第 四 章 12



 成約書を書きながら、あたしは一抹の寂しさを覚えた。でも、バイクは走ってこそだし、正一がオーナーになるなら、またうちで預かる事もあるだろう。


「やっぱりカブより速いんだよね?」


 千鶴ちゃんが、体を斜めにしてCBRを眺めながら言った。


「あったりめーよ! 1速で100キロは余裕だね!」


 正一の言う通りだった。78馬力を発生させる排気量600ccのエンジンは、ものの数秒で100キロに達する強烈なパワーを持っている。一般公道を走るにはオーバースペックも甚だしいバイクだ。


「CBRはレースベース車でも売ってるんだぜ。これでレースに出れん

だよ」


 バイクには、レースベース車という販売形態が存在する。


 レースは、レース専用のバイクを用いたレーサーカテゴリーと、市販されているスポーツバイクをレース仕様に改造して走る、スポーツプロダクションカテゴリーが存在する。CBRは後者にあたり、ST600というクラスに区分される。


 レーサーバイクはレースのためだけに造られたバイクだから、ヘッドライトやウインカーなどの保安部品が設計の段階から備わっていない。


 対して市販向けのバイクは、保安部品が設計に組み込まれている。しかし保安部品はレースでは不要だから、レースユース向けに保安部品を取り外した状態で販売する。これがレースベース車という販売形態だ。


 森屋はST600クラスに参戦していた。CBRのレースベース車を1台所有していたが、街乗りバイクとして一般公道仕様の、テレフォニカカラーのCBRも所有していた。


 あいつは贅沢にもCBRを2台も所有していたが、それにはちゃんと理由があった。


 レースにはスペアパーツが必要だ。レースで戦うバイクは痛みが早いし、転倒すれば部品が壊れる。壊れたらすぐその場で修復できるように、スペアパーツを用意しておく。


 バイクをまるごと一台組めるほどスペアパーツを用意するのがベストだが、大金がかかり現実的じゃない。必要最低限でしのぐが通常だが、森屋は街乗りバイクとしてCBRを所有し、サーキットに持ち込むことで、まるごと1台分のスペアパーツとした。これならエンジンを乗せ換える、なんてことも可能になる。


「メッチャクチャ速いんだぜ俺のCBRは。最高速は200キロを軽く超えるね」


 子供みたいに効果音をつけ、ハングオンの姿勢をとってみせる正一に、あたしは不安を覚えた。そのままレースに使えるようなハイスペックなバイクが市販され、一般道を走る。冷静に考えると異常なことだ。そんなバイクに、お調子者の正一が乗る。


「おまえの言う通り、パワーのあるバイクなんだから、くれぐれも安全運転しなさいよ」


「大丈夫っすよ。その辺はいつも海さんに口酸っぱく言われてんすから」


 そうだ。正一もそこまでバカじゃない。それにバイク購入のおめでたい日なんだ。


「ほんとにぃ? あんたお調子者なんだから、気をつけて走るのよ」


 あたしは軽い注意に留め、そして気付く。CBRに乗るのは正一だけじゃない。


「そうだ。千鶴ちゃんにタンデムの乗り方教えとく。ちょっと後ろに跨ってみて」


「今ですか? でも……」


 千鶴ちゃんは自分のタイトスカートを見下ろしながら言った。


「休憩室にライディングパンツあるでしょ」


「すみません。洗濯するために持って帰って、今家にあるんです」


「じゃあ、あたしの使っていいから」


「え、でも海さんとあたしじゃサイズが……」


「バイクに跨げれば、なんでもいいのよ。ほら」


「ちょっと海さん、なに焦ってんすか。別に今日じゃなくてもいいじゃないっすか」


 千鶴ちゃんの腕を取ろうとしたあたしを遮って、正一が言った。口にはしないが、千鶴ちゃんの戸惑った眼差しが、自分もそう思う、と言っていた。


「…………そうね。でもあたしが教えるまで、タンデムはやめてね」


 はい、と千鶴ちゃんが頷いたと同時に、でーんでーんと振り子時計が六時を告げた。


「そうだった。ふたりともごめん。あたし、これからちょっと出るんだった」


 あたしはドアノブに『御用の方はモトムラサイクルまで』の札をかけ、鍵を差し込む。


「どこでかけるんすか? 男っすか?」


 正一のひやかしに、バーカと返し、首だけで振り返る。


「ちょっくら手負いのレーサーの様子を、見にね」



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