17 流浪の民であり半分世捨て人
七月から本格的にはじまる夏野菜の収穫に向けて、その日は用意しておいた部屋に透子さんを入居させる日だった。彼女は朝日が昇ってから先に部屋に入って最後の確認をしながら掃除機をかけていた。透子さんが入居してしまえばこうした勝手は利かなくなる。
ある程度の家具は昔使っていたものを埃をはらって水拭きしたあと使い回している。腰丈の衣装たんすにローテーブル、小さなテレビに紺色のひとりがけソファ。なにもかもがシンプルでこぢんまりとまとまっている。さすがにベッドはないので、市内にあるインテリアショップに出向いて大きめのフロアマットを新しく購入し、その上に布団を敷けるようにした。緑の若葉模様は透子さんのワーゲンバスと印象が似ていて即決したものだ。足りない小物類も緑色でなるべく統一するようにした。
透子さんはなにが気に入ってくれるだろうかと考えながら、ショップでは手持ちのお金と相談しながら回ったので、けっきょく2時間も店内を物色するはめになった。あまり真剣に商品を見くらべてうろうろしていたものだから、途中からスタッフさんが付き添いながらになったが、結果的にいい買い物になったと思う。
「古海さんおはよう。ごめんね、またちょっと早く来ちゃった」
「わっ、え、丙さん?」
まだ9時にもなっていないのに空気を入れ換えるために開け放ちにしていた扉からひょっこり顔をのぞかせてきた透子さんは、シルバーのスーツケースを抱えておそるおそる部屋に入ってきた。突然のことに驚きつつも掃除機を止めて招き入れ、スーツケースは部屋の隅に置いてもらった。
「昼ころに来るって予定でしたけど、どうしたんですか」
「このあいだ古海さんのお父さんから電話かかってきて、役場のほうで私の読み聞かせ会の企画が決まったから、あとで打ち合わせがてら会いたいってきたんだよ。じゃあ入居でうかがう日に早めに家に行って、そのあと少し話をしようってことになって。古海さんにはサプライズのつもりで来たんだけどやっぱり迷惑だったよね、掃除中みたいだし」
「いや、ぜんぜんそんなことないです! むしろうれしいです! 今日からよろしくお願いします!」
気が動転してついすなおな気持ちを早口でまくし立ててしまったが、それも透子さんは和やかな笑みで返してくれた。
「そっか、よかった。とりあえず掃除は置いといて下に行こう。おいしい洋菓子、手土産に買ってきてるから古海さんもお茶しながらいっしょに食べよ」
そういってぎゅっと手をとってくれた透子さんに胸が高鳴った。朝から心臓に悪いことばかりだ。階下に降りる足もなんとなくおぼつかない。
それに透子さんのほうがずっと大人のはずなのに、子どもみたいなその行動がとても危うい気がした。祖母から幼いころに怖い話として聞いていたのだ。つまり、よく出来た子どもは神さまが欲しがって神隠しに遭わせてしまうから、子どもには少しばかり悪戯っけがあったほうがいいのだと。透子さんは大人だけれど、当時の彼女からしたら透子さんという存在はあまりにもよく出来ていて、ふと目を離した瞬間に神隠しに遭ったように消えてしまいそうな雰囲気があった。
学生のうちは学校に行けば見慣れた顔があり、突然の転校や不幸さえなければ「そこに行けば会える」という確信が持てる。その実感は当時から彼女にとってわかりきっていたことだった。ところが、透子さんは言ってしまえば流浪の民であり半分世捨て人のようなものだったから、定住地がないというだけでその存在がとたんに
だから彼女は足元がおぼつかなくとも握ってきた手をしっかり握り返してリビングまで向かった。この手を離したくないと無意識に思ったときの感情ははっきりと覚えていないが、瞬間的に心の底から湧き出たまっすぐな気持ちだった。二階の部屋から一階のリビングまでの距離なんてたかが知れているが、これが永遠に続いていたらどんなにか輝かしい道になっただろう。
リビングではすでに家族が座って各々お土産のお菓子を手にしながら談笑していた。彼女らが来たことで視線は自然と透子さんに集まった。
「お待たせしました。お味はどうですか」
「あら丙さん、このお菓子とってもおいしいですよ。知らないお店の名前だけど、もしかして市内まで行ってきてくださったんですか」
「読み聞かせのときに親御さんから評判のいいお店って聞きまして。自分でも試しに買って食べてみたんですけどすごくおいしいですよね。買ってよかったです」
「アキさんこれめっちゃうまいよ! ありがと!」
「よかった。でも食べすぎないようにね」
「ソー、お礼するならていねいな言葉づかいでしなさい。あと行儀悪いからソファの背もたれに座らない──すみません丙さん、礼儀のなってない愚息でお恥ずかしい。手土産もいただいてしまってありがとうございます」
「いえいえ、ソーイチくん小学生ですよね。まだまだやんちゃ盛りですよ。気にしないでください」
家族の言葉のどれにもきちんと対応する透子さん。そういえば聖徳太子って一度に十人の話を聴き分けられたんだっけ、などと与太が過ぎる逸話に頭をよぎったが、手を握られたままだったことに気づいてあわてて離した。
「ほら、古海さんも食べて食べて」
「あ、はい」
洋菓子の詰め合わせにはマドレーヌやパウンドケーキといった定番お菓子に、ダックワーズやヌガー、マカロンもあった。すべてお店の手作りでその味は折り紙付きらしい。温かいお茶といっしょに流し込むと緊張感もほぐれてきた。
「そういえばお父さん、このあと丙さんとお話があるんでしょ。仕事の話ならここじゃなくて応接間に行ったほうがいいんじゃない」
「丙さんから聞いたのか。別にここでも構わないよ。込み入った話じゃなくて、こういう企画を立ててる、って概要の説明だから」
「そうなんだ。じゃあお話する前にお家のなか案内していい?」
「いいよ、行ってらっしゃい」
応接間の単語を出したときに透子さんの表情が一瞬固まったのは見逃さなかった。応接間なんて当時でさえよほど大きい家でなければふつうは設けない部屋だ。彼女の家は別に大きいわけではなかったけれど、父親が見栄を張って小さいながらも応接間を作っていたのだった。
家の間取りの案内を切り出したのは、文字どおりの意味とは別に目的があった。透子さんと二人きりになるため。そして、二人きりになるのは透子さんに伝えたいことがあるからだった。間取りをひととおり教えたあと、彼女は
「ここが古海さんの部屋かあ。けっこうファンシー系のお部屋なんだね。ぬいぐるみとかすごい数」
「クレーンゲーム得意なので、ゲーセン行ってよさげなのあるとついやりはじめちゃうんですよね。友だちにもよく頼まれます」
「そんなにクレーンゲーム得意なの? じゃああとで私にも取ってもらおっかな」
お安い御用です、と調子に乗ってしまったら、いざそのときに手も足も出ない恥ずかしい結果になってしまいそうだったのでやめた。
ぬいぐるみのひとつに気を取られている透子さんに後ろから声をかけた。
「あ、丙さん、ちょっとお話があるんですがいいですか」
怪訝な様子の透子さんを勉強机の椅子に座らせて彼女は床に正座になった。彼女は魚みたいに口をパクパクさせて何度か言葉を紡ぎそこねた。
「どうしたの。相談あるなら遠慮しないで言って」
その言葉で背中を押された彼女はついにずっと考えていたことを口にした。
「夏休み、わたしといっしょに読み聞かせの旅に行きませんか」
透子さんの表情は最初驚きに満ちて、それからゆっくりと笑顔になった。
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