第61話「自我」
——弘原海君が完全に落ちた。
悪魔は晴翔の涙を見て、そう確信していた。
再び光原の姿に変化。
俯いたまますすり泣く晴翔の前にしゃがみ、両手で晴翔の右手を握りしめ、優しく慰めた。
「いまの話は君がわかってくれなかった場合の話だよ。でもこれで契約せ——」
バッ!!
晴翔は、悪魔の手を全力で振り払った。
制服の袖が空気を払いのける音が悪魔の言葉を遮る。
「…………」
〈間〉は静まり返り、話し声と入れ代わるように無言の驚きが満ちた。
驚いているのは悪魔ではない。
笑みが消え、ひんやりとした能面のような無表情になった。
驚いているのは炎怒だ。
いま隣にいるのは、ついさっきまで見知っていた晴翔ではない。
彼の目には怯えも迷いもない。
正面から悪魔を見据えていた。
「どういうこと? 弘原海君」
悪魔は瞬時に中岡の姿と声になって威圧する。
しかし無駄なことだった。
隣で見ている炎怒にはわかる。
晴翔の全身から断固たる意志が満ち溢れていた。
無駄な威圧を続けようとする悪魔に向かって、晴翔は砲弾のように自らの意思を撃ち出した。
「断るっ!!」
強烈な断固たる拒絶。
それを至近距離で撃ち込まれたから堪らない。
顔面を粉々に砕かれた悪魔は破片を撒き散らしながら吹っ飛び、そのままガラスを突き破って車外に投げ出された。
実際の運行中にそんなことが起きたら緊急停止だが、ここは〈間〉だ。
何事もなく走り続ける。
車内に残された二人。
割れた窓ガラスから戻ってくるかもしれない、とぼんやり眺めていた。
しばらく待っていたが、結局、悪魔はそのまま帰ってこなかった。
「炎怒」
「ん?」
名前を呼ばれて我に帰った炎怒が振り向いた。
「久路乃さんから止められていたのに、また任務の邪魔してごめん」
「あ、ああ……気にするな」
なんとか凌いでもらいたいとは願っていた。
それがまさか追い払うとは……
予想外の出来事だった。
晴翔が突然強くなった。
悪魔に心の傷を抉られて、苦しんでいるようにしか見えなかったが。
彼の中で一体何が起きたのか。
炎怒は急な変化についていけず戸惑う。
しかし、そんなことは御構い無しに晴翔の話は続く。
あの悪魔の目的が理解できた。
みんなの劣等感を煽って自滅させたり、自棄を起こさせる気だ。
僕ほどじゃないとしても、みんな何らかの失敗をしてきているはず。
そのことをさっきみたいにジワジワ抉られたら、この街の人たちはみんなおかしくなる。
「炎怒は他の憑代に乗り換えて、必ず任務を成功させて欲しい」
「他って……おまえはどうするんだ?」
たとえ炎怒が晴翔から離れようとも、人間達を扇動して〈魔女狩り〉を始めるだろう。
自殺しようとまで追い詰められたいじめ、それが子供の悪ふざけだったと感じるほどの迫害が待っている。
逃げ場はない。
「ここで契約を解除しよう」
初めて見る炎怒の困惑した表情。
解除しようという真意がわからない。
そんな炎怒に晴翔は自らが考えたこれからのことを語った。
僕が不甲斐なかったから炎怒が目立ってしまった。
だからここで契約は解除して、炎怒と久路乃さんは僕から離れてくれ。
そうすればあいつが僕に何をしようと空振りだ。
空振り——
ようやく炎怒は計画がわかった。
あの悪魔はこちらの主たる憑代を晴翔と断定している。
だから迫害を続けて弱った頃、必ず炎怒を引き摺り出して退治しにくるはず。
他の憑代に移っている炎怒にとって、そのときこそが悪魔を討ち取るチャンスだ。
これが晴翔の考えだった。
つまり囮になるという申し出だ。
覚悟の決まった目だった。
対して炎怒は迷う。
瞼を閉じ、背もたれに寄りかかって思案する。
任務はほぼ失敗と言っていい。
先にバレてしまった以上、晴翔の案は正しい。
晴翔がボロボロにされていくのを他の憑代の中から眺めながら、悪魔が直接引き摺り出しに来るのを待つのだ。
退却はしない、任務は必ず成功させる、というなら晴翔を犠牲にするしかない。
しかし……
自問自答を繰り返す。
いや、自問自答というよりむしろ堂々巡りか。
晴翔は覚悟を決めたのに、使いがうじうじしていては始まらない。
その焦れったい迷いを車内アナウンスが打ち砕いた。
「まもなく立ヶ原——」
炎怒はゆっくり目を開く。
結論が出た。
「契約は継続する」
炎怒は晴翔と共に立ち向かう道を選んだ。
もちろん中岡たちのことは不明なままだし、竹光についても不可解なままだ。
形成不利だが、まだ諦めるときではない。
「降りるぞ。晴翔」
「うん」
列車は減速し、立ヶ原駅のホームに滑り込む。
転落防止扉の前で綺麗に停車するとドアが開く。
そこはいつも見慣れた立ヶ原駅のホームだった。
降りる人達と乗り込む人達が混ざり合う、いつも通りの夕方の喧騒。
驚いた晴翔が振り返ると、そこにはこの時間帯らしい満員電車の光景。
二人は現実の立ヶ原に帰ってきた。
ホームの時計を見ると、五分程しか経っていない。
体感としては三〇分位乗っていた感覚なのだが……
〈間〉——
晴翔が初めて体験したその空間は不思議なところだった。
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