STORIA 54
一ヶ月振りに僕は自宅へ戻った。
こんなに嫌って止まない筈の存在場所なのに、病室とは全く違う。
玄関扉までの庭中の甃を背を照らす陽を感じながら歩く。
解放されたと感じていたあの空間より実家を囲む空気を、自分の意識とは何処か別の処で体が自然と受け入れている事を僕は改めて知る。
室内には変わらない閑かな空気が流れ込んでいた。
僕は優しい光景を目にする。
僅かに離れたその奥で、何処にでも存在する母親の様に手にした陶器を丁寧に扱い、形良く食器棚に並べていくあなたの影。
口を噤んでいるからこそ、優しさで包まれた姿。
もし次の瞬間僕に気付いても、その容姿に釣り合う美しい心で"お帰り" と囁いてくれたらどんなにかいいのに。
けれど僕を目の辺りにすると彼女は鬼と化してしまう。
それでもこの人は僕の母親に変わりはない。
たった一人の。
交通事故で病院に運ばれ治療を受けられたのも、怪我が順調に回復していった事も、彼女が入院費を入れてくれていたから、僕は今ここにこうして元気で居られる。
そう想うと感謝の心が生まれて来ない訳でもなかったんだ。
「そこで何をしているの」
母が鋭い目付きを僕に送った。
ここで言葉を返さず静かに場を退く事が一番利口なのだろうと想う。
分かっていても今、僕はあなたの本当の感情に触れてみたい。
彼女の姿は僕を闇の底に叩き落とす相変わらずの物であるかも知れない。
だけど反対にその表情は、言葉は想像以上に優しさで溢れているかも知れない。
あなたがいつ、ふとした瞬間に見せてくれるだろう優しさに僕は望みを捨て切れずにいるんだ。
"苦しみの中の幸福" を探し始めた時から。僕は自分を苦しめる感情からこの心を解放してやらなければ。
「……母さん。事故の事、心配かけてごめん……」
「何の話?」
母が冷静を保ったまま冷たく言う。
僕はそんな彼女に願いを掛ける様に、胸元隠しから取り出した赤い鶴を固く握り締めていた。
「本当は心配してくれていたんでしょう……? 僕が入院中の間、ずっと」
僕の言葉に態度を一変させた彼女の指先が耳を突く激しい音を起てた。
瞬時にしてグラスの破片がその足下に飛び散る。
「心配? 私があんたを? 笑わせないでよ。入院費もあんたの為じゃない、私の評判の為よ」
やっぱりそうだったんだ……。
僕は茫然とその場に立ち尽した。
「お金一つで面倒な事が片付く時代だもの。さっさと振り込んで身の回りの用事に集中したかったのよ。でも今想えば改めて自分の感情に気付かされたわ」
彼女は立ち上がると、ゆっくりと近付き正面から僕の顔を見据えた。
目を逸らす事の出来ない、縛り付けられる様な視線に僕は一瞬で動けなくなる。
「あんたなんか、あの事故で死ねば良かったのよ」
ぞくっと、僕の背に身震いが走った。
彼女の栗色の髪を透いて映る、窓の向こうの薄暗い夕闇に気が遠くなりそうだった。
何も変わらない。
何も変わってなんかいない。
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