔はたくさんの浮遊霊に絡まれた。

 その穢れを洗い落とすためにも、いつも通りに入浴する。


「これからどうする?」


 妖怪退治や悪魔祓いの小説や漫画をたくさん読んできたが、これから同行するのは本物の悪魔退治。

 初めて行くその現場でまごつきたくない。邪魔をしたくない。

 晴翔は一緒に浴槽に浸かりながら、これからの予定、退治の一連の流れを尋ねた。


「少し早いが、今日はもう就寝する」


 明朝七時まで身体を寝かせておくというさっきの話だ。

 浮遊霊たちに襲われないよう、部屋に結界を張るとも。

 ちゃんと聞いていたので覚えている。


「就寝した身体から出て、光原家に向かう」

「——っ! 光原だったのか!?」


 衝撃的だった。

 中岡か光原という話を、久路乃さんと炎怒でしているのを聞いてはいた。

 しかし正式に光原だと断定されるとショックだった。

 なったばかりとはいえ、友達だったから。


「退治したら光原はどうなる?」

「わからない」


 意外な答えが返ってきた。

 退治経験豊富そうな炎怒でもこうなると断言できないことがあるのか。

 だから晴翔が考えて、最悪のケースを想定してみた。


「……死ぬ?」

「それもあり得る」

「それ『も』? 他にも何か可能性が?」


 生身の人間に悪魔のような強大な霊が入っているのだ。

 死ななかったとしてもただでは済まない。

 何が起きても不思議じゃない。


 まず心が砕けて廃人になるのは避けられないだろう。

 既に入られたときになっているかもしれない。

 悪魔を退治したら操る者がいなくなるから、本来の廃人に戻るだろう。


 話は途中だったが、炎怒はいつも通りに風呂から出た。

 長風呂はしない。

 髪を乾かし、風呂場を後にする。


 リビングは静かだった。

 いつもなら夕食を終えた俊道さんがテレビを見ている時間なのだが、その音もしない。


 ——テレビどころではないか。初恵さんも洗い物どころではないだろう。


 炎怒が気にしても仕方がないこと。

 これからの任務に意識を向け、階段を上っていった。


 トン、トン、トン、ト……


 視界いっぱいの階段が終わり、二階廊下に立つ六本の足が見えてきた。

 俊道、初恵、渡。

 みんなで見送りに集まっていたのだ。


「兄貴、いや、炎怒さんか? 頑張れよ!」

「晴翔、ぼんやりして炎怒の邪魔をしないように気をつけるんだぞ」

「おいしい朝ご飯作って待ってるから!」


 それぞれ思い思いの言葉をぶつけてくるので、さすがの炎怒もたじろいだ。

 一度に言われても答えられない。


 困った炎怒は、

「伝える」

 とだけ答えて部屋に入った。


 扉を閉めると複数の足音が遠ざかっていった。

 いよいよ出陣のとき。

 横たわって炎怒も霊体に戻るため、ベッドまで歩こうとする。


 だが……足が動かない。


 横で晴翔が扉を見つめていた。

 そのせいだった。


 しかしそのことを叱りはしない。金縛りも掛けない。

 なぜなら——


「晴翔」


 扉一枚隔てたすぐそこで声がする。

 初恵だ。


 残念ながら晴翔の声は彼女には聞こえない。

 代わりに炎怒が答えた。


「さっきのことなら伝えるが、他に何か?」


 廊下で扉越しの声を聞いた彼女は悟った。

 声は同じだが、扉一枚向こうにいるのはさっきまで食卓を一緒に囲んでいた息子ではないと。


「晴翔のこと、くれぐれもお願いね。その子、体は大きくなったけど怖がりだから」

「善処する」

「それから、最近、夜は冷え込むようになったから風邪を引かないように、ちゃんと——」

「顎まで布団を被り、保温状態に留意する」

「あ、そうだ! あとそれから——」

「初恵さん」


 ハッとして黙ってしまった。

 でも黙りたくない。

 会話を続けなければならないのだ。

 会話が続いている間、息子は生きる。


 任務の障害は排除する——

 この家に来てからの鬼の口癖だった。

 この会話の引き伸ばしは出陣の邪魔。

 だから止められてしまったのだ。


 それでも最後に一番伝えたかった思いを扉を貫いて伝えた。


「朝ご飯を食べに必ず帰ってきなさい!」


 扉のこちら側、晴翔は固まっていた。

 固まりながら答えた。


「————っ!」


 しかしその声は届かない。

 現実の声ではないから空気を振動させることができない。


 炎怒は一瞬迷った。

 迷ったが、一飯の恩どころか、何食もこの身体の維持に協力してくれた功労者。彼女のため、伝えることにした。


 晴翔はこう言っていたのだ。


「頑張ってくるっ!」


 それに対しての返事はなかった。

 代わりに外側から、扉の表面に密着した何かが滑り落ちるような音が。

 続くすすり泣く声。


 扉に掌を当てて話していたが、その状態のまま崩れ落ちたのだろう。

 いまのはその掌の音か。


 晴翔は直立したまま俯いている。

 炎怒は扉を背に立ち尽くす。

 扉を挟んだこの親子が落ち着いてくれるまでどうしようもない……


 一〇分ほどそうしていただろうか。


「頑張ってね」


 そう言い残して初恵は下りていった。


 ようやく身体の自由を取り戻した炎怒は扉以外の部屋中に結界を張り巡らす。

 残る扉は晴翔と一緒に廊下に出て、外側から張るのだ。


 準備が終わった炎怒はベッドに横たわり、目を瞑る。

 すぐに寝息を立て始めた。


 今更だが、晴翔は静かに眠っている自分自身を見下ろした。

 いつも後ろから付いていっているので背中ばかり。

 就寝時は交代するが、身体からの目線なので客観的に全身を眺めたのは初めてだった。


 初めて対面した自分自身の印象は——

 テストの点数が表す通りの人間だと思う。

 平均点のやや上。

 他者が押し付けてくる身勝手な期待や要望に応えられるはずがない。

 そんなものに振り回されることはなかったのだ。


 人間の寿命が八〇年位だとして——

 まず何をするにも保護者の許可を要する子供時代を除く。

 日常生活を送るのに若者の助けを要する老人時代も除く。

 あと仕事や生活の時間を除いたら、本当に自分が意図した通りに使える時間はどの位だろうか?


 その限られた短い時間の中で、人は夢を叶えたり、学んだりする。

 その時間のことを人生というのだ。

 ……あまりにも短すぎる。

 自分がやりたくないことをやっている暇などない。


 他者の身勝手な期待や要望に従うということは、その他者の都合に自分の人生を捧げるということ。

 ずっと怒られないように、周囲の機嫌を取ることに、ひたすら捧げ続けてきた。

 そんな自分は人生を一日たりとも生きてこなかった。


 命は人生を生きるためのもの。

 自分の人生と何の関係もない誰かの都合のために使うなら、それは命の無駄遣い。

 気づかないうちに命を粗末にしていた。


 だから鬼が来たのだ。

「その命、もういらないのか?」と。


 自分の人生を生きないなら、そんな命はいらないだろ?

 こっちで有意義に使ってやるからよこせ、と。


 もちろん炎怒や久路乃さんがそこまで意地の悪いことは考えていなかったと思う。

 でも、憑代とは自分の意図に反して、他者の言い成りになって動くものだと解釈するならば、炎怒に声を掛けられるずっと前から——


 自分は既に誰かの憑代だった。


 晴翔はもうすぐこの世を去る。

 炎怒の任務が成功しようと、失敗しようと。


 いま、ようやく生きるということの意味を理解した。

 誰かの憑代になどなっていないで、しっかりと自分の人生を生きなければならなかったのだ。


 だから生きる。

 自分の人生として選んだのだ。

 一五年間の憑代人生の集大成——

 死ぬ前に天の使いの憑代として最後まで協力することを。


 決心がついた晴翔は枕元に近づいて膝をついた。

 ゆったりと閉じられた瞼を眺めながらポツリと呟いた。


「一五年、付き合ってくれてありがとう。ちゃんと生きられなくてごめん」


 晴翔は晴翔に別れを告げた。

 直後、それを待っていたかのように身体からフワッと炎怒が離脱してきた。


「待たせたな、晴翔」

「それじゃ行こうか、炎怒」


 二人は扉をすり抜けて廊下に出た。

 炎怒は外側から扉にも結界を張り、完全に密閉した。


 もう振り返らない。

 炎怒と晴翔は風のように弘原海家を吹き抜け、玄関から夜の喜手門に出陣した。


 誰もいなくなった部屋。

 壁際のベッドで穏やかに横たわる晴翔の身体——

 その閉じた目から涙が一筋流れた。

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