32 さあ、もうあとには引けない

 そこで部屋の扉がノックされ、びっくりしながらSNSを閉じる。「はい」

「おはよう。部屋に入っていい?」

「おはようございます。どうぞ」

 透子さんがひかえめな感じで入ってくる。表情が心なしか暗い。時計を見ると時刻は8時半を回っていた。この時間になると家族はもう全員起きて活動しているころだ。透子さんの手にはメモ帳が握られていた。

「明日の読み聞かせについてちょっと打ち合わせしたいんだけど」

 彼女はうなずき透子さんをテーブルの向かいに着かせた。

「明日の読み聞かせの題材、ついさっき先方から『風と光と二十の私と』に作品を変更してもらいたいって依頼がきたの」

 見たことも聞いたこともないタイトルに首をかしげていると透子さんか続けた。

「坂口安吾って知ってる? 『堕落論』とか書いた人」

「ああ、それならなんとなく知ってます」とは言ったものの当の『風と光と二十の私と』という作品は知らなかった。すかさずスマホで調べてみるとウィキペディアのリンクは赤文字だったが、青空文庫で全文読めるようになっていた。

「明日の読み聞かせ、にかほ市のシニアクラブでやることになってるのは大丈夫だよね。で、変更理由そのものはなんだろうって聞いてみたんだけど、なんでもそれをリクエストした人の青春の一ページみたいで。それだったら題材的にもぴったりだし応えてあげたいと思ってるんだけど」

「いいと思います。わたしにも手伝えることありますか」

「そう、それでね……」あきらかに煮えきらない様子の声で話を続けた。「当日は高校生の子が付き添いですっていったら、じゃあその子に読んでほしいっていわれて」

「えっ。それは、どうして」

 いきなりそんなこといわれても戸惑うし意図がわからなかった。透子さんも同様らしく、ひどく申し訳なさそうな表情でちぢこまってしまっていた。

「ついさっき連絡がきてこっちも突然のことだから返事に困って。とりあえず本人に確認しますって答えちゃったんだよ。本当にごめんなさい。先方の意図も確認しないで直前にそんなこといわれて、受け入れられないよね」

 たしかに先方の提案はどう考えても急すぎてあまりほめられたことではなかったかもしれない。ただ、当時の彼女は大人の世界の不文律なんて知るよしもなかったし、指名されたのならむしろ光栄なことではないかと思ってしまった。不安な気持ちは当然あったにせよ、このときの彼女は人生経験の乏しさを横に置いてあらゆることに腹をくくりはじめていた。

「一万字以上ある作品だよ。朗読したらたぶん一時間そこそこかかる。なのに練習時間は今日しかないし、そもそも作品変更の連絡も前日で急すぎるし、それを読むのは慣れない高校生。正直ここはきっぱり断ったほうがいいと思う」

 こればかりは透子さんも苦言を呈するのをがまんできないようだ。けれど、彼女の腹は決まった。

「いえ、やります。理由は担当の方に会ってから聞きましょう。透子さん、読み聞かせの仕方教えてください」

 もとより能代市での読み聞かせ会で透子さんが電話で席を外したときに開始時間に遅れそうになって、自分がやらねばだれがやると一度はくくった腹なのだ。時間差でそれがやってきたのだと思えば決心するのはたやすい。

 彼女の決意を感じとったのか透子さんは少し呆気にとられたふうにぽかんとしていたが、みるみるうちに真剣な顔つきに変わって、やがてほころんであきらめたような笑顔が浮かぶ。

「わかった。やれるとこまでやってみよう」

 それから担当者に連絡を入れるためいったん部屋をあとにした。残された彼女はいつの間にか肩がこわばっていたことに気づいて力を抜いて深呼吸した。

 とんでもないことになってしまった。口からでまかせがすぎる。彼女は急いで青空文庫で出てきた作品にサッと目を通した。長い。初めて人を相手に読み聞かせするにしてはあきらかに長い。エッセイのような自伝のような作風はけっして絵本や童話のようにはいかないだろうし、文章そのものは平易で黙読するには読みやすいにせよ、一文が長かったりいまどきの言葉づかいでない言い回しもあってなかなか舌が回らなそうだ。ああ、どうして、とんでもないことになってしまった。

 そこで透子さんがぱたぱたと戻ってきた。「先方に伝えたよ。急なことで申し訳ないけどよろしくお願いしますだって」その顔は少しほっとしたような表情だ。

「さっそく読み聞かせの練習しよっか。少しずつ読み合わせてわからない言葉とかにふりがなも振っといたほうがいいし」

「それならお父さんの書斎で印刷してきます。透子さんは適当に待っててください」

「了解。じゃあ飲み物の準備とかしてるね」

 透子さんは母親に断って飲み物の準備を、彼女は父親に断ってPCの使用許可をとった。ソーイチは両親といっしょに土曜の情報バラエティ番組を見ながらゲームをしている。器用なものだと思いながら書斎へ行って青空文庫で印刷した。やはり紙になると見やすさも印象もだいぶ違ってくる。自室に戻ると透子さんが午後ティーのレモンを注いで待ってくれていた。

 最初はいっしょに読み合わせをして、わからない漢字にふりがなを振ったりその意味を調べたりする。章ごとにあらましをまとめて作品全体のテーマを捉え、どの章ではどういう読み方をすればいいのか透子さんがアドバイスし、それをふまえて透子さんが声に出して読み、最後に彼女が真似して読み上げる。そうして印刷した仮原稿の余白に読み方の補足や書き込みが増えていくのに気づくと、透子さんの教え方が上手なのはもとより、現国の授業もこういうふうに自分が丹精こめて読み上げるのだと思って取り組むともっと楽しめるのかな、などとふと思った。前向きな気分で練習するとあっという間に午前がすぎて、階下からソーイチのお昼ご飯を呼ぶ声が聞こえた。

 午前はいったんそこで休止ということで透子さんが先にキッチンへ行って手伝うらしい。透子さんが消えたあと彼女はベッドに放置していたスマホを手に取りふたたびSNSをひらいた。DMの記入欄に電話番号を入力し、『こちら自分のスマホの番号になります。ただ、諸事情あってそちらからのお電話は取れません。もし宮内さんのお電話番号を教えてくださればこちらからご連絡します。詳しいことはそのときに追ってお話します。このことはご家族や知人、警察などにはまだお伝えしないでください』そして『それで不都合がなければよろしくお願いします』と追記する。

 そこで一度ゆっくりと深呼吸し、意を決して投稿ボタンを押した。ぽこんとメッセージが投稿される。少し待ってみるが、既読はすぐにはつかなかった。

 さあ、もうあとには引けないぞ──彼女はうしろめたさを感じつつスマホをベッドに投げて階下へ降りた。

 昼食を終えて練習に戻り、夕飯の時間まで5時間まるまる練習すると酷使したのどがかるい痛みを訴えてきた。そのことを透子さんに伝える。

「これ以上やると本格的にのど痛めちゃうからあとはゆっくり過ごそう。私は夕飯のお手伝いで下に行くけどなっちゃんはどうする」

「あともうちょっとだけイメトレします。わたしも終わったら手伝いに行きますね」

 了解といって透子さんは階下へ向かった。捕捉と書き込みですっかり黒くなった仮原稿を前にして、彼女はなるべく声を出さず、透子さんが読んでくれた声を思い出しながらつぶやくようにして練習を繰り返した。

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