第50話「落ちこぼれと間抜け」

 炎怒がやってきてから五日目の朝を迎えた。

 家の中はどんよりとしているが、外は清々しい晴れのようだ。


 いつもと変わらない無言の朝食、終えた順に会社や学校に出発していく。

 俊道が最初、次に炎怒、そのすぐ後に渡が続いた。


 炎怒が靴を履き終わる頃、渡も玄関に腰掛けて気怠そうに靴を履き始める。

 別に掛ける声もなく、先に出ようとドアノブに手を掛けた時だった。

 渡がボソッと呟く。


「シカトすんなよ……」


 肩越しに振り返ると兄を上目で睨みつけていた。

 よくも言いつけやがって、というならともかく、なぜそう言われるのか心当たりがない。

 第一、睨みつけている相手は誰なのか。

 渡はカンニングの一件で兄と入れ替わったことを知っている。

 その文句の対象は自分か? それとも兄か?


 渡の方に完全に向き直り、シカトしているわけではないことを伝える。


「おまえは晴翔を嫌っているし、俺も用がないだけなんだが?」


 返答がない。

 こちらが話し始めたら、靴に視線を落としてシカトをしてくる。


 カンニングをバラしたこと以外で不満があるなら、検討する用意はある。

 一体、何についての不満なのかを探ろうと、さらに続けた。


「シカトしているわけではないから、俺に話があるならいつでも聞くし、兄にも伝えるぞ」


 だが、対する渡からは一方的な拒絶が返ってくる。


「うぜぇ」

「なら現状で良いじゃないか。何が不満なんだ?」

「…………」


「うぜぇ」からは何も読み取れない。

 改善点も示さず、ただ一方的に目障りだと申し渡してくる言葉。

 文句があるならちゃんと言えばいい。

 兄と違って、生きているのだから。


 炎怒は中学生の反抗期か、と理解した。

 言い方は悪いが、カンニング小僧のご気分など構っていられない。

 このやり取りも確実に兄の命を削っているのだ。


「シカトするなと言うおまえが、いまシカトしているよ。話がないならもう行くぞ」


 再度ドアノブに手を掛けようとしたとき、読心が渡の急な攻撃予定を知らせる。

 炎怒はすぐに上半身を左に傾けた。


 バァンッ!!


 炎怒の後頭部があった空間を、青い何かが唸りを上げて通り過ぎた。

 渡が教科書や体操着を入れたサブバッグを投げつけてきたのだ。


「っ!? ……この化け物っ!」

「シカトというか、カンニングを暴露した事を怒っているのか?」


 炎怒を睨みつけ、怒りに震える渡。

 いまにも襲いかかってきそうな剣幕だ。

 ようやく「うぜぇ」に込められた不満がわかった。


「こちらの任務を妨害されなければ、この家に口を出すつもりはなかった」

「だったら引っ込んでろよ! なんで余計なことしやがった!?」


 余計なこと、というならばそれは渡の宿題だ。

 晴翔は黙って従っていたのかもしれないが、炎怒には従う理由がない。

 ただの任務の邪魔だ。


 渡は一瞬言葉に詰まった。

 しかし相手は格下の兄、言われっぱなしで負けてはいられない——

 と、サボり抜いてきた優秀な頭脳を総動員して考えた。


「兄貴の振りというなら、てめぇも大人しく従っていれば良かったじゃねーか!」


 とんだお笑い種だ。

 こんなものは屁理屈とも呼ばない。

 あの夫婦と違い、こいつを庇ってやる理由はないのだ。


 ——そういえば、こいつの脳みそは小学四年生だったな。


 一つ一つ噛み砕いて分かりやすく説明しなければならない。


 おまえの宿題は家の中だけの秘密だったはず。

 こちらはあくまでも周囲に健在と見せかける範囲で晴翔の振りをしているにすぎない。

 だから代行してもその役には立たない。

 そもそも不正行為だ。


「落ちこぼれに役目を与えてやってたんだ! 黙って従ってればいいんだよ!」


 その後に続く暴言は酷いものだった。


 兄貴の様な出来損ないは、いるだけで肩身が狭かった。

 いなくなって清々した。

 一度失敗したからって諦めず、完璧に死ねるまで何度でもチャレンジしろ。


「てめぇ、まじでいらねーんだよ。いまから首吊り直してこいよ!」


 晴翔はドアのすぐ外で学校や職場に向かう人たちを眺めているようだった。

 炎怒の脳裏にその光景が浮かんでくる。

 それでいい。

 もうこの家のことには関わらないほうがいい。


 身体を借りるときに宣言した。

 借りる以上は、その身体が置かれている境遇も一緒に借り受け、こちらで対処する、と。


 ——これよりその〈対処〉をする。


 炎怒は晴翔のように優しくない。

 必要と判断したら、躊躇わずに晴翔の能力や情報を行使する。

 相手が傷つこうと、一つの家庭が崩壊しようと……


「兄さんはいじめやおまえらのことで悩んで、成績下降中だったが、まだ落ちこぼれというほどではなかった」


 だから——


 中学生なのに小学五年生程度の学力しかない優等生から、役目を与えてもらう必要はない。


 どういう死に方をするかは、兄さんと俺が決めること。

 おまえに口出しする権利はない。


 落ちこぼれの兄を「まじでいらねー」というが、その落ちこぼれに宿題をやってもらっていたおまえはこれから誰にやってもらうんだ?


「うるせー! ぶっ殺してやる!」


 何も言い返すことができない渡はとうとう逆上し、炎怒に殴りかかった。


 バッグ投げつけの後も、険悪な状況が続いていたので、読心を発動させたままだった。


【振りかぶった右拳を兄貴の左頬に打ち込む】


 炎怒は、その通りに殴りかかってきた渡の右手首を取り、捻り上げた。


「……っぐっ!」


 動きを封じられ、呻き声を上げながら逃れようともがく。

 離せ、と怒鳴りながら兄の顔を睨みつけると、渡は驚いた。

 目を丸くしたまま動きが止まる。


 兄の顔が炎怒の顔になっており、右額の生え際から一本だけ角が生えている。

 渡の目にはそう映った。


「うるさいガキだ——」


 子供を二人とも亡くしたら気の毒だ、とあの夫婦に遠慮していたが、生きたまま霊魂を引っこ抜いて地獄に捨ててこようか……


 そう、恐ろしい内容を呟く声も、兄のものではなかった。

 両親から聞いていたが、正直、半信半疑だった。


 ——こいつが炎怒……兄貴と入れ替わった……


 このとき、ようやく渡も入れ替わりというものを理解できたのだった。

 いまこの瞬間まで、ダメ兄貴が二重人格になった位に考えていた。

 しかし、そうではないことを目撃してしまった。


 兄貴と全く違う別人が家にいる……

 その事実に渡は戦慄した。


 どうしてくれようかと思案する炎怒と、想像だにせず戸惑う渡。

 そんな二人が揉めている玄関に初恵がやってきた。

 二人の揉め事がリビングまで聞こえてきていたのだ。

 渡の「死ね」という内容の暴言も。


「渡、学校には連絡しておくから少し落ち着いてから行きなさい」


 下の息子の腕を捻り上げている炎怒には、

「晴翔……いえ、炎怒さんは先に行って」

 と、渡を離して登校するよう勧めた。


 炎怒は了承した。

 捻り上げている渡の右腕を、初恵の方に向かって投げつける。


「わっ!」


 体勢を崩されていた渡は初恵に受け止められた。


 渡は、なんとも無様だった。

 ちょっと前まで優等生として、兄の上に君臨していたのに……


 親は知らないだろうが、暴力も振るってきた。

 兄貴を一方的に叩きのめしてきた。

 もちろん相手は高校生。まともにやったら敵わない。

 しかし自分はこの弘原海家の希望の星。


 こちらから手を出して、兄が反撃してきたら、親に言いつければよい。

 勉強していたら、いきなりお兄ちゃんが部屋に入ってきて僕を殴った、と。

 あとは親父が何も考えず、思惑通りに動いてくれる。


 これでもう何をされようと、兄貴は無抵抗でいるしかない。

 そうやって、宿題をやるように躾けてきた。


 ——すべてうまくいっていたのに、こいつが現れてから……!


 かつての優等生は母に受け止められたまま、恨めしそうに炎怒を睨む。

 その恨みの視線を浴びながら、炎怒はドアノブに手を掛けた。

 外で晴翔が待っているから早く行かなければならない。


 だが、読心を発動したままだった炎怒にその恨みの声が届いていた。

 任務に不要な干渉はしないと決めていたが、あまりにも腐り果てた内容——

 渡に腹が立ってきた。


 ドアを開けようとしていた手が止まる。

 何を言うつもりかわかった久路乃が止めるが、親子に向かって振り返った。


「ひとつ言い忘れていた」

(渡君は良くないけど、さすがにその先は……)


「何?」

 と、渡に代わって初恵が返した。


「俺も兄さんも、おまえを落ちこぼれ呼ばわりしないから安心しろ」

(炎怒!)

「おまえは落ちこぼれなんかじゃない」


 意外な言葉に渡と初恵は戸惑ったが、これは温情ではない。

 では、何なのか?


「おまえは間抜けだ」


 二人は唖然として炎怒の言葉を呟く。


「間抜け……」

「渡が間抜け……?」


 俄かには受け入れがたく、反芻しているようだったが、炎怒には関係ない。

 俊道をこてんぱんにした追撃。

 それがいま渡に向けられた。


「不正の道は気が休まらない日々が続く、孤独で険しい道だ」


 やらないのが一番だが、もし不正を働くならどんなに些細なことも疎かにしてはならない。

 秘密を知っている兄との関係を疎かにした。

 また、親にバレた時に備えて、試験後の正解を暗記しておかなかった。

 あまりにも杜撰だ。


「正直にテストに臨んだ兄を『落ちこぼれ』と呼ぶならば、誤魔化し損ねたおまえのような者を『間抜け』という」

「…………」


 二人は何も言い返さない。

 ただ、呆然として聞き入っていた。


「では、行ってくる」


 ようやくドアを開けて出発することができた。

 晴翔と合流して自転車を漕ぎ出す。

 朝からちょっとした修羅場だったが、五日目がこうして始まった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る