第117話 東屋にて

 白梅の花が咲く頃、シンの住む東宮を訪れた人物がいた。


「なんだ大臣のおっさんか」


「——今日は大事な話があって参りました」


 そういえば以前にそんな事を言っていたなと、シンは思い返す。


 それよりもシンの中には大臣への不信がある。どちらかといえばその感情の方が強い。兄弟姉妹の如く共に育った——いや、生きてきた貧民街の仲間達を知らぬうちにどこかへやってしまった男に、不信以外の何があろうか。


 しかしまた、何も持たぬシンはこの男に頼らざるを得ない。隣にいるソウもまた怒りの感情を身に纏って無言で大臣を睨んでいた。


 だが当の何大臣はソウの視線など痛くも痒くもないようで、涼しい顔で立っていた。


「——場所を変えましょう。そうですな、たまには庭園の東屋あずまやなどいかがでしょうかな?」


 いかがと聞きながらそこ以外へ連れ出す気は無いのだろう、とシンはしらける。それでも仕方ないと立ち上がった。


 何大臣の後ろを歩きながら、ふとシンは大臣の様子がいつもと違う事に気が付いた。そわそわしている——いや、少し浮き足立っている。そんな感じだ。


 ——これは、何か聞き出せる機会かも知れない。


 シンは密かにそう企んだ。





 てっきり東宮とうぐうの中にある中庭に行くのだと思っていたが、何大臣の足はそちらへは向かわず、東宮の外へと方向を変えた。シンを東宮から連れ出すなど珍しい事である。


 行く先々に衛士えいしがいる。


 その立ち並ぶ姿を見れば、どうやら王宮の庭園に向かっているらしかった。やがて『月牙湖げつがこ』が見えて来た。広い王宮の庭園に人工的に造られた湖で、本来は王族が船遊びなどをする場所だ。そのほとりに白と赤とで彩られた東屋あずまやがあった。遠くから目を凝らせば、中には人がいるようである。


 衛士達もその建物から距離をとりつつ取り囲むように護衛にあたっていた。


 大臣に先導されるまま東屋へ向かう。入口の手前で、彼はシンに道を譲った。


「さ、お先にどうぞ」


 シンが促されるまま中へ一歩踏み込むと、東屋の中には一人の少女が長椅子にかけていた。





 まだ緑の残る庭園が少女の背後の窓から見え、その窓枠の中に一枚の絵の様に彼女はおさまっていた。紅色と金糸とを使った豪奢な衣服を身につけ、綺麗に結い上げた黒髪は艶やかに光りこれまた金の歩揺ほようが揺れている。


 人の気配に少女は、はっとして立ち上がると、その顔をこちらへ向けた。


 白磁の様な肌に整った顔立ち。眉は柳の葉を思わせ、珊瑚色の唇も美しい。しかし目つきがけわしく、ともすればこちらを睨んでいるかのよう。


 ——どこかで見た……?


 シンが記憶を探るのと同時に、大臣の苛立った声が上がりそれを邪魔する。


「これ! 花蓮かれん、その様な顔はやめよと申すに!」


 花蓮……?


 記憶の扉が一息に開かれ、懐かしいシュンの顔と声が蘇る。


『よしてよ、花蓮。これは試合なのよ』


 確かそんな事を言っていた。それにあの挑発してくる様なキツい目つき——。


「あんたあの時、教練校にいた——?」


 シンの驚く声に、何大臣と花蓮が振り向く。大臣は何事かとシンと花蓮の顔を見比べた。そのうちに娘のバツの悪そうな表情に、彼女が何かしでかした事に気がついた。


「か、花蓮? そなたいつ紫珠しじゅに? 太子殿が紫珠をおとなうたのは其方そなたが校を辞したのちのはずだが」


 問いただされた花蓮はぷいと横を向いた。


 その様子を見て、シンは彼女が父親には内緒で教練校へやって来た事を知った。どうやら相当のお転婆らしい。


 それにさしもの何大臣も娘には滅法弱いとみえる。見た事のない彼の慌てた様子に、シンは思わず吹き出した。






 つづく




 次回『シン、怖気付く』

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