28 希望を描きだすためのカンバス

「あの、塩を運ぶロバのお話って知ってますか」

「イソップ童話の? 知ってるよ」

「わたしあのお話好きだったんです。塩を運ぶロバが川で転んで、塩が溶けて荷物が軽くなったのに味をしめて、それから何度も道中の川で転んだふりをするんです。それで、しばらくして御者の人が……」

「塩じゃなく綿めんを運ぶようになって、いつもみたいに川で転んだら荷物が何倍にも重くなるんだよね。イソップ童話ってそういうオチ好きだよねえ、子どもに教え諭すたんなる教訓じゃなくて、人間の心理を突くニヤッとするようなシニカルさがあるっていうか。でもどうしてその話が好きなの」

「いや、こんなこと言うと変かなあと思うんですけど、わたしそのロバがちょっとかわいそうだと思って」

 怪訝な表情を浮かべて続きをうながす透子さん。彼女は続けた。

「御者の人がロバに荷物を任せすぎたんです。最初から負担にならない程度に荷物を運んでいれば、わざわざロバが転んだふりして荷物を減らす必要なかったんですよ」

「いや、はは」と透子さんはからっと言い「なんというか、妙にリアリズムを感じる考察だ」と含み笑いをこらえている。リアリズムを感じる考察ってどういうことだろう、と思いながら彼女は紙コップをかたむけた。

「童話をそういうふうに考察するのって文学部っぽかったからなんとなくそう思ってさ。文学思想も文学部のこともよく知らないんだけどね」

 文学部っぽいと言われて最初はぴんとこなかった彼女ではあったが、少し考えてそれもありだなと思った。文学部を目指すのはそれどころかまったく悪くない。透子さんに出会うまで本からは遠ざかっていたがもともと好きではあったし、県内に文学部を擁した大学はなくても近隣県にはある。その場合はやはり国立大学を目指すことになるだろうから、競争率は高いだろうが、現状の成績なら勉強すればまだ間に合うだろう。

 急に降ってきた将来のビジョンに彼女は知らず心が躍った。自身の未来を想像することにわくわくするなんて久しく忘れていた感情だった。やればできる気がする、そんな春やかな熱を持った心がふわりと胸に広がった。

 バーベキューが終わって後片付けと炭の処理をしてから隣接する温泉に向かうことにした。当時の東北地方は夏といっても涼しい日も多く、山に近い場所であればあるほど過ごしやすい。そうは言っても動けば汗は流れるし、バーベキューの脂や臭いが染みついたまま明日を迎えるのもしのびなかった。体を洗ったり冷たいシャワーを浴びたりと湯船に浸かるのはそこそこにテントに戻って寝る支度をする。

 枕付きの簡易エアベッドにブランケットをかぶせただけの寝具だがキャンプでの寝心地は充分だ。アウトドア趣味の父親にそっと感謝しながらベッドのなかで仰向けになりながらスマホをいじる。透子さんは一本だけ余らせておいた缶チューハイを開けて飲みながら、肘をついて腹ばいになりながら明日読む絵本を黙読していた。しばし二人の息づかいと虫の音だけが聴こえる静かな時間が過ぎていった。

 スマホで眺めていたのは大学のページや偏差値の情報サイトだった。どんな学生像を目指しているか、なんの研究をしているか、どんな教員がいるか、日本、英米、仏独、東欧、東アジア、さまざまな学部学科があるなかで付随的に史学関連の科目も取り扱う学科が多い。現代文や古文はあまり得意ではないけれど、目指すからには得意に変えたいと俄然やる気に火がついた。

 不思議なことにこのときすでに彼女の内面には確実な変化が訪れていた。未来に対する恐れではなく、あれをしたい、これをしたいと、希望を描きだすためのカンバスは目の前に広がりはじめていた。

 そのうち透子さんが絵本の黙読をし終えて彼女に話しかけた。

「寝る前にスマホいじると目冴えない?」

「んーん、そんなことないです」

「そう……ねえ、ちょっと本読んであげよっか」

 眺めていた画面から目を外した瞬間に手から滑り落ちたスマホが彼女の顔面に落ちてきた。「いったっ!」と鈍い痛みに鼻先を押さえていると透子さんが笑いをこらえていた。「スマホ、ガラケーよりも大きいから手から滑り落ちてきやすいんですよ」苦々しくそう言うもこらえた笑いは止まらない。「いいですよ。お話、聞かせてください」

 透子さんは「ふたりぼっちの夜にぴったりのお話かも」とふふっと優しい笑みを浮かべてうんと手を伸ばしバッグを引き寄せた。手さぐりで引っ張られてきたのは古めかしい文庫本。ページをぱらぱらめくってピタリと止めた。

「『曠野こうや』、作者は小川未明。はじまりはじまり」

 小川未明は初めて透子さんに『木と鳥になった姉妹』を読み聞かせしてもらったとき以来だ。どんなお話だろうとスマホをかたわらに置いて耳を澄ませる。

「野原の中に一本の松の木が立っていました。そのほかには目にとまるような木はなかったのです」

 彼女は目を閉じて想像した。さらさらゆれるすすきが原の只中にでこぼこした肌の松の木がある。根元に近い部分だけゆったりとカーブをえがいた幹は人が力を抜いて背中をあずけるにはちょうどよい。ところが彼女の想像はおかしなことに、背景にある空がいまにも雨の降り出しそうな鈍色をしていた。

「小鳥だけが、たまにきて枝にとまって翼を休めました。中でも渡り鳥は、旅の鳥でいろいろの話を知っていました。……松の木は、自ら経験のないことで、ただ渡り鳥の話をきいて、世の中の広いということを知るだけです」

 渡り鳥は透子さんで、松の木はわたしだな、なんて安直に考え出すと、物語はもうそのとおりに変換されて彼女の脳裏にひろがりはじめた。

「ある日のこと、一人の旅人が、野中の細道を歩いてきました。……なんだか、見覚えのあるような松の木だな。……松の木は、旅人のひとりごとをきいて、自分とよく似た木が、この地上のどこかに存在していることを知ったのです」

 ベッドに入っておこなう気だるい会話のことをたしかピロートークっていうんだっけ、などと考えながら耳のあいだに流れてくる心地よい声にまどろみを誘われる。

 やっぱり透子さんの読み聞かせは子守唄だ。それも寝かしつけるためのものではなく、まどろみのさざなみとともにやってくる小夜曲、あるいは彼女をますます感情の坩堝に迷い込ませる歌声。最初に透子さんの声を聞いたときから思っていた。透子さんの声はこめかみをなぞるさざなみの音に似ていると。目をつむるとどんなにがんばったって寝入ってしまう心地よさには、どんな人だって敵いそうにない。きっと読み聞かせのときはみんなこの心地いい声に誘われる眠気にあらがいながら聞き入っているんだろうなあと思うと、ふと口端に笑みがこぼれてしまった。

 ああ、なんだか、いまとっても幸せだなあ。

 柄にもなくそんな気持ちも胸のなかに広がって、ふと思った。

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