第53話「初恵の地獄」
炎怒はうんざりしていた。
二階からは言い争う声。一階では脅迫を織り交ぜながらの弱者の理論。
この一家は動と静の落差が激しすぎる。
初恵は炎怒が二階へ行かなければならない、と必死に説いているが、それが本心でないことを知っている。
いつまでも聞いていられない。
「どうもあんたは夫や息子と関わり合いになりたくないように見える。それなのに仲裁はしたいのか?」
指摘された初恵は思わず、ハッとする。
人から指摘されて気がついた。
自分の本音を。
「関わりたくないなら、殴り合いになっても放っておけばいいだろう?」
ごもっともな意見だが、首を横に振る。
関わり合いになりたくない。
だから騒ぎを起こしてもらいたくないのだ。
怪我をされると、先日のように手当や付き添い等、否応なしに関わらなければならない。
「そこまで自分の家族が鬱陶しいのか?」
「家族……か」
初恵はそう呟くと、自分を蔑むように悲しげに笑った。
「炎怒さんには理解しにくいことかもしれないけど——」
前置きに続いて語られたのは、生きている限り続く地獄。
いま身を置いている弘原海家という地獄の話だった。
初恵は寿退社した。
本当は仕事を続けたかったが、家のことを任せたい、という夫に従った。
結婚はそれまでの環境を激変させた。
懸命に適応しようと努力する横で、夫はいままで通りの環境を維持しようとする。
理不尽だと思ったが、世間でもそのような話はよく耳にした。
自分だけではないのだと諦め、それなりに平穏な日々を続けていた。
ところが三年前、夫は専業主婦を食わせてやっている、と軽んじるようになった。
この家の家事全般を熟してきたのに——
聞き捨てならない暴言に、そう反論した。
しかし夫は一笑に付し、「現金が手に入るわけではない」と強調し、それがないのだから家事は仕事ではないと言い切った。
以来、好きな料理を作っても喜ばないし、家事をどれだけ頑張っても満足せず次々とノルマを課してくるように……
出来なければ子供の前でも御構い無しに咎めるから、子供達がそんな父親の姿勢を見習う。
——仕事もしてないのだから、家事くらいできて当たり前。
それが弘原海家の男たちの合言葉だった。
「いまは家族全員から軽んじられている」
そう吐き捨てると、渡の部屋で揉めているであろう二人を天井越しに睨んだ。
その目には薄らと涙が滲んでいた。
炎怒はテーブルに置いてあるティッシュの箱を取り、初恵の方に差し出した。
「……ありがとう」
受け取り、そのティッシュを目に当てた。
「だいたい——」
涙を拭い、話を続けた。
だいたい、彼らは人をを軽んじられるほど立派な成果を出しているのか。
夫は出世の見込みがなく、家事放棄の口実にした仕事がそんな有様なのに今だに
威張り続けている。
息子たちは稼ぎ自体ないし、家の手伝いもしない
何の役にも立ってないのに主婦の務め、母親のくせに、女のくせにという夫の口癖を倣う。
主婦なんだから家事くらいできて当たり前——
だったら、サラリーマンなんだから出世して当たり前、学生なんだから一〇〇点が当たり前じゃないのか。
「威張りたいなら、【私の犠牲に見合う出世と点数を示せ。示せないのに、こちらに完璧を求める彼らが嫌い】。そうでないと私は納得できない」
彼女の声と炎怒に聞こえる心の声が、重なって聞こえた。
炎怒はこの家に来てから彼女が笑っているところを見たことがなかった。
笑えるはずがない。
命ある限り続く地獄なのだから。
「主婦業でも何でもない仲裁役などやってられない」
私に迷惑がかからないように、どちらでもいいから男に行ってきてほしい。
もう彼らの世話などしたくないが、後々私の非にならないようにやっているだけなのだから。
初恵は自らの話を、そう締め括った。
炎怒は最後まで遮らなかった。
おそらく誰にも打ち明けることができなかった彼女の思い。
炎怒が何のしがらみもない部外者だから、正直に話せたのだろう。
いまは少し落ち着いた表情になった。
「それ、男たちに伝えたか?」
「え?」
「いまの話を夫や息子たちに伝えたか?」
初恵は軽く首を横に振りながら鼻で笑った。
炎怒を笑ったのではない。自分の置かれている境遇に対してだった。
「都合が悪くなったら力に頼るのが男。弱い女の言う事など伝わらない」
「伝わらなくても、正面から言ったことは?」
苦々しそうに目を逸らす。
言わずともその態度が語っていた。言ったことはない、と。
「一度は正式に伝えるべきだ。理不尽だと表明することに意義がある」
「そんなことして、一体どんな意味が……」
さっきまでと違い、炎怒は最後まで言わせなかった。
知らせた瞬間から、相手は知りながらやったことになる。
忘れていたと言い訳する余地は残るが、その場合も非は相手にある。
自分に非がないよう万全を期す、というならば尚更相手に知らせるべきだ。
それでもやはり初恵は、炎怒の話を取り合わない。
現実はそんな理屈通りにはいかない、と。
「力の弱い女の言うことなど、耳を貸してくれないと何回言えば……」
「それだ」
また彼女の言葉を遮り、真っ直ぐに指差した。
「な、何?」
「あんたは弱者ではない」
初恵はこの鬼の言う意味がわからない。
弘原海家唯一の女性。おそらく渡より筋肉量が少ないだろう。
その私が弱者ではない?
炎怒は差していた指を下ろす。
「あんたは相手を脅して従わせ、従わなければ腕力で叩きのめす人間だ」
突如糾弾され始めた初恵だったが、心当たりはない。
一寸考えて、あえて挙げるならば、子供が小さい頃に頭を叩いたことがあるくらいか。
それも頻繁ではない。
反論された炎怒はそんなに昔ではない、と打ち消した。
「つい最近、夫を使って晴翔を叩きのめしたではないか」
「それは夫がしたこと——」
学生なのに学業が疎かになっていることは非難されるべき。
家長に報告すべきだから、そうしたまで。
夫を介して暴力を振るったなどと心外だ、と抵抗する。
決して認めない初恵に炎怒は、
「報告後に何が起こるか、あんたは知っていたはずだ」
「——っ!」
炎怒の意見を悉く切り返してきた初恵だったが、これには言葉が詰まった。
……たとえ僅かでも、殴られればいい気味だ、と思っていたのは事実だったから。
項垂れる初恵の頭頂に向かって炎怒は、
「力に頼らず、力を言い訳にせず、正面から言い分を伝えてこいよ」
——力を言い訳にせず、正面から……
初恵はゆっくりと頭を上げて心配を口にする。
それでも女のくせに生意気だと……手を上げられたらどうするのか、と。
「その時は正直に生きたらいいじゃないか」
自分に対して正直に生きる。
それは——
家事は現金収入がないから仕事ではない、というならその仕事というやつをやりに行けばよい。
結婚前はそうしていたのだから。
そもそも仕事ではないというのだから、出来栄えについて文句を言われる筋合いはないし、聞く必要もない。
家事に心が籠っていないというなら、あくまでも生活のために仕方なくやってるだけ。嫌いなおまえらに心など篭るはずがないと言ってやればいい。
出て行けと言われたら、ありがたく解放してもらえばいい。
家事を押し付けてきた男三人、刻々と荒れていく家であんたのありがたみを思い知るだろう。
三人だけで上手く家事を熟せたら、それはそれでいいだろう。
あいつらのことは気にせず、自分の人生を正直に生きていい、ということなんだから。
炎怒が初恵に言いたいことは、こういうことだった。
初恵は途中から俯いて聞いていた。
落ち込んでいたのではない。
確かに話している声は晴翔のものだし、内容は炎怒が考えたものだったのだろう。
でも、まるで自分の前にもう一人の自分が座り、普段は誤魔化して考えないようにしている本心を思い起こさせ、再確認しているような——
そんな錯覚に陥っていた。
俯くだけでなく、目も瞑って聞いていた初恵。
彼女の中で何か決心がついたようだった。
開かれた目には力が宿り、さっきまでの生ける屍のようだった初恵ではなくなっていた。
「片付かないから早く食べちゃいなさい」
食べかけだった炎怒の茶碗を見ながら、そう言うと彼女は立ち上がった。
リビングを出て二階へ向かう。
トン、トン、ト……
階段を見ながら上っていた初恵は視界に足が入ってきたので、次の段に足をかけたまま止まった。
見上げると、そこには気まずそうな夫と渡が立っていた。
そういえば、一階にまで響いていた怒声がいつの間にか止んでいた。
いつからそこにいたのか知らないが、リビングの話を聞いていたようだ。
「…………」
俯いたまま誰も何も言わない。
カチャ、カチャ、ゴトッ……カチャ——
リビングから炎怒の食事の音が聞こえてくる。
茶碗と箸が鳴るその音が、場の静寂を余計に際立たせた。
「…………」
我が家の尊大な男達がすぐ目の前にいる。
言ってやりたい文句が山程あった。
だが——
「片付かないから早く食べて」
それが出てきた言葉だった。
彼女の本心を知った俊道は一言、「すまん」と謝りながら降りていった。
普段なら「家長に向かって!」と激昂するところ。
しかし今日はそうならなかった。
頻繁に怒鳴り散らしていた俊道は昨日、自分の気持ちに気がついた。
元々、家族の上に君臨したかったわけではない。
ただ素晴らしい家族になりたくて、苦言のつもりだった。
それが逆に相手を傷つけていたとは知らなかったのだ。
いや、その知らなかったということ自体が既に傷つけているのだ。
色々含めて出た謝罪の言葉だった。
三人はリビングに戻り、夕食を再開した。
相変わらず会話はなく、食事の音だけが続く。
初恵からおかわりの茶碗を受け取った俊道が、
「洗い物は俺達でやっておくから、後はゆっくりしていていいぞ」
「……!」
初恵は驚いた。
少し恥ずかしい俊道は、茶碗のご飯を見たまま視線を合わせない。
渡と目が合うと、自分も父に同じと頷いた。
「ありがとう。それじゃお願いします」
初惠は嬉しそうに礼を述べながら、リビングを後にした。
彼女がいなくなったリビングで黙々と食事は続く。
炎怒は先に食べ始まっていたので一足早く終わり、お茶を啜っていた。
ふと俊道の視線に気付く。
「何か?」
「いや、別に……」
言わないなら気にしても仕方がないので、炎怒は再びお茶に口を付けた。
言えなかった。
この鬼はうちに来て今日で五日目、夫である自分は今日で何千日目だろう?
そんなに長く一緒にいたのに、初恵の苦しみに気づいていなかった。
それどころか、タダ飯を食わせてやっているのに感謝の心が足りない、と反感を抱いていた。
……正してやろう、と思っていた。
置かれている立場をわからせてやろう。
躾は痛みを伴うもの。
多少の理不尽は仕方がないと正当化していた。
何も知らずに我こそが正義、と威張り散らしてきたのだ。
このままさらに年月が経ったら、離婚されていたことだろう。
聞こえてきた初恵の話は、その気配を感じさせるものだった。
みっともなくて何も言えなかった。
「あんた、すごいな……」
「何が?」
「…………」
一体、何のことかわからずに炎怒は首を傾げるのだった。
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