そうしてキミは (前)

 一軒家が多い住宅街の一角に聳え立つ、築十年のまだ真新しいアパートの一階。


「入って」


 抵抗できるはずもなく、雨宮は手を引かれてエリナの家の敷居を跨いだ。


「部屋、来て」


 エリナの部屋はリビングの奥にある扉を開けた先にある。

 一度、来たことがあるからよく覚えている。


 あちこちに者が散乱して雑然とした床と、息苦しくなるほど本やものがぎっしり詰まった本棚。そこに並ぶのは漫画や小説、画材や資料、そして、High TwilightのCD、アルバム、写真集。小学校や中学校の卒業アルバムや、写真の類い。


 エリナが表立って明らかにすることのない、彼女の半生と嗜好とがふんだんに詰まった小さな世界。


「そこに座って」


 すっぽりと空いたスペースに、雨宮は正座をさせられる。

 エリナは真正面の椅子に腰掛けて足を組んだ。


「正直に答えて」


 その声はどこまでも底冷えるようだった。


「窓ガラスを割った犯人は、レオなの」

「そうだよ」


 無感情に吐き出す。


 小さな世界へ飛び出していった声が、どこまでも他人事みたいな空虚さを伴って反響する。


 解き放った言葉は二度と戻ってはこない。


 そのことを証明するかのように、空気が重くなる。


「嘘」


 エリナが拒絶にも似た声をあげる。


「そう思うのは人の勝手だから、信じたくないならそれでもいいけど」


 他人がどう思おうと、もはやどうでもいい。興味もない。

 望むのは、なにもかもが壊れてしまうことだけなのだから。


「……なんで、窓ガラスなんて割ろうとしたの。しかも、わざわざ白澄にまで来て」

「なに、信じる気になった?」


 ふざけた調子で笑ってみせる。

 もう、どうしようもないくらい自暴自棄の域に入っていた。

 そう自覚しても、止められないし、正常な感覚には戻れない。

 非情なまでに他人を叩き潰していた人間に、まっとうな精神なんて宿りはしないのだから。


「破壊衝動をどうにかしようとしたら、ああなった。捕まる気はなかったから、お気に入りのブーツを履いて、身長をごまかしてさ。理由なんて特にないよ。強いて言うなら、俺って誰にも愛されてないから、何やってもいいよなって、そういう気分になったんだよね。なにもかも馬鹿馬鹿しいなって思っちゃってさ。まぁ、エリナには分からないよ。俺の気持ちなんて」

「……そんな理由で、あんなことしたって言うの?」

「そうだよ。俺って、もうとっくのとうにさ、心が壊れてたんだよね。あとは、きっかけがあれば充分だったんだよ」

「きっかけ……?」


 エリナの興味をそそるキーワードを芋づる式に出していく。


 そうして、真相に辿り着いた先にあるのは、ただの深淵と地獄だ。


 雨宮はせせら笑う。

 堪えきれない。


 感情を堰き止めていた壁はとっくに決壊してしまっている。

 このままエリナも堕ちてしまえ。

 責任感に押しつぶされてしまえ。

 どうにもなりようのない感情の渦に飲み込まれて後悔してしまえ。


 そうして辿り着く果ての結末は、雨宮が望む、決定的なまでの破滅と後悔だ。


「エリナさ、俺をホテルに誘ったよね。あのときは俺、否定したけどさ、正直、期待はしてたんだよ」

「どういうこと?」

「エリナを傷物にできるんじゃないかって思ったらさ、ぞくぞくしたんだよね」

「なに、それ」


 エリナが、明らかな嫌悪感を抱いた。顔が歪んでいる。雨宮を睨み付ける二つの目。そこに宿る困惑の色。


「だって、そりゃあ期待するだろ。澤野の気持ち、すげぇ分かっちゃうもん」

「じゃあ、あのときアタシを助けてくれたのは、なんで?」

「澤野がエリナとセックスしてないって分かったし、そもそも俺が澤野に嫉妬してたからに決まってるじゃん。私怨だよ。羨望だよ。それ以外に理由なんてないよ」


 わかりきったことだろう、そんなこと。


「つうか、どうせさっきも学校で俺と澤野のことみてたんでしょ。知らないフリなんかしなくていいよ。引いたでしょ。昨日、俺が心配しなくていいって言った理由、分かったでしょ。端から喧嘩なんてするつもりなかったんだよね。仮面被って適当に叩き潰しておけば、あとで不戦勝だって言えるし」

「…………っ」

「だからってエリナのことをどうこうする気はさらさらないけどね。感謝してもらおうだなんて微塵も思ってない」


 エリナは絶句していた。


 目の前で正座している同学年の友達が最低最悪な人種であることをようやく悟ったと、そういう失望の目をしている。


 それでいい。突き放してくれて構わない。

 心底そう思っていた。


 雨宮のなかで、澤野に対する感情と、エリナに対する想いは連結しない。


 恋人という枠組みから外された挙げ句、困っていたら親身に相談にのってくれて、いざとなったら身を挺して助けてくれる都合のいい友達にまで成り下がっていた関係性。


 そんなふざけた役目から卒業するのに、ここまで絶好の機会もなかっただけのこと。


 もう、雨宮はエリナを諦めたのだから、あとはエリナが雨宮を諦める番だ。

 見咎めて、見放して、見切りをつけなければいけない。


「澤野に嫉妬してたってことはさ……アタシのこと、好きだった、ってこと?」

「それはなに? 友達として好きかってこと? だったらそれはイエスだけど。あの日もそう言ったよね? そんなに確認しないと気が済まない?」

「そういうことじゃない!」

「じゃあ、なに?」

「……女として、好きだった?」

「ああ」

「もし、あのとき、彼女にしてって……そう言ったら、してくれた?」

「したろうね」

「付き合ってって、告白したら……付き合えたの? アタシたち」


 雨宮の心は凪のように穏やかだった。


 どこまでも諦めてしまえば、そんなifの質問をされて怒り狂うこともない。

 惑わされることもない。

 手放してしまった可能性を取り戻そうとする意欲も湧いてこない。


 そして、ボタンを掛け違えたことを後悔することもない。

 なぜなら、もう全て、完膚なきまでに終わってしまったことなのだから。


「……そうだろうね」


 なんて虚しいやりとりだろう。

 雨宮の視界から、段々と色が消えていく。灰色の世界が覆い被さってくる。


「うそ……、そんなの、信じたくない……」


 エリナがかぶりを振る。

 あり得なかった過去に縋ったって、何も取り戻せるはずがないのに。

 まだ、彼女はこんな男を諦めてきれないでいる。


「なんで……なんでじゃあ、あのときそう言ってくれなかったのよ!!」


 悲痛な叫び声だった。

 選択さえ誤らなければ全てが上手くいっていたのだと勘違いをして嘆き明け暮れる、幸せな妄想を伴った痛々しい本音。


 お互いのことを想っていたのに、どうしてと叫ぶ彼女の、あまりにも傲慢な願いが鼓膜を震わせる。


 だからこそ、雨宮は突きつける。

 思い知らせてやらなければならない。


 掛け違えたボタンは、長い年月をかけて、ぼろぼろになってしまっていたことを。


「なぁ、エリナ。俺たちはさ、最初から、ダメな者同士だったんだよ。今さら誰かを好きになって、期待して、なのにフラれて、そうなったときのことを想像してまた心が傷つくのを想像したらさ、無理だったんだよ。誰かに、本音なんか打ち明けられるわけなかったんだよ」

「なによ、それ……。そんなの、ただ臆病なだけじゃない!」

「臆病で悪いかよ! 怖くて怖くて堪らないのをどうして批難するんだよ! 好き勝手言ってんじゃねぇよ! エリナが俺のこと好きだったんなら、真正面から言えば良かっただろ!? そういうのを押しつけてくるなよっ! 俺に期待すんじゃねぇよ! そもそも、エリナが俺のことを臆病とか言うんじゃねぇよ! 誰のせいでこうなったと思ってんだよ!」

「はぁ? そんなの知らないしっ! レオが昔からそうだっただけでしょ!」

「ふざけんじゃねぇ! 五年前、俺がどんだけエリナに苦しめられたと思ってんだよ!」


 エリナがわずかに目を見開いた。


「え、、それ………、って…………」

「気付いてないとでも思ってたか。どんんだけ鈍いんだよ」


 ――なぁ、蔵敷くらしき

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