The Over (未遂)

 ライブが終わり、二人はそのまま渋谷に降り立った。


 そのまま田園都市線と使って最寄り駅まで帰ることもできた。けれど、今日はそうしないと決めて、親にも許可を取っていた。


 生まれてはじめて親のいない外泊を、エリナと。

 緊張がまるでない、なんてことはない。


 ただ、ライブが終わったばかりで、どうにも夢現ゆめうつつだ。そのせいで、ふたりでホテルに泊まることに対する現実感が未だにもてていない。足元が、まだ熱気のある開場の余韻を引きずったまま浮ついている。


「今日のセトリやばかったじゃん! 初期のアルバム収録曲とか、未公開の新曲とか、まさかここでやってくれると思ってなかったから感動して泣いちゃったし!」


 ハチ公前改札を抜けながら、興奮冷めやらぬ様子のエリナが目尻を拭う。泣いていたのがはっきり分かるほど目元が赤く腫れていた。


 今日のHigh Twilightのセットリストは、いつもとはまるで違っていた。

 新曲を数曲やりながらも、年を経るごとに普段のライブでは滅多に疲労しないバラードナンバーやアルバム収録のロックナンバーを掘り起こし、古参ファンの心を大いに揺さぶった。


 ――今日は、いつもとは全然違う感じになります。


 そうして始まった一曲目から、会場では感極まり、立っていられなくなったファンがいたほどに圧倒的だった。


 ――夢だった武道館にこうして立てることができたのは、皆さんのおかげです。

 ボーカルの声は、柄にもなく震えていた。それに触発されて、みんながすすり泣いていた。


 最後はここ数年お決まりの曲で締まり、アンコールには来月発売の新曲を披露してくれた。

 史上最高とも言えるセットリストで組まれた二時間半にもわたるライブが終わり、一時間が経ってもまだ、雨宮の身体は熱気と余韻でほてっている。


 このままなだれ込んだら、どうなるのだろう。

 全然、まったく、予想できない。


「こ、ここか……」


 目的地まで辿り着き、空を見上げるように目線を高い場所へと伸ばす。

 普通の、いやらしいほうじゃない、至極まっとうなホテル。

 生唾を飲み込んで、喉を鳴らす。


「それじゃあ行こっか」

「……お、おう」


 エリナが先にホテルのエントランスを跨いだ。豪奢な赤のカーペットが受付まで一直線にすっと伸びている。ふわりとした感触を底の分厚いブーツで踏みしめながら、雨宮は鞄に忍ばせておいた紙を取り出して、手元にぎゅっと握りしめた。


「予約していた真田ですけど」

「……ようこそ」


 普段と違って緊張しているのがはっきり分かるほど硬い声音のエリナに、受付の男性が眉をひそめながら受け答えに応じる。


 明らかに未成年だと分かる姿なのだから、不審に思われるは仕方がない。

 しかも男女で一泊。親の許可がないと十六歳以上の未成年は宿泊ができない。

 東京都の条例でそうなっている以上、年齢を確認できるものの提示と親の許可証をあわせて提示しなければならなかった。


 雨宮とエリナはそれぞれ証明できるものを差し出す。

 それを確認したホテルの受付が目を皿にして黙読し、

「……確認できましたので、部屋を準備しますね。三○三号室です」

 怪訝な顔をしながらも、受付の手続きを進めていく。


 鍵を受け取ると、エレベーターで三階まで上がり、逃げ込むように部屋へ入った。


「おぉぉ……」


 エリナが感嘆した。その隣で雨宮も息を呑む。

 目に飛び込んでくる夜景と、ダブルベッド。その傍らに設置された小さな冷蔵庫。視線を横へ滑らせると、硝子張りの洗面所とシャワールーム。


 二人用の部屋は意外にもこぢんまりとしている。

 生まれて初めてのホテルだ。雨宮の心臓がばくばくと激しく鼓動を打ち鳴らす。


 もしかしたら、今日、ここで――


 そんなことを考えてしまうには充分すぎるほど、なにもかもが整っていた。あとは、気持ちの問題だけ。それさえ乗り越えてしまったら、遮るものなんてなにもない場所まで追い込まれてしまっている。


 チェックメイトまで、あと一手。


 ホテルの宿泊を計画したのは、エリナだった。

 高校生になってからひょんなことで出会ってまだ一ヶ月もしないのに、異性をこんな場所に誘うなんて随分とビッチなんだなと思ったけれど、悪い気はしなかった。ギャルっぽい雰囲気で、自分と釣り合いの取れない美人で、外面もよくて、そのくせアングラな世界にも片足を突っ込んでいて、色々な世界を知っているエリナのお眼鏡に敵ったということ自体が、少しだけ誇らしかったから。


 エリナが先にシャワーを浴びる。ベッドのうえに脱ぎ散らかしていったライブTシャツやパンツをなるべく意識しないようにつまみ上げ、洗濯かごのような代物へと放り込む。


 シャワールームから聞こえてくるエリナの鼻歌は、High Twilightが珍しく披露してくれたバラードソング。不器用な男が愛し方を間違えて恋人を傷つけ、その暴力に耐えきれなくなった彼女にふられてから自分の不器用さを嘆き、懺悔する歌。繊細で強情な愛の詩を支えるように、ベースもドラムもギターも荒れ狂う、ライブに相応しいハードな曲調が特長のそれ。


 人は誰しも、他人を傷つけ合わずにはいられない。


 そう謳う彼らは、今日この日、誰よりも輝いていたし、ちっとも不器用なふうには見えなかった。それでも、あれだけの歌詞を書くのだから、経験があるのかもしれない。


 彼らの語る旋律と言葉は真理だと、雨宮は思う。

 不器用さの程度はあれど、人間は互いに傷つけ合い、許し合いながら共存している。他人と触れ合うということは、近づくということは、そういうことに他ならない。


「シャワー終わった」

「じゃあ、俺も浴びてくる」


 全裸にバルタオル一枚で出てきたエリナと入れ替わりでシャワーを浴びる。


「…………っ」


 これまで特別意識したことはなかったけれど、ちらりと視界の端で捉えてしまったエリナの胸元は想像していたほど大きくなかった。平べったいわけでもないけれど、揺れるほどでもない。慎ましやかとも違う。スレンダーを強調するような実り方だった。


 エリナの気分次第で、雨宮はあれをどうにでもすることができる。そこまで想像して、


「……っ!」


 膨らむ感情を抑えるために、奥歯で頬の内側を強く噛んだ。

 シャワールームに駆け込んで、口の中に広がる鉄っぽさをシャワーの水で洗い流す。

 気付けば、がしがしと頭髪を掻きむしっていた両手が震えていた。


 エリナを、ヤれる。


 歓喜に打ち震えているのか、緊張で強張っているのか、それすら曖昧だ。けれど、これは絶好の機会であることには間違いない。このまま虚しく終わっていくだけかと思っていた矢先に降り注いだ微かな一筋の淡い光明。これを易々と見逃せるほど雨宮は大人じゃない。ふつふつと湧き上がる情動をひた隠しにできるような人間じゃない。


 何度も深呼吸をして心を落ち着けてから、部屋へ戻る。


「さっぱりした?」


 そう聞いてきたエリナは、ここに来る途中で立ち寄ったコンビニで仕入れたサイダーを口にしていた。バスローブ一枚の姿で、ベッドのうえに胡座をかいている。金髪の美人が暗がりの部屋でそうしているさまは絵になる。


「ちょっとは慎みとか、そういうのないわけ?」


 転がすような声を作ってそう指摘すると、エリナがむっとした表情になる。


「アタシにそんなもん期待しないでよ」

「緊張感とか全然ないじゃん」

「そんなもん感じる必要ある?」

「なんか、あるじゃん。そういうムードとかさ」

「ムードってなにさ」

「……いや、具体的に聞かれると俺も困るけど」


 童貞に聞いてくれるなという話である。エリナだったら知っているんじゃないかと思って口にしたのに、少しだって乗ってこない。


「というかさ、これってさ、どういうシチュエーションなわけ? 期待していいの?」

「いや、期待ってなに? あとはもう駄弁って寝るだけじゃない?」

「……いやさ、だから寝るってさ、そういうことだよな?」

「へ? いや……、なんか勘違いしてる? ないない。あり得ないよ、レオが想像してるようなことはやらないよ?」


「…………え?」


 エリナの困惑した声。少しだけ強張った肢体。拒絶にも似た反応。

 視覚と聴覚が同時にエリナの反応を読み取る。

 弾き出された結論に、頭が真っ白になる。


「勘違いしないでよね。今日は、アタシの家が駄目で帰れないから、ついでにどうって誘っただけなんだしさ」


 きっぱりと、エリナが断言する。


「アタシ、これでも不純異性交遊とか、そういうのはちゃんと一線を弁えてるから」


 なんだ、それ。

 なんだそれ。


 ここまできて、なんだよ、それ。


「…………あ、そう」


 雨宮の心の奥底で燻っていた気持ちが、急激に萎えていく。

 この状況まで持ち込んでおいて、その反応はあり得ない。


「……まぁ、いいや。そもそもそんなに期待してなかったし。いや、分かってたけど、まぁ、ちょっとはなんか期待しちゃうじゃん」


 こんな生殺し、ありか?

 少しでもチャンスありそうとか、普通だったら期待するだろ。

 なのにエリナは明らかにそんな予定はなかったと口にする始末。


 ちくりと心が疼いた。エリナに距離を取られると案外傷つくもんなんだな。そう自覚して、さらに心が抉れる。

 他人の評価なんてどうでもいいなんて本気で信じていたのに、矜恃にも似たそれがあっさりと脆く崩れていく。


 ああ、なるほど。

 High Twilghtが歌っていたのはこういうことか、と唐突に理解した。


 人は互いに傷つけるだけじゃない。

 知らないうちに傷ついて、けれど嫌われたくないから、見栄を張って隠そうとしてしまう。素直じゃないから、我慢の限界がくるまで胸の内に秘めてしまう。


 あれは、そういう不器用さも語った歌なのだ。

 この痛みをエリナに吐き出すのはお門違いでみっともないこと――そう感じている自分をどうしても否定できない。

 だから、この浮かれた夜が明けるまで、張りぼてで薄っぺらな強がりをしてみせる以外にどうしようもない。


(なんなんだよ、これ……)


 馬鹿みたいだった。


 お互いに好きなアーティストのライブに行った帰りにホテルの一部屋を借りて、シャワーまで浴びて、なのにセックスもしないであとは寝るだけ。

 ふざけている。

 この間柄は、一体全体なんなのだろう。吐き気がしてくる。

 そんな不満を抱いているくせに、雨宮にはエリナを口説くほどの勇気がない。

 絞り出せるようなものなんてこれっぽっちだって残ってはいない。とうの昔に根刮ねこそぎ奪われてしまったから、絞り出せるものすらない。

 だから一線を越えられない。有刺鉄線を張られ、警戒のあまり身を引いている彼女に触れることもかなわない。


暗澹あんたんたる気持ちに追い打ちをかけるように続く彼女の言葉に、はっきりとしたとげが混ざる。


「というか、彼氏でもないのにヤるとか、ないと思うし。雰囲気に流されてとか、なんとなく流されてセックスとか、そういうのは一番イヤ」


 エリナの口にする隠語が、独特の響きをもって部屋の壁に反響する。

 雨宮が口にするのとは、似て非なる甘美で蜜月な響きが鼓膜を揺さぶってくる。


「セックスはさ、やっぱり、好きな人とやりたいじゃん」


 気持ちは分かる。けれど。なら。


「じゃあさ、エリナにとって、俺ってなんなの」


 我慢できなかった。

 それは、それだけは、エリナの前では決して開けてはいけないパンドラの箱だったはずなのに、堪えることができなかった。

 けれど、もう放ってしまった感情は回収のしようがない。


 零れた言葉が掬われるのを待つしかない。


 どれほど時間が掛かるだろう。どんな言葉が返ってくるのだろう――そう心配していると、エリナが雨宮の顔をじっと見つめて言った。


「少なくとも、彼氏とか、恋人とか、アタシたちはそういうんじゃないよね」

「…………っ」


 決定的だった。


「エリナは……、彼氏でもない野郎と一緒にホテルで夜を過ごすような女だったんだ」

「その言い草だとさ、レオってばアタシのこと好きみたいじゃん。期待してたみたいじゃん。ショック受けてるってことはさ、そういうことでしょ? ねぇ、そうなの? セックスできなくてショックうけてるの?」

「そんなわけないだろ。エリナのことを彼女とか恋人と勘違いしてるわけじゃない」


 強がってみる。

 けれど、彼女の鋭い眼はその張りぼてをきちんと見抜いてくるのだ。


「じゃあ、なに? 好きでもないし恋人でもない友達だけどセックスしても平気って考え方なの? なにに期待してるの? 恋人じゃないアタシとセックスしたかった?」


 そういう問いが続くのは分かっていた。だから、すぐに切り返す。


「俺が言いたいのはそういうことじゃない」


 お互いに恋人同士でないことはきちんと認識をして、合意のうえで、こうしてここにいる。


「普通さぁ、恋人でもない異性と二人きりで、しかも同じ部屋で寝泊まりするとかあり得る? ねぇよ。あるわけない。だからさぁ、こんなシチュエーションになったら男子は誰でも少しは期待するよ。あり得るわけないじゃんなんて言葉、冗談でも通用するわけないだろ。エリナの感覚、相当ズレてるよ」

「それって一般的な常識から外れてるってこと?」

「そうだよ」

「まぁ、別に他人と感性ズレてるなんて今さらだし。どうでもいいけど。で、レオはさ、本当のところどうなの?」

「どう……って?」


「散々あれこれ言ってるけどさ、実際、ヤレると思ってたんじゃないの? アタシと」


 雨宮は息を飲んでエリナをみつめる。

 ふざけた調子で聞いてきたのなら冗談でも口にしてやろうと思っていたのに、真っ直ぐに見つめてくる瞳は真剣そのもので、とてもじゃないけれど、建前や方便で適当にごまかしてどうにかやり過ごせるような雰囲気ではなかった。


「……正直なところ、少しは勝算あるのかなって、うっすら思っていたりはしたけど」

「ふぅん……そう、なんだ」


 エリナはそれだけ言うと、仰向けに寝転がって、そのまま目を閉じてしまった。


 笑うことも、怒ることも、気持ち悪いと罵ることもない。

 ただただ、自らが放った言葉を噛みしめるように何度も深呼吸をしてみせる。


「もっかい聞くけどさ、レオはさ、アタシのこと、好き?」

「……それって、どういう感情の好きを聞いてるの?」


 質問を質問で返すと、エリナは深い溜息を一つ。


「……友達として、どうなのかなって」

「それは勿論、好きだよ」

「……ならさ、仮にさ、アタシに彼氏ができたら祝福してくれるの?」

「えっ――」


 それって、つまり、そういうことなのか。

 問い返す間もないうちにエリナが続ける。


「ちょっといいなって思ってた男子からさ……告白されたんだよね。返事は、アタシが返すことになってるんだけどさ」

「…………そう、かよ」


 そんなどうでもいい反応しかできない。

 友達なら、おめでとう、とか、よかったじゃん、とか、そういう気の利いた祝福くらい咄嗟にでてきて然るべきだというのに、雨宮には何の世辞も持ち合わせがなかった。

 言葉がでないから、自覚、してしまった。


「ここまであからさまに線引きしてからその話を俺にするってことはさ……そいつの告白、受けるつもりなんだろ」

「まだ、悩んでるけど、そろそろ決めないといけないかなぁ、って思ってる」


 エリナの声が、弾んでいるようにも、残念がっているようにも聞こえる。奇妙な声音だ。

 背中を押して欲しいようにも聞こえるし、その正反対のことを望んでいるようにも感じ取ることのできる、ふわふわした感情が漏れている。


「好きな友達が恋をして幸せになるんだったら……祝福、してくれるよね?」

「……そう、だな。そりゃあ、当然、じゃない?」


 そう、当然だ。

友 達の幸せを願うのは古今東西、どこだって常識なことのはず。


「だから、セックスなんてできない」

「……っ」


 言葉が出てこない。

 そんな論法で壁を作るなんて、あまりにも卑怯だ。そう思った。


「なんか、ごめん。こんな変な話して。これから会える機会、減るかもしれないし、先に謝っておく」


 なんだそれ。

 何に対する謝罪のつもりなんだよ。


「……折角のライブの後だっていうのに、ほんと、ごめん」


 違うだろ。そうじゃないって分かってるだろ。

 なのに、そうやってごまかしやがって。

 エリナは、本当の気持ちを吐き出すつもりなんてさらさらないのだ。

 だからこれ以上追求できないし、させてもらえない。


「もういいよ。彼氏でもなんでもないんだしさ、そもそも謝られる立場にないじゃん、俺」

「こうでもしないとアタシの気が済まなかったからさ……」

「勝手にしろよ、ほんと」


 とっくのとうにバスローブに着替えていた雨宮は会話を切り上げて、洗面所に戻った。

 差し込み口にコンセントを挿して、中途半端に乾いてしまった髪にドライヤーをあてる。


 いったい何の罰ゲームなんだよ、これ。

 今すぐこの部屋から逃げ出したかった。

 胃の奥から喉元まで込み上げてくる激情をそのまま吐き出して、夜の街を駆け出したい。


 そのままトラックにでも勢いよく跳ねられて、すぐさま死んでしまいたい。

 こんなどうでもいい命なんてあったってなくたって同じだ。

なにがワンチャンだよ。

 そんなもんない。どこにもない。あるわけなかった。

 少しだって期待していた自分が馬鹿みたいじゃないか。クソ喰らえだ。


「ふざけんじゃねぇよっ……!」


 殴りつけた鏡に映った自分の姿を睨み付ける。


 格好がついていない髪型。全国平均を下回る身長。あばら骨が浮かぶほどの痩躯に、筋肉なんて欠片も見当たらない、頼りない腕っぷし。日頃のケアを怠った頬のあたりはニキビができて、眉毛も整っていない。


 不細工の塊がそこにあった。


 なにを勘違いしてたんだ。どうして自惚れていたんだ。

 一緒にライブに行って、ゲーセンで遊んで、休日に買い物することくらい、いまどきの高校生だったら誰だってやってることだろ。

 ホテルは流石にどうかと思うけれど、誘われたときだって不純なことは一切やらないからと事前にきっぱり言われていた。ただの冗談だろうと思っていたけれど、その忠告は冗談じゃなくて本気だったってだけ。勘違いしていたのは雨宮のほうだ。


「馬鹿みたいだ、ほんと。なにやってんだよ、俺。こんなんじゃ、無理だ、もう」


 最悪な気分だ。

 とりあえず寝て、早めに起きて、始発で帰ろう。

 そう心に決めた。


 部屋に戻ると、一つしかないベッドの右側に、背中を丸めてエリナが寝ていた。静かな寝息だけが頼りになった部屋はエアコンのせいで少しだけ肌寒い。


 背中合わせになるように、雨宮はベッドの左側に寝転がった。

 やりたいことも、やるべきこともあったのに、全てがどうでもよくなってしまった。久々にライブではしゃいだせいか、身体が重くて、怠い。

 そのまま睡魔がやってきて、すぐに意識を落とした。




 翌朝、始発前の時間に目覚めると、すでにエリナの姿はどこにもなくて。

 ――意気地なし。

 丸い文字でそう書かれたメモ書きと、ベッドの右側にわずかに残った彼女の香水の匂いだけが、昨夜と陸続きの現実であることを嫌と言うほどに主張していた。

 置き手紙はぞんざいに破り捨てた。こんなもの、清掃係にだって見られたくない。


 虚ろな意識のままにホテルを出る。

 人も疎らな渋谷の表通り。地面はそこはかとなく濡れはじめていた。


 傘を差すかどうか迷うほどの雨。

 思い切りのなさは、まるで昨日の雨宮自身のようだった。

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