STORIA 50

その音は次第に拡大し、同時に開き戸を引く音と共に看護婦が姿を現した。

「佐倉君? 未だ起きてるの。早く寝なさい。それにどうしたの、その髪。まるで雨に降られたみたいじゃない。窓はちゃんと閉めて……」

看護婦はすぐに右京さんの異変に気が付いた。

「看護婦さん……」

「どいてなさい」

彼女はそう言って持参していた診察器で右京さんの容態を調べ始める。

「大変……、すぐに治療室に運ばなきゃ」

看護婦は顔色を変え診察器を慌ただしく了うと、夜間の医師に連絡を取り、右京さんの寝台を壁際から取り外した。

「もう無理ですよ、多分彼女は……」

僕は依然、冷静さを保ったままそう言った。

「佐倉君、あなた、もしかして右京さんのこの状態に気付いてたのね……?」

僕は後ろめたさを隠し切れずに想わず口を噤む。

「どうしてもっと早く言わないの!?」

途端、心臓を釘で打たれた様な感覚が襲う。

頭から水を掛けられた様に心が目を覚ました。

僕は何という恐ろしい数十分を過ごしていたのだろうと。

この部屋で右京さんとたった二人で。

あの時、僕は確りと呼び出しベルを手にしていた筈なのに。

僕は一人の大切な命を見殺しにしてしまうのかも知れない。

はっきりと心に甦る短い時間の出来事が激しい恐怖心を齎していたんだ。




翌朝、僕の病室では早くから忙しく時間が動き始める。

お姉さんは手術を終えて、少しの間この部屋へ戻って来ていた。

彼女が最初に目にした光景は、無駄なく片付けられた右京さんの机とシーツも何もかも取り外された硬いベッド。

明け方、右京さんは治療室で亡くなった。

その告知にお姉さんは声を上げて涙を流す。

僕にはもう何を言う資格もなく彼女の心に触れる事も許されなかった。

僕は右京さんの主治医に許可を貰い、霊安室へ向かう。

安らかに眠る老婆の姿が目に映った。

「明け方、四時に閑かに息を引き取ったわ」

看護婦が僕の隣で小さく言葉を翻す。

僕は両手を合わせ瞳を伏せると深く頭を下げた。





僕に残された課題はただ一つ。

優しい音色を奏でる持ち主にどう詫びるかという事。

彼女は老婆の死に悲痛な哭声を上げて以来、僕に視線を譲り渡してはくれない。

当然の事だろう。

あの日、彼女は僕が右京さんのそばに居た事実を知った。

彼女がどういう心持ちで居るかなんて口を開かなくても伝わる。

だけど僕は自分自身でも気付かぬ影の場所で、重責から逃れたいと願っていた。

右京さんの死を決定付けた根はその自身の躰にあったと。

あの人の運命を左右したのは僕じゃないって、言い訳ながら己を宥め賺していたんだ。




気まずい空間に揺れる柔らかで可憐な存在。

僕はその心から唯一の信頼をなくした。

"肉親の様に大切だった人" 僕にはその重みが分からない。

いや、認めたくないだけなのかも知れない。

全てを失った面持ちの彼女は室内にその姿を留めていても、まるで華奢な躰の周りだけ異空間に放り出されているかの様だった。

コトリと音もせず、切り取られた枠の中で。







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