きっといずれは後悔する (後)

「なっ――」


 耳を疑った。


「別れる前にこんな場所に呼び出すんだから、詫びで抜いてくれるんでしょ? 口でも手でもいいけど。あ、脇とか素股とか、そういう趣味はないからNGね。エリナのやりたい方でいいよ」

「いや、待って……そんな約束はしてないし、やるつもりは全然――」

「しらけること言うなよ。セックスが苦手っていっても挿入が怖いってだけでしょ? だったら口とか手なら平気でしょ。それに、やってみたら意外と平気かもしれないしさ」

「や、やめてっ」

「流石になんもしねぇで別れるとかねぇだろ。なぁ、待てってば」


 嫌がるエリナの右手を澤野が強引に掴んだ瞬間、


「あんたはスタンバイ。ここはあたしが出る」


 秋葉が物陰から飛び出していく。




「待ちな、健介!」

「……っ!? か、かえで!? どうしてここに……」

「あんたが馬鹿なことしないように監視してたの。エリナと一緒にいたの知ってるんだから想像ついたでしょ? びっくりしてんじゃないわよ。というか、よくもまぁ先週は無視してくれたわね」

「ぐっ……エリナ! これはどういうことだよ!」

「その汚い手でエリナに触れるなっ! それ以上変な真似するなら学校と警察に通報するからね!」

「関係ない第三者が首突っ込んでくんじゃねぇよ! 俺に捨てられたからって!!」


 暴論の応酬が始まり、澤野も秋葉も互いにヒートアップしていく。

 もう、いつ手が出てもおかしくない。

 

一挙手一投足を見逃さないように三人を刮目する。

 舌が異様に乾く。

 手に、嫌な汗が滲む。


「このクソアマが!」

「なによ、この粗チン!」

「言ったなてめぇ……っ!」

「きゃっ!?」


 澤野が、秋葉に手を上げた。ぱしん、と弾けるような音が深緑に響く。

 もう、これ以上は見ていられない。


「やめろ、澤野」

 澤野の気を引くように、大声で物陰から出た。


「……あぁ?」


 少し、間があった。

 僅かに見開かれた目には、明確な敵意が宿っている。

 握手を交わした先日の温厚さは、もうどこにも感じられない。


「なに、雨宮くんまでいたの」

「なるべくなら出てきたくはなかったけど、女に手を上げるってんなら話は別だ」

「……はっ」


 嘲るような短い笑い声。澤野が首を鳴らす。

 どうやら感情の矛先を変えたようだった。


「友達が犯されそうになったから焦ってでてきたのか。つうか、きみも部外者だろ」

「部外者じゃねぇよ。エリナの友達だよ」

「だーかーらーさぁ……人の事情に口出すんじゃねぇって、そう言ってんだよ!!」


 大きな勢いをつけて振るわれた澤野の拳を、雨宮は余裕をもって躱す。

 小さい頃、いじめられたときにどうしても必要だった身のこなしは健在だ。


「逃げるなよ。男だろ」

「俺さ、そういうの嫌いなんだよね。男なら売られた喧嘩は買えとか、馬鹿馬鹿しくてやってらんねぇし。どうしても喧嘩やりたいってんなら約束してくんない?」

「約束だぁ?」

「エリナと金輪際関わらないでくんないかな」


 すらりと出てきた言葉に、雨宮は自分で驚く。


 あれだけエリナのことを嫌悪していたくせに、彼女を傷つけられて怒りを感じている。


 そんな自分が信じられなかった。都合の良すぎる自分の心の動きに思わずせせら笑ってしまう。


「エリナに手を出さないって約束してくれるなら、喧嘩してやってもいいぜ? まぁ、今日は学校には先生もいるし、いざとなったら問題になるかもしれねぇけど」

「それはてめぇも同じだろ、雨宮くん」


 雨宮は笑顔を浮かべたまま頷いてみせる。


「別に俺は構わねぇよ? そもそも普段から授業もロクにでてねぇから、素行が悪いのは教師もクラスメイトも知ってることだし。警察サツに補導される程度、ぶっちゃけどうってことねぇんだわ。つうか、むしろ謹慎処分くらって学校休めるからラッキーだっての。だけど、澤野くんはマズいんじゃないの? オラついてるけど喧嘩慣れしていない感じするもんね、さっきのワンパンとかさ。態度でかいだけで、意外と暴力沙汰は苦手だったりするんじゃないの? というか優等生っぽいもんね。学校の成績は? 素行は? 他校の学生と痴情のもつれで喧嘩したって噂になっても、こつこつ積み上げてきた評判に傷つかない?」

「てめぇ……っ、調子にのってんじゃねぇぞ!」


 怒髪天を突くような怒号だった。どうやら、適当に並び立てた言葉のどれかが澤野の琴線に触れたらしい。


「準備欲しいでしょ。どうせなら先生いないときに喧嘩したいもんね。同級生にはバレたくないでしょ。万一ボコボコにやられたら目もあてられないもんね。俺もこの高校からそんな離れた場所に住んでないから、明日出直してってのでもいいぜ?」

「そういうこと言ってるけど、そっちだってビビってんじゃねぇの?」

「……勝手に想像してれば? で、どうするの? ここでやってもいいけど、エリナとか秋葉が悲鳴上げたら誰か駆けつけてきちゃうぜ? 現状が三対一なわけだし、こっちが騒ぎ立てるだけの理由も揃っていることだしね」

「くっ…………」


 澤野が苦い顔をする。


 迷っているということは、やはり講師の目が光っている状況下で不用意な喧嘩をしたくない事情が少なからずあるということに他ならない。


「……分かった。それじゃあ、明日の十三時に、新校舎の中庭に来い」


 無限にも続くような重たい沈黙を破ったのは澤野だった。


「あそこなら防犯カメラもない。場所が分からなきゃエリナにでも聞けばいい」

「場所は把握してる。心配は無用だ」

「くれぐれも逃げ出すんじゃねぇぞ。俺が勝ったら、てめぇは一切手出ししない。エリナがどんな目に遭ってもシラを切れよ」

「俺が勝ったら、もしくはそっちが逃げたときは、エリナと関わるなよ」

「はン。勝った気でいやがる。くれぐれも尻尾巻いて逃げねぇのを期待してるよ」


 そんな捨て台詞を吐いて、澤野が去っていく。

 その背中が見えなくなると同時、エリナがその場にくずおれた。

 秋葉が駆け寄り、そっと抱きついてその髪を撫でる。


「お、犯されると思った……」

「よしよし……もう大丈夫だからね、エリナ」

「……う、うん。それと……、レオも、ありがとう」

「どういたしまして」

「だけど、ケンスケと喧嘩なんて……大丈夫なの?」


 エリナが不安げな声を出す。


「心配してくれるんだ」

「決まってるじゃん……。もし、レオが大怪我したらって想像すると、気が気じゃなくなりそうだもん……」

「彼氏でもない男の前でそういう思わせぶりなこと言わないほうがいいぞ」

「ほんとだもん……」


 しおらしい声に、弱々しい口調。どうにも調子が狂う。


 普段の意気軒昂で明るい彼女の姿はどこにもない。けれど、それも仕方ないことなのかもしれない。


 明日、雨宮が澤野に喧嘩で負けてしまえば、彼の目が黒いうちは絶交するしかなくなる。そうなればエリナを庇うことのできる男子はいなくなる。エリナは友達が少ないから、澤野を敵に回してしまえば学校で孤立してしまう可能性すらある。

 数年前、雨宮がそうだったように。


 そうなることが恐ろしいのだろう。

 けれど、その感情は抱いて当然のものだ。

 不思議なことじゃない。

 孤独は、恐ろしい。

 人間は一人では生きていけない。

 耐えきれずに潰れてしまった雨宮なら、その辛さも怖さもよく理解できる。


 けれど、同情はしない。

 エリナがこうなってしまったことに責任を感じるかと問われれば、全くもって否だ。


 元はといえば彼女が撒いた種。罪悪感はまるでなかった。ああいう条件を提示しなかったら、少なくともこの場は収まらなかった。

 話し合いで解決できそうにないのなら暴力が手っ取り早い。


「ねぇ、勝てるの? ケンスケに」


 エリナが、かすれた声で、喉元を絞り出すように言った。


「勝つか負けるか、なんて喧嘩はしないつもりだけど」


 雨宮はほくそ笑む。


 そんな、生温い結末で終わらせるつもりは毛頭ない。




 そして残念なことに、エリナは大きな勘違いをしている。


 ――男同士の殴り合いなんて、ダサいって。



 そうはっきりと、あいつに面と向かって言ったやったじゃないか。

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