第七話 尾行

 待ち合わせは事務所に十一時。

 あそこからなら、バスで二十分は掛からない。

 はいつも十二時前後に現れるし、お弁当を食べる時間もあるから、こちらの準備も余裕――のはずだったのに。

 約束の時間から十五分を過ぎてるけど、まだ事務所へ向かう途中。スカイツリーを背にして、いつもの川沿いの道を歩いている。マフラーをしたまま走ると汗かいちゃうから、少しだけ急ごう。


早目九時にメールしてもらったのに。怒ってるだろうなぁ」


 どうやって誤魔化そうか考えながら事務所のドアを開けた。


「遅ーい」


 予想通り、不機嫌そうな声が迎えてくれた。


「ごめーん。シャワー浴びてた」


 満面の笑顔作戦、てへぺろ付きを発動する。


「まったくぅ。メールしたときに起きればいいのに。どうせ二度寝してたんだろ?」

正解せいかーい。それにね、乙女は出掛ける支度にも時間が掛かるのよ」

「こういうときだけ、女子力を出してくるんだから」


 わたしが握り締めた右の拳を、素早く大きな右手で抑えてくる。


「腹パンはいいから、すぐに行くぞ」

「ふぁーい」


 口を尖らせながら低い声で応え、外へ出た。


「留守番よろしくお願いします」とおじさんが事務所の奥へ声を掛けると、フリーセルで遊んでいるパソコンから目を離さずに、ユキさんは無言で左手を挙げた。




 区役所のホールへ入ると、時計は十一時四十五分になろうとしていた。

 住民票などの発行に来ているのか、今日もたくさんの人が長椅子に座っている。


「どう、まだ来てない?」

 おじさんが振り返って小声で尋ねた。


「まだ来てないみたい」

 さらに小声で返す。


 どうしよう、チョー緊張してきた。

 よく考えてみれば、相手は尾行を警戒しているわけないし、しんとした場所でもないからこそこそ話さなくても大丈夫なんだけどね。


「あれが例の電話台かぁ」


 おじさんの視線の先には木製の台が、ホールの片隅にぽつんと残されている。


「あれは車いす利用者兼用で作られたタイプだね」

「そうなんだ」

「奥行きも五十センチほどあるだろ。車いすの車輪が入るだけの空間スペースをとってるんだ。高さも座って使うのにちょうどいいようになってる」

「さすが、元建築士さんだけあっていろんなことを知ってるよね」


 おじさんはちょっと嬉しそうに黙ったまま微笑んだ。

 ご丁寧に椅子まで置いてあるし、あらためて見てもお弁当を食べるにはもってこいの場所に思える。


「ね、あそこからなら入り口もカウンターの中も見渡せるでしょ?」


 ホールにいる人の動きを確かめながら、おじさんはうなずいた。


「売店の人には話してあるの?」

「うん」

 目があったおばさんに向かって胸の前で小さく手を振ると、おばさんも小さく手を振ってくれた。



「それじゃ、この辺に座って待つとするか」

「なんか、ドキドキするね」

「ただ行き先を確認するだけだから。容疑者を追うわけじゃないからな」

「でもさ、ワクワクするじゃ――あっ、来た!」


 来るはずだと分かっていたのに驚いて大きな声を出してしまった。


「今、入ってきた人がそうだよ」


 声を小さくして、濃いグレーのスーツを着た小柄な会社員を目で教える。

 こうして見ると五十代後半ぐらいなのかな。

 おじさんは若く見えるから歳のことなんか気にしていないけれど、ひょっとしたら同じくらいなのかもしれない。


「このまま、スマホでも見てるふりをしてな」

「わかった」


 おじさんは文庫本を取り出して、あの人の様子をうかがっている。

 わたしたちが注目しているとは知らず、コンビニの袋を持って定位置の電話台に座り、おにぎりとペットボトルのお茶を取り出した。

 何か考え事でもしているのか、正面の壁を見つめながらゆっくりとおにぎりを頬張っている。



「この後、どうするの?」


 なんとなく顔を上げないようにして上目遣いになっちゃう。


「いつもは食べ終わるとすぐに帰るの?」

「うーん、ちょっと分からないなぁ。ずっと見てるわけじゃないから」

「そっかぁ。もし役所の中を移動するようなら、俺がついていくから朋華はここに残って。

 もし俺が彼を見失ったら、ここから外へ尾行つけて行ってね」

「マジ!? うー、何か緊張するー」

「大丈夫だよ。まだどう動くか分からないんだから」


 どうかおじさんがあの人のことを見失ったりしませんように。



「あっ、どこか行くよ」


 食べ始めてから十五分ほどが経ち、ゴミをコンビニの袋へ入れてあの人が立ち上がった。


「それじゃ、待ってて」


 うわ、いよいよだ。緊張しながらうなずく。

 あの人が歩き始めてから一呼吸おいて、おじさんが立ち上がる。

 ゆっくりと歩きながら、あの人の背中から視線を外さない。ほんとに探偵ぽくって、ちょっとだけカッコいい。

 廊下を曲がって二人が見えなくなった。


(どうしよう。あの人だけ戻って来たら……。)


 もうスマホなんて見ている余裕はない。


 ものすごく長い時間だった気もするけど、きっと一、二分だったのだろう。

 おじさんが苦笑いを浮かべて戻ってきた。


「どうしたの?」

「トイレだったよ」

「なんだぁ。もうヤバいよ、緊張して」


 長椅子からずり落ちるように脚を伸ばしてもたれかかった。

 顔を天井に向けて目を閉じ、深く息を吸い込む。


「ほら、いつ戻るか分からないからちゃんと座って」


 おじさんに言われて座り直す。

 しばらく待っていると、再びあの人が現れた。

 電話台へは向かわずにホールを横切っていく。


「外に出るぞ」



 わたしたちも立上り、外に出た。

 陽射しがあるので思ったより寒くはない。


「人通りも多いから、近づいても気づかれないだろう」


 その言葉にほっと安心した。

 離れて尾行したら見失っちゃうんじゃないかと心配してたから。

 約五メートルほど離れてあの人の後ろを二人でついていく。


「どこまで行くのかなぁ」

「そんなに遠くまでは行かないと思うよ。歩いて三、四分くらいじゃないかな」

「えっ、そんな近くなの? でもあの人、お仕事していないんじゃ……」

「鞄を持っていないだろ。リストラされていても仕事をしているふりをするなら、鞄も持って家を出ているはず。いま持っていないということは、どこかに置いてあるからさ」


 あっ、確かに。


「トイレに来ることもあるということは、ここからそんなに遠くないはずだよ」


 うわ、マジ探偵みたいな推理じゃん。 

 いつも腹パンされているおじさんとは思えない。

 信号待ちの際にはすぐ後ろまで近づいた。


(大丈夫なの?)


 ドキドキしながらこっそり聞くと、いたずらっぽい笑顔が返ってきた。

 信号が青に変わってからゆっくりと渡り始め、またあの人との距離をとる。

 そこからさらに三分ほど歩き、大通りに面した建物へあの人は入って行った。


「ここって……」

 見上げた建物は、わたしには意外な場所だった。

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