11 不思議なむずがゆい感覚

 はやる気持ちをおさえきれず、青空文庫で読み聞かせのリクエストができそうな作品をどんどんしおりに挟んでいく日々を思い出しながら、彼女は公園への道のりを踏みしめていた。

 月曜日の授業は六限までしかなく、七限まであるそのほかの曜日よりはやく下校できる。公園に着くのも太陽が赤らんでくる前の時間帯で、読み聞かせが始まるまで余裕があったから、そのときにいろいろ透子さんに聞いておきたいこともあった。

 彼女は公園に足を踏みいれワーゲンバスが停まっていることに安堵して近づいた。後部ドアが開け放たれておらず、ひさしもまだ設置されていなかったので運転席を覗きこむ。すると、透子さんがスマホを握りながら真剣な表情で口元を動かしていた。今日の読み聞かせの練習をしているらしい。

 バスの前に立って大きく両手を振ったり、ジャンプしてみせたり、大げさな身ぶり手ぶりをしても気づかないので窓をノックして気づいてもらおうかと思ったが、これだけ動いて気づかないのなら相当集中しているのだろうと思ってすごすご引き下がった。なに馬鹿なことやってんだろ、と自分に呆れながらおとなしく透子さんが出てくるまで待とうときびすを返してベンチに向かったそのときだった。

「ごめん、いたの気づかなかった! いつからいたの? 外暑いから車のなかで涼んでいいよ」

 透子さんが窓を開けて大声で呼び止めてくれた。びっくりして肩をふるわせると「あ、ごめん」とそれに対しても謝ってきた。なんにでも謝る人だなあと思いながら、彼女はお言葉に甘えることにした。

 ドアを開けて、まず涼しいことに気づいた。甘いバニラの香りを感じながら助手席に乗りこむと足下に小型の冷風機があり、コンセントプラグがポータブル電源に接続されていた。なるほどエンジンが点いていないのに車内が涼しいのはこれのおかげね、とひとり納得していると、「冷房ガンガンに効かせてるから寒かったらいって」と透子さんからのお告げ。

「あとSNSにリクエストしてくれてありがとう。読んでみたけどおもしろかったよ。モノはないんだけどスマホ見ながらでもできるからよかった」

「あ、そのことなんですけど」通学カバンから持参しておいた茶封筒を取りだした。

「作品を絵と一緒に印刷しておきました。よければ使ってください」

 茶封筒を受けとって中身を見た透子さんの表情がぱっと明るくなって、「ほんとに? ありがとう! よかったあ、スマホだとすっごい読みづらいんだよね」わいわいいいながらとても嬉しそうにしてくれた。

「あと、今日の読み聞かせのときにわたしも手伝っていいですか」

「手伝う?」

「丙さんが読み上げてわたしが絵をめくっていくような、紙芝居風のやり方もいいんじゃないかと思いまして」

「えっ、それいいね。すごくいい! なにからなにまでほんとありがとう!」

 透子さんなんにでも感謝を言う人だなあ、とほほえましくなっていると、ふと忘れかけていたことを思い出した。

「すみません。あと提案ばかりで申し訳ないんですけど、もし嫌じゃなければ、丙さんのスマホに直接リクエストとか送ってもいいですか。SNSだけだとコメント欄の管理とかわずらわしそうで、なんとなく気兼ねしちゃって」

「それはもちろん。このあいだ渡した名刺の番号とメアド、あれで大丈夫だよ」

 それとなく尋ねるようなかたちで聞いてみたが、もし断られたらがっかりどころの話ではなかった。透子さんに限ってそんなことはしないだろうとは思っていたけれど、いざその返答を聞くとほっと胸をなで下ろしている自分がいた。

 それから読み聞かせの時間まで今日の作品の練習をした。透子さんが読み上げて、彼女が物語の展開に応じて絵をめくっていく、二人だけの作業。一度読み合わせをして物語の展開を確認したあと、絵をめくるタイミングの一文を裏側に書き記していく。すべて書きとめ終わったあと、また流れの確認のため読み合わせをおこなった。

 どうやら上手くいきそうだと顔を見合わせて時間を確認すれば、もう読み聞かせをはじめる五分前で、窓の外を見るとちらほら親子連れの人だかりが見えたので、あわててひさしの準備をして子どもたちを迎え入れた。唐突のリクエストも紙芝居ふうのやり方も、透子さんにとってはだしぬけの提案だったに違いないのに、どうして嫌な顔ひとつしないんだろう。

 集まってくれた子どもたちとたわむれながら必死に座らせようとしている透子さんの楽しそうな表情を見て、彼女はそう思った。まもなく子どもたちを座らせた透子さんによって、読み聞かせ会がはじまった。

「みなさん暑いなか来てくれてありがとうございます。今日の読み聞かせはちょっと趣向を変えて紙芝居風にしたいと思っていて、そのためにお手伝いさんをお呼びしました。自己紹介をお願いします」

「今日は丙さんのお手伝いで来ました、古海夏名こうみなつなといいます。どうぞよろしくお願いします」

 緊張しながら頭を下げると、子どもたちも親御さんもなごやかな拍手をして迎え入れてくれた。

 透子さんのとなりに座ってワーゲンバスの荷室のへりからこちらを不思議そうに見上げる子どもたちを見るその光景。透子さんはずっとこの光景を見続けてきて、彼女は同じ場所からそれを見ている。たったそれだけのことなのに、なぜか言葉にできない不思議なむずがゆい感覚がした。

「はい、ありがとうございました。じゃあさっそくはじめよっか。今日の読み聞かせはね、『ババールとサンタのおじさん』っていうお話。アニメとかで知ってる子もいるのかな。主人公はババールって名前のぞうさんだよ」

 いよいよはじまる。読み聞かせをするわけでもない彼女がひそかに胸をどきどきさせて手に汗をじっとりかいていたのは、人前での読み聞かせが初めてだからというよりも、すぐとなりで透子さんの読み聞かせの声を聞くことができるという高揚感からだった。

 目だけでちらりと透子さんを見ると鼻筋のすっとした横顔が見えた。長いなあと思っていたまつげも、まばたきや視線を移動するたびに揺れるものだからいっそう強調されていた。ベッコウ柄のバレッタでまとめられた後ろ髪から見えるうなじはしっとりと汗ばんでいて、少しだけ張りついた髪の毛に羨んでしまう。口元はわずかに弧をえがき、肩はゆったりと力が抜かれ、だいぶリラックスしているように見えた。息を吸う音からその言葉が発せられる。

「──やあみんな!」

 蝉の声がやんだ。風はなりを潜めた。みんながわずかに目を見開き、はっと耳をそばだてる。この声だ。この声にこそ人を惹きつける魔力があった。

「あるひ、こざるのゼフィルが、アルチュール、ポム、フロール、アレクサンドルによびかけます」

 ナレーションが挿入され、ふたたびセリフに戻ってくる。

「きいてくれ! さっきすげえはなしをみみにしたんだ。にんげんのうちには、まいとしクリスマスイブのよるに、すっげえやさしいおじさん、それも、もじゃもじゃしろひげであかいふくにとんがりぼうしのやつが、そらをとんでくるらしいぜ!」

 こざるのゼフィルを意識したやんちゃで張りのある声が公園に響きわたる。さきほどの読み合わせの声や、『虫の生命』のときの読み聞かせとはまったく違う。物語は進んでいたのについつい聞き惚れてしまって絵をめくるのも一拍忘れてしまい、何度かアイコンタクトでうながされるありさまだった。キャラクターごとに明確に声を使い分け、ナレーションの部分はやはりまどろみをさそうやわらかな声調。五年間も定期的に読み聞かせをやっていれば技術が向上して当然かもしれないが、ボランティアでなく本業にしても大丈夫そうなほど上手だった。のどを傷めてしまうからタバコはやめたほうがいいけれど。

 それから物語は30分かけて読み終わった。おしまい、という声と同時に湧き上がった拍手は感嘆と驚嘆と賞賛が入りまじった楽しげなものに聞こえた。透子さんも満足げに笑みを浮かべ、息をついてから、かたわらに置いていたポカリスエットを飲んだ。

「じゃあ15分休憩でお願いします。古海さんも休憩していいよ。紙芝居ありがとう、て、あれ、聞いてる? おーい」

 わたしも丙さんみたいになりたい。漠然とだがそう決心したのが、この夏におとずれた彼女のふたつめの変化だった。

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