マリーゴールド (5)
「そんなところに突っ立ってないでベンチに座ったらどうだ」
「…………」
「夕日を眺めていたって遠くにはいけないし、柵のせいで飛び降りだってできない。引き返せばあの二人がいるんだろ? だったら諦めろ。俺と話がつくまでここからは離れられないぞ」
「…………」
「俺さ、エリナにちゃんと言ってないことがあるんだよ」
「…………っ」
屋上の隅で雨宮に背を向けたまま微動だにしないエリナの肩がぴくりと揺れる。
無反応なふりをしていたみたいだが、どうやら聞こえてくる声までは無視できないらしい。
「もう、ずっと昔に言ったことだったかもしれないけどさ」
吐き出すならここしかない。何の感慨もないように打ち明けて、そうしたことを後悔しないためには。
「――俺、やっぱり、辛かったんだよ」
声が震える。言葉が喉の奥でつっかえたように、重くなる。
だけど、今しかない。
エリナにきちんと飲み込んでもらうためには。
徹底的に壊れるには、ここで打ち明けるしかない。
もはやこの関係はとっくのとうに破綻していて、修復なんてできないほどに錆び付いてしまっているということを、情け容赦なく突きつけるには、言えなくなる前に吐き出すしかなかった。
「好きだった子に、酷いことされるのは、辛かった」
幼い頃は、小学校が世界のすべてだった。その世界で、俺を本当の一人にしたトリガーを引いたのは、他の誰でもないエリナだった。
「時間が経てば経つほど誰かに嫌われるのが怖くなった。だから好かれることを諦めた。誰かを信頼することをやめた。何もかもが無意味に思えてならなかった。友達も同級生も恋人なんて存在も、ちょっとした拍子で破綻する関係なんだと割り切るしかなかった。分かるだろ? 俺はあのとき、嫌と言うほど思い知ったんだよ。世界の全部が敵に見えるくらい、他人という存在を嫌いになったんだよ。五年前に俺とエリナはとっくのとうに終わってたんだよ。過去をなかったことにはできないし、水に流せるはずもないだろ」
夏目の言うとおりだ。
伝えないといけないことは山ほどあった。
心の奥底で堰き止められていた感情がぼろぼろと溢れ出してやまない。
「そんなことくらいエリナだったら分かってたはずだろ? なのに、なんでだよ。なんで再会したとき初対面みてぇにしらばっくれやがったんだよ!」
「それは……だって、期待しちゃったんだよ。零央が気付いていなかったから……もう一回、はじめからやり直せるかもしれないって思っちゃったんだよ!」
エリナが叫んだ。相変わらず雨宮に背中を向けたまま、夕日に向かって叩きつけるように。
「ふざけんじゃねぇ……っ、あんとき散々俺のことを虫ケラみたいに扱っておいて、何をやり直すつもりだったって言うんだ!?」
「アタシだって本当はあんなことしたくなかった! だけど……っ、あの頃はああしていないとアタシだって酷い目に遭うかもしれなかった! だから……っ」
「……知ってたよ。エリナは自分が一番可愛くて大切だもんな。分かるよ、誰だっていじめられたくないのは当然だ。痛いほど理解できるよ。けどさ……、だったら! したくなかったなんて言い訳、聞きたくはなかった!」
「っ……、じゃあ、どうすればよかったの?」
そんなもの、決まっている。
「期待なんてしなければ良かった。俺に期待を持たせるようなことをしなければ良かった」
そうすれば、少なくとも世界は平穏だった。
「ただのゲーセン仲間でいるべきだったんだ」
それが結論。最適解。誰も傷つかずにいられた世界。
雨宮もエリナも、選択を間違えたのだ。
「エリナのこと好きだったよ。蔵敷だって気付かなかったら、好きなままだったよ。だけど、エリナは最後まで自分の気持ちを全部隠したままだったよな? どうしてだよ」
ずるい質問だと思っていても、訊かないわけにはいかない。
どうにもならないタイミングで抱え込んでいた本心という爆弾を曝け出すことで他人を引き留められると、そう信じて止まないタイプの人種にとってはタブーとも言えるそれを、雨宮は真正面から責め立てる。
どうして、言わなければいけなかったときに、伝えなかった。
なんでずっと黙っていた。
「そんなの決まってるじゃん」
エリナが振り返った。
「好きだからだよ」
燃えるような橙を帯びた雫を、その瞳の端に滲ませながら声を震わせる。
「好きな人に、後ろめたいことなんて明かせるわけない。大体、なんでアタシの旧姓に気付いたの。どこで知ったの、それ」
「……先月、アルバムを貸しにエリナの家に行ったとき」
「最低だね」
「いじめてたことに後ろめたさを感じてたくせしてよく言うよ。俺がアルバムの背表紙みたら勘づかないとでも思ってたか?」
「アタシが悪いって言いたいわけ?」
騒音と縁遠い世界に、ぴしりとひび割れるような音が響く。
「そうだって言ったら?」
「……ほんと、最悪」
エリナが吐き捨てる。
つい一週間前にも同じ台詞を聞いたばかり。いまさら動揺するはずもない。
「そんな最低最悪な男のこと、それでも好きか?」
「好きだよ。そんな程度の最低も最悪も赦せるくらいには」
「告白して、すっきりしたか?」
意地の悪いことを口にしている自覚はあった。
「……できることなら、やり直そうよ、レオ」
弱々しい主張が雨宮を絡め取るように紡がれる。
「なんだ、それ」
「謝るから。だから、許して。もう見放したりしないから。見捨てたりしないから」
「仲直りしてどうするのさ」
「遊びたい。ライブに行きたい。他愛もないことで笑い合いたい。コンビニでカップラーメン食べながらどうでもいい話だってしたい。アタシは……そういうことをレオとしたい」
「それは友達として? それとも、恋人として?」
「そういうことが恋人同士のそれだっていうなら、恋人にだってなりたい」
見つめてくる瞳が燃え上がるように強い意志を秘めていた。
本気で、全て、赦すつもりらしい。
「なんでだよ……」
あんまりだ。
酷すぎる。
「……どうして、いまさらなんだ」
何もかもを壊すつもりでいたのに。
灰色の世界から突き放すつもりでいたのに。
それでも彼女は強引に腕を引いてくる。
色鮮やかな世界へと誘ってくる。
そのどれも、雨宮はこれっぽっちも願ってはいないことなのに。
「付き合っても幸せにはなれない。俺は一生、エリナを疑ったままだ。心の底から信じることなんてできない。いつ掌を返されるか怯えながら接していく関係の何が恋人だ」
「嫌なら嫌って否定してよ」
「言って引き下がるのか?」
「……努力する」
無理だ。
「今後一生会わないように頑張る」
不可能だ。
「どっかですれ違っても気づかなかったフリをする」
できるわけがない。
「いつか忘れるように――」
「そんなの無理だって自分が一番良く分かってるだろっ!?」
エリナの戯れ言を前にして、雨宮は少しだって黙っていられなかった。
「できなかったからいまこうなってるんだろ! そんな程度のことで綺麗にできたら誰だって苦労はしないっ! その程度の覚悟で別れられるなら俺たちはこうして出会ってなかった!」
「じゃあ一体どうすればいいのよっ!?」
「そんなの俺が知ったことかよっ!」
「だったらちゃんと、アタシと一緒にいるのが嫌だって否定してよ! アタシの告白を受け入れられないなら、はっきり否定してよ!」
「……なんで、だよ」
雨宮は夕焼け空を仰いだ。
ままならない。
ただ嫌われるだけでよかったはずなのに。
それさえ上手くいかないなんて、どこまでも人生は理不尽だ。
「エリナが俺のことを否定してくれれば、それで全部終わるだろ……なんで、俺が引き金を引かなきゃいけないんだよ……そんなのおかしいだろ……。あんときみたいに、そっちから引き金を引けよっ! それできちんと終わらせろよっ!」
「好きなのに……そんな相手に嫌いなんて言えるわけない。それで関係が終わってしまうのが分かってるなら、なおさら口にできない。アタシ、終わらせたくないって言ってるじゃん! どうしてそんなことも分かってくれないの!?」
「ふざけんじゃねぇよっ! なんでどこまでもわがままなんだよ! 自覚しろよっ! 俺をいじめて! 俺のプライド傷つけて! そのくせ俺に縋ってさぁ! うんざりなんだよっ! 終わらせたくないってどういうことだよ! どこまでいたぶれば気が済むんだよっ! 俺のこと好きなら謝れよ! もう二度と俺を裏切るような真似しないって約束しろよ!」
叫び声はどんどん震えて、
目に映る景色が曖昧に溶け出したかのように滲んでいた。
目元を乱暴に袖で拭ってエリナを見る。
度肝を抜かれたように立ち竦んでいる彼女もまた、身体を震わせながら頬を濡らしていた。
「…………ごめん、なさい」
「…………っ」
それは、エリナがようやく零した言葉だった。
幾度となく雨宮が欲した感情だった。
「ずっと後悔してた。だけど、知られたくなかった。こんなに好きなのに、嫌われたらどうしようって……、そればかり考えてしまったら謝罪の言葉なんて口にできるわけなかった」
けれど。
エリナが紡ぐ声音はどこまでも自分本位なものだった。
あれだけ懇願したはずだったのに、少しも気分は晴れず、救われず。
「だけど……、レオがこんなに苦しんでることにも全然気付かないでいたアタシは本当にバカだった……。そうだよね、アタシが覚えてるのにレオが忘れてるはずないもんね」
この痛みは片時だって忘れたことはない。
胸の奥底にできた傷跡はいつまでも塞がることはなく、脳裏に幼い頃の痛みを浮かびあがらせる。
「謝って終わるのなら、いくらだって頭は下げる。土下座だってする。それくらいのことをした自覚はあるもの。それで元の関係に戻れるなら、本当に――」
「少し黙れよ」
「っ……」
「誰がそこまでしろって言ったよ」
「でも、」
「女子に跪かせるような腐った性根してるつもりはない。それに……、もう充分だよ」
ただただ、虚しいだけだった。
エリナが頭を垂れる姿を見て。弱々しく謝る姿を目の当たりにして。
それでも胸に残ったしこりは消えてくれなかった。
それだけの傷の深さだったということだ。
「もう……どうしようもない、んだよ」
拭ったはずの視界が、またぼやけ出す。
なんとなく分かってはいた。
この程度で癒えるのなら、赦せるのなら、こんなにも過去のことに拘る必要なんてなかったのだから。縛られることもなかったはずなのだから。
つまり、
これは。
「俺は……この傷は、もう修復不可能だから……。謝ってくれれば……きっと全部解決するかもしれないって、そう……どこかで期待していた……。けど、やっぱり駄目みたいだ」
あまりにも時間が経ちすぎた。
この五年間、身体を蝕んだ毒は心の奥底にこびりついて剥がれない。
解毒剤なんてありはしない。しなかった。
記憶として風化するのを待つか。
あるいは――。
「だったら、上書き、してあげる」
考え込んでいた刹那のうちに、エリナが目の前まで来ていた。
「アタシがやったことだから……だから、その落とし前はつける」
「なっ――」
反駁する余地なんて微塵もなかった。
鼻孔をくすぐる柔らかな匂い。
飛び込んでくる甘い香り。
そして。
「っ――」
「ん…………」
口を塞ぐ、檸檬の味。
「んっ、ふ、ぅ……」
「――っ、馬鹿っ! やめろっ!」
押しつけられたそれを拒絶するように、雨宮はエリナを突き放す。
「いきなりなにしやがるっ!?」
「なによ……不満だった? 想い人からの初キス」
「……んなの、暴露するんじゃねぇ。つうか、そういうことじゃねぇ。急にあんな……、マジでふざけんなよ」
「キスなんて、悪戯でやるようなもんじゃない」
エリナはどこまでも本気だった。
熱を帯びた瞳が迫ってくる。
「レオにどれだけ嫌われてるか、分かってるつもりだよ? だけど、もう嫌なの。あのとき、レオがいなくなって、そのあとすぐに父親もいなくなって……、自分で自分のことを大切にしないと心がばらばらになりそうだった。アタシのせいで何もかもが駄目になっていくのが耐えられなかった。大事なものが次々と消えていって、だから、次はなくさないように、手放さないようにって、必死にやってきて……。それがウザかったのなら、ごめん。キープに見えてたなら、ごめん。それでも、我慢できない」
抵抗する間もなく、エリナがきつく、抱きしめてくる。
「たとえ報われなくても、アタシ、やっぱりレオを諦めるなんてできない。忘れるなんてできない。もう会わないなんて、できっこない」
「ざっけんな……、俺がこの五年、どれだけの傷を負って生きてきたと思ってんだ。今さらすぎるんだよ。何もかも手遅れだって、言ってんだよ……」
「そんなことない。だって、アタシたち、まだこの距離でいられるんだもの」
「……っ」
「本気で嫌いなら、レオはここに来てない、でしょ? 好きじゃなくなったってだけで、心の底から嫌いになったわけじゃ……ないんでしょ?」
どこまでも憎らしい。
まるで見透かしたかのような物言いが、鼻につく。
けれど。
「…………っ」
もう、認めるしかない。
捕まってしまった以上、はぐらかしておくのには無理がある。
ここまで近づかれて、それでも腰に回されたエリナの腕を振りほどけないのは。
早鐘を打つ心臓がこうも痛いのは。
「……ああ、そうだよ」
好きだった、から。
まだ、諦めきれていないから。
未練がましく、鬱陶しく燻る想いを消し切れていないから。
だから。
胸の内の内まで飛び込んできたエリナに真正面から愛を囁かれてしまったら、どれだけ傷を負っていても抗うことなんてできなかった。
「心から信じることも、寄り添うことも、愛することも、きっとできない。それでもエリナは俺を望むのか? 俺じゃなきゃ、駄目なのか」
「そんなの、いまさら訊く?」
「決まってるだろ。だったら澤野と付き合ってたのはなんだったんだよ」
「あれは……煮え切らないレオに愛想を尽かしたから、ヤケで」
「自暴自棄でああまでこじらせるとか冗談じゃねぇ」
「もういいじゃない。アイツとの関係はもう終わったの。レオがきっちり終わらせてくれた。言いそびれていたけど、感謝してる」
こいつってやつは……。
「本当に調子が良すぎないか?」
「いいじゃん、別に」
「感謝してるわりには、そういや何も返礼とかなかったよな……」
「……あ、そういえば」
苦笑するエリナ。
どうやら完全に頭から抜け落ちていたらしい。
まぁ、そもそもお礼なんて求めたこともなかったけれど、言ってみるもんだな。
「あのときはとっ捕まえるので全力だったし」
そうして徹底的に雰囲気をぶち壊して別れるつもりだったから当然だ。
抱きつかれたまま熟考し、雨宮は思いつく。
「じゃあ……もっかいキスしてよ」
「それこそ調子よくない?」
確かにそうかもしれない。心が折れた瞬間にこんな要求をするあたり、自分でも笑ってしまう。やはり男は単純な生き物だ。
「なんかもったいない」
「何がだよ」
「『キスの価値が安くなる気がする』」
それは二人が最も愛するバンドの新曲にある歌詞の一部だった。
「それでも、俺たちはこの関係を維持するなら、言葉だけじゃ全然足りない。どれだけ尽くしても尽くしてもすぐに破綻してしまうような脆さと隣り合わせなんだ。だから――」
「言わなくても伝わるかもしれないけど、言わないと伝わらないことだってある。そういうこと?」
「言葉と行動の両方で示してほしい」
「すごいわがまま」
「少しは俺の気持ちも分かってよ。不安なんだよ。だから、欲しいんだよ」
愛の証明を、してほしい。
「ん……わかった」
根負けしたかのように、エリナがふっと笑う。
そして、二度目の感触が口元を伝う。
視界に夕暮れが弾ける。きつく抱きしめられた身体が歓喜の叫びをあげる。
まどろむ思考を埋めつくすようにして、柔らかな檸檬の匂いが脳裏に焼き付いた。
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