42 終生根を張ってくれる場所
ラジオから流れてきた流行のポップミュージックでハモりながら高速道路も駆け抜け、最初の目的地の田沢湖に到着した。目的地とはいっても読み聞かせが目的ではなく、観光目的でスケジュールに取り入れた場所だった。
田沢湖に来たのは小学六年生のころにミニバスの試合の帰りに寄って以来だから、じつに六年ぶりになる。駐車場は湖畔にほど近く、コバルトブルーの湖面はきらきらして、湖なのに砂浜のある波打ち際では大人も子どもも水遊びに興じていた。
「すごいね、こんなに綺麗な湖だったんだ。海みたいなのに山に囲まれてて変な感じ」
「向こう岸には辰子像がありますけど、そっちは正直ガッカリポイントなのでこっちがおすすめです。あっちでスワンボートの貸し出しやってるけど乗りますか?」
指をさした方向に透子さんが顔を向けると子どもみたいに目を輝かせて、少し不安げだ。
「スワンボートって沈まない?」
「暴れないかぎり沈みませんよ」
なら乗ってみる、と勇気を出してくれたおかげで彼女も人生初のスワンボート乗船となった。湖に繰り出してペダルを踏み込むと案外重かった。ふと周りを見ると魚がボートについてきていた。
「ボートに近づけば餌がもらえるってわかってるんですね」
透子さんはボートから顔を出して魚たちに、ごめんね、餌は買ってないんだよ、と謝った。ふだんから子どもと接しているからだろうと思うが、魚たちへの感情移入の仕方がそれとまったく同じで少し笑ってしまった。
「透子さんって聖女かなんかですか」
ぽかんとした表情を浮かべる透子さんがかわいくて恥も外聞もかなぐり捨てて無性にキスしたくなってしまったが、餌を欲しがる魚たちを差し置いて独り占めするのもよくないと思って我慢した。
「透子さんってその気があってもなくても不憫な人相手にアンパンマンみたいなことしそうで心配なんですよね」
「そうかな。一時期ほんとにお金に困ってた時期あったけど水商売とかは絶対にしなかったよ。馬車馬のようにバイトをかけもちしてただけ」
「浮草みたいな人生続けてるとどこかで体壊したとき大変ですよ。それに、ある日車のなかで茹でダコになって死んでたとか、知らない人に車に押し入られてどうのとか聞くの、わたしほんと、絶対嫌ですからね」
そうして終生根を張ってくれる場所が自分のところであればいいのにと彼女は淡い期待を抱いた。
「そうだね。なにかの拍子に辞めなきゃいけないときはくると思う。事故とか事件とか病気とか、いろいろあるけどいまの私にはまだパッと想像できない。だからきっと辞める理由もいまはとくにないんだよ。心配してくれてありがとう」
本気で心配しているのにこの人はどうしたらわかってくれるんだろうと、やきもきした気持ちになったのはたしかだ。けれどその気持ちも透子さんが納得いかない方法で解消されたいわけではない。あくまで第一に透子さんの意思があって、次に彼女自身のわがままがあるだけだった。
スワンボートの持ち時間は三十分が限度だったので、そこで岸に戻ることにした。周囲にほかのスワンボートがないことを確認して、ペダルを漕ぎながらちらちらと気にかけると透子さんが気づいた。
「どうしたの、またキスしたくなった?」
「……なんでわかったんですか」
「興味ないのと鈍感なのは違うからね」
この人本当に恋愛したことないのか、という疑問が真っ先に頭に浮かんだ。けれど、恋愛にかまけている暇なんてなかったからわざと鈍感なふりをして避けてきたのだし、宮内さんに対してもそうに違いない。いわば鉄壁の鈍感だ。
「ちょっと待ってください。じゃあわたしのこといつから気づいてたんですか」
すると透子さんは「えっと」と漕ぐのをやめた。ペダルが重くなり彼女もやめる。
「白神山地から温泉行くとき花火見に行こうっていわれたとき、かな。読み聞かせの旅なのに花火持ち出して提案されたからもしかしてと思った。そのときはまだ漠然としてたけど、確信したのはやっぱりこのあいだのキスかな」
それから透子さんは続けた。
「したいならしていいよ」
にやりとした笑みを浮かべて挑発するように自身の唇を指さす透子さんは聖女から一転して悪魔のようで、挑発に乗ってしまったらそこで自分らしさが終わりになるような気がした。
「透子さんて欲求不満なんじゃないですか」
挑発で返すと「ちょっと恥ずかしいけど三十までに一度は経験しておきたい気持ちあるよ、やっぱり」に続けて「でもその相手は好きになった人がいい」と純情すぎることをいわれて、彼女のほうがめっぽう恥ずかしい気持ちになった。
「あの、透子さんってわたしのこと好きですか」
「そりゃもちろん好きだよ」
「中途半端な気持ちじゃいつまでたっても本当に好きな人なんて現れませんよ」
「なっちゃんは好きなだけじゃ足りない?」
足りないわけではないと思った。こと透子さんとの時間においてはこれが一番満ち足りた状況であるのはわかっていた。けれどもこの関係があと数日で終わってしまうことに関してだけは、どこまで考えても納得も妥協もできない。
「わたしは透子さんとの関係がいつかふつうで当たり前のものにしたいです」
ペダルを強く踏み込むと、重くゆっくりながらもスワンボートが進みはじめた。
「じゃあまずはなっちゃんが成人しないとね。そうすれば少なくとも大人と大人の対等な関係になれるから」
「そういう透子さんはわたしと関係続ける気あります?」
そこで透子さんが黙ってしまったことはいまでもずるいと思っている。透子さんという存在を一ヶ月以上見てきたものの、たいていの言葉には当意即妙に答えてくれて、過去を掘り返す言葉以外に窮したり黙ってしまうところはほとんど見たことがなかった。
大人は子どもに答えを急かしがちだけど大人は子どもの問いに黙ってしまいがちだ。別に難しい質問をしているわけではないのにそうなってしまうのは、大人は未来に対する恐れがあるからだろう。どうなるかわからないことに簡単にイエスとはいえない事情が大人にはとにかく多すぎる。ひるがえってこのときの彼女は、そんな事情なんてなにひとつ背負っていない子どもらしく、まっすぐに言った。
「わたしは透子さんのことめちゃくちゃ大好きですよ」
透子さんはそうしてようやく笑ってくれた。
「なんで笑うんですか」
笑いながらも漕ぎはじめてくれた透子さんのペースに合わせるように、彼女も回るペダルに歩調を合わせた。
「あはは。いやーさすが経験者から出てくる言葉は怖い。それって世間的にはプロポーズっていうんだよ」
「返事は? どうですか?」
はにかんだ横顔が湖面に映えて輝いて見えた。
「それもなっちゃんと別れるまでには伝えようかな」
「あと数日なのにどうして教えてくれないんですか」
そうはいっても透子さんはくすくすと耐えるような笑いを繰り返すばかりだ。うまくはぐらかされていると感じた寂しさは嘘ではなかったが、それ以上にやはりこの時間が彼女にとっては幸せなことだった。
「透子さん、やっぱりこの夏が終わったらまたどこかへ行っちゃうんですか」
「うん。行くよ」
間髪を容れずにいわれて胸に深々と刺さった感じがした。こういう部分は当意即妙に答えてくれなくていいのに、この人は本当に、好きなのか嫌いなのかよくわからない。
「透子さんこっち向いて」
懸命にペダルを漕いでいる透子さんがこちらを振り向いた。彼女は振り向きざまに触れるだけのキスをする。またぽかんとした透子さんだったが、「欲求不満なのはなっちゃんのほうでしょ……」と右手の甲を唇に当てて顔を真っ赤にしはじめた。
そんな透子さんのことを横目に彼女はペダルを踏みこんだ。やがてスワンボートは岸に着き、ワーゲンバスまで彼女はすんとした様子ですたすた歩き、透子さんは彼女の半歩後ろを付かず離れずの距離で歩いた。
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