36 灼夏の日射は衰えることなく
「私も一緒に泣いていい?」
言っている意味が理解できず、身じろぎして透子さんの顔を見ようとしたところで、肩口に濡れるものを感じた。
泣いている。
気づいたとたん、両肩を強くつかまれてシートに押し倒された。その目は涙を
溜まった涙に手を伸ばして指に伝わせると、人の涙に触るのは初めてだったことに気づいた。自身のものとは違う感触がする涙は生温かくて少し冷たい。
「ごめん」透子さんが言う。「情けない大人がわけわかんないこと言って」
強めに涙をぬぐっても綺麗な顔が崩れないのが心底うらやましいとひどく場違いなことを思った。そのまま透子さんは体を
「30手前が未成年相手になにやってんだろ。身動きとれなくて怖かったよね。ほんとごめん。まともじゃなかった」
透子さんの言っていることはもっともだったが、それでも不愉快さや気持ち悪さは特別感じなかった。それが証拠にはじまってしまった胸の高鳴りはなおも収まっていなかった。「気の知れたわたしだったからよかったものの、ほかの人だったら通報モノでしたね」とあくまで冷静なふりをしてそういうが、思いがけず友人の言葉が脳内で反芻され凝縮されつつあった。
憧れなんてすぐに──。
「ありがと。猛省する」
手の腹で涙を拭いとり、鼻をすすっているところに透子さんがしてくれたように「いまこれしかないですけど」とハンカチを差し出すと、すなおに受けとってくれて涙を拭きとった。
「意地悪だなあ。濡れてて冷たいんだけど」いかにも嫌々しそうな顔だが、声の奥には楽しさが見え隠れしていた。
「そりゃわたしも拭きましたから」
ハンカチを返されてバッグにしまう。時計を見れば時刻は午後5時を過ぎていて太陽はだいだい色に染まり夕日になりはじめていた。
「ちょっとタバコ吸っていい?」
「どうぞ」
サイドポケットからいつもの白い箱を取りだし一本くわえて火をつけた。じりじりと焼ける音がして白い煙と甘い香りが開け放した窓から逃げていく。窓のふちに肘をかけて気だるい様子で海を見た。五分もすれば吸い終わり、最後の煙を吐いて火を消したところで先に彼女が切りだした。
「透子さん海いきませんか。せっかく目の前にあるんだし」
「そうだねえ。日本海の夕暮れってきれいで。心が洗われるようだねえ」
シートに体をもたれかけて遠い目をした表情でそういう透子さん。放っておいたら魂が蒸発しそうな感じだったから手をとって無理やり外に連れ出し、熱をたくわえた砂浜に直接腰をおろした。
砂浜に腰かけ二人してぼんやり夕日を眺めていたいと、妄想のなかだけで展開されていた物語が現実に起きていることを思うと、透子さんの手を握るそれにもぐっと力がこもり、日中の熱をたっぷりとたくわえた砂をまきこんだ手はますます熱をもつ。
夕日の沈みつつある時分、といっても
横目で見た透子さんの横顔は夕日のせいでほの赤く染まっていた。さきほどまで涙を流していた目があかね色に揺らいで色っぽい。どこまでも大人と子どもの
憧れなんてすぐに──。
たかが18歳の女子高生が10歳も年の離れたお姉さんに抱く感情としてだって、どう考えてもまともじゃない。けれど、少なくとも彼女の人生のなかでは一等初めてのことで、しかも抗いがたく引き返せない感情だった。透子さんは一線を引いてくれた。だからこれからすることはすべて自分の責任なのだ、それくらいの判断はついた。この人はなにも悪くない。
「透子さん」
「どした?」
「あ、と。その」
キスしてみてもいいですか、なんて尋ねたときには引かれて口も利いてくれなくなるかもしれない。最悪ここに置き去りにされるかも。直前でそんなことを想像すると二の句が告げなくなる。手に汗が浮かんで「すみません。汗かいちゃって気持ち悪いですよね」と握っていた手を慌てて離そうとした。
「待って」
離そうと浮かせた手をぐっと引っ張られ距離が一気にちぢまる。顔が近い。緊張する。まつ毛の先がはっきりと見える。この人肌までめっちゃキレイだな、と感じたときにはもう遅かった。
触れ合うほどに近くなった唇に、彼女からそっと寄り添った。言葉のない会話が交わされ、やわらかな震えが伝わる。手に汗をかいているのは透子さんも同じだった。お互い強く握りすぎて張りついた砂が皮膚に食いこむ、そのざりざりした痛みも忘れ、気づけばきつく目を閉じて呼吸を止めていた。
唇が離れて顔を見た。気まずそうに視線を外し小さく結ばれた口がいじらしかった。
「もう一回。たしかめていいですか」
小さくうなずく。また触れ合う。今度はもっと深いところまで、そろそろと割り入って、口をひらいて受け容れられ、すすんでゆく。くたびれた甘い香り。吐息が絡み、もまれる、撫であうような心地よさ。さざなみの音の合間にときおりかすかな湿め音とため息が聴こえるたびに心臓が飛び跳ねる。
透子さんとこんなことしているなんて夢のようだった。夢じゃないから冷めないでほしいと心の底から思った。けれども、いろいろな音のなかに遠くから騒がしい人たちの声が聴こえてきたので、名残惜しさを感じつつ唇を離した。血色がよくなり湿り気を帯びてつやつやしていた。どちらのものともいえない喉の音がこくりと鳴って、そこでようやく我に返った。透子さんは唇に指を添えて、まだ頭の整理が追いついていないのか呆然としていた。
「その。言葉だけだと伝わらないと思って」
「……そうだね、二回目でやっとわかった」
その言葉の意味がよくわからず、彼女は遠慮のない物言いで尋ねた。
「もしかして初めて興味持ってくれたんですか」
虚空に視線を向けちょっと考えるような間のあとに透子さんは「なっちゃんが相手なら」とまんざらでもないふうに言う。「でも」その直後に弱々しく「これ以上、私をダメな大人にさせないで……」とも。それは重々承知していた。誠意を無下にするような真似は彼女もしたくはなかった。
握っていた手を離して砂を落としひざを抱えて三角座りになった。まぎれもない現実なのに、まだ夢心地でふわふわしていた。半分とけた太陽は水平線に落とした真っ赤なアイスクリームみたいで、すごくおいしそうだった。甘い香りがまだ口のなかに残っていることに気づいて、肩をすくめ、膝に顔をうずめた。
「夕日見てたらお腹すいてきたね」
「そうですね。同じこと思ってました」
おしりの砂を払い落とし立ち上がる。道の駅内にレストランがあるのでそこに移動し、せっかく海に来たのだからと浮いた昼食代で奮発して海鮮丼を注文した。わさび醤油をかけてほかほかのままいただくと心もお腹も満たされる。
別館の休憩室で少し休んでから車に戻り、晩酌の買い出しでいったんコンビニに向かい、それから早いうちにお風呂に入ってしまおうということになった。このときにはもう日はすっかり沈んであたりが暗くなりはじめており、落ちる日を見ながらの入浴にはならなかったが、日曜の晩、さいわいにも人は少なくのびのびと大風呂を楽しむことができた。
そして幸せな気分のまま倒したシートにもたれて彼女は眠りにつく。柔らかくて少し大きな手のひらに安心をあずけなから。
その日の夢は透子さんと旅をするものだった。旅にぜんぶは持っていけないからといわれ、透子さん以外のなにもかもを捨て去ってワーゲンバスで全国を回るものだった。たくさんの人とふれあって交流し、透子さんと寝食をともにしながら楽しい月日を重ねる。そうして最後には読み聞かせも引退して、二人で仲睦まじく暮らしていく。どんな後悔も責任も忘れてしまったような、真空のような夢だった。
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