第34話 変わりゆくもの変わらないもの3

「太子殿下、どうか怒りを鎮めて下さい。考えなしにあなたに手を貸したのは軽率でした。深く反省しています」

「反省だと? 生温い。阿風たちが何とかギリギリ回避できたからこそ、今こうしてそなたはわしの面前に何事もなく立っていられるのだ。太子殿下呼びも止せ。何度言わせる」


 会話の主は楊叡と山憂炎だ。

 先程は他の者たちの手前、大半は抑えていた憤りを隠しもしなくなった楊叡が鋭く睨むと、睨まれた山憂炎はもっともなお叱りに愚行を悔いて目を伏せた。

 強風に長い黒髪を靡かせ、現在仙人たちは遥か上空から地上を見下ろしている。人など点にすら見えない。

 ここならば都合の悪い話をしても誰に聞かれる心配もない。

 凛風が去ってから早々に、彼らは肖子偉を地上に残しここまで来ていた。


「本当に申し訳ありませんでした」

「他者の仙術の途中で横から干渉するなど言語道断。何とか制御できたからよかったものの、暴走しかかったのだぞ。危うくわしの大事な孫娘を巻き込むところだったではないか!」


 猛省しろ、と未だに温度の下がらない楊叡の烈火の怒りの気配に、山憂炎は消沈に肩を落とす。


「わしの仙術では不十分と思ったのか?」

「いえ、二か所から火が出ていたので分岐させたく思いまして」

「それくらいの芸当、わし一人でも十分出来たわ。二度とあのような危険な真似は慎むのだぞ」

「肝に銘じます」


 どんよりと暗い彼の落ち込みぶりを見て少し気が咎めてしまった楊叡は、怒りを解くと改めてすっかり優男になってしまった男へ、疲れたような溜息を吐き出した。


(威厳に満ち溢れた大将軍はいずこ……)


 それでも彼といると自分は最年長ではなくなって無意識に張っていた気が抜けるのか、少年時代や青年時代に戻ったような錯覚を起こしてしまう。

 本音を言えば決して嫌いなわけではないが、だから余り会いたくないのかもしれなかった。

 怒りが薄れる反面そんな事を思いつつ、ぼんやりと疑問に思っていた問いがつい口から滑り出た。


「そなたは何のために今の朝廷に仕えておるのだ? 周辺国は未だ戦乱が明けぬ。今この国は平和だが油断は禁物だ。それ故愚策には目を光らせ果ては国力を強化し、この国をより良くしたいという思いがあるのか? されどわしは下界への干渉は余り感心せぬ」


 山憂炎は、静かに楊叡の横顔を眺めた。

 かつて国のために奔走して、あと少しで理想が叶うというところで国のために去るしかなかった一人の皇子がいたのだ。その横顔を。


「――眩しかったですか、肖兄弟が」


 横目を向ければ、山憂炎の横顔があった。

 敢えて楊叡の表情を見まいとするかのようだ。


「そうだの。……まあもう感傷らしい感傷に浸るのさえ忘れておった昔むかしの事だが」

「そうですね。太子殿下は現在、様々な尊いものを手にしておられます。今はその宝物を大切になさるべきでしょう」

「……わかっておるよ」

「左様で」


 優しい風が吹く。

 優しいなどと、自然はいつだってただそこにあるだけなのだが、そう思うのは人には強くも弱い、脆くも硬い、心があるからだろう。

 抱いていた怒りはすっかりどこかへ行ってしまった。

 野郎と二人でいつまでもこんな所に居る趣味はないと、楊叡がもう即行帰ろうと本気で思っていると、ふと、隣から呟きが聞こえた。


「僕は……かつてあなたも夢見た理想の国家を見たいのです」


 振り向き、虚を突かれたように無防備な顔で瞬いた楊叡へと、山憂炎はあたかも人間だった頃に戻ったように年長者の笑みを浮かべた。


「そなた、だからわざわざ再び朝廷に?」

「え? ああいえいえそれは練兵がしたいなーと思っていた所にたまたま話がきたので、勿体ぶった末に引き受けただけですよ」

「わしの感動を返せ。全く、少しは頭の方もキレるようになったかと思ったが、脳筋なのは相変わらずのようだの。きっちり三公としてやっておるのか少し心配だの」


 得意顔で言い切った山憂炎に、楊叡は本気でがっくりと脱力した。


「ところで折角ですし、今日はこれから酒でも酌み交わしませんか?」

「まだ城内は落ち着いておらぬ。呑気に酒を飲んでいる暇はないだろう? 早く地上に降りよ」

「ふふふ、後は城の役人たちが十分にやってくれますよ。煩わしい後始末に僕が関わる必要もないでしょう?」

「そなたも間違いなくその中の一人だと思うがの」


 呆れる楊叡へと山憂炎はとぼけるように微笑んだ。


「ふん、そう言えばそなた先程は第二皇子の命の保証があったなどと言っておったが、あれは真っ赤な嘘であろう? もしもあの皇子の身に何事か起きていたとしても、そなたは顔色一つ変えずに黒蛇とやらと取引していたのだろうな」


 山憂炎、彼は反論もなく艶然とした笑みを柔和な面に浮かべた。

 顔立ちの柔らかさとは裏腹に、そこには歴史の淘汰を経験した者特有の酷薄さが滲んでいる。


「今回の事は試金石でもありました。もしも子偉殿下が黒蛇に害されていたとして、それはそれで彼はこの国にとってそれまでの者だったというだけの事。僕にとっては戦場での生き死にと同じですよ。将来性を見越して目をかけてはいましたが、誰しも死すればそれ以上はないですからね。けれど彼は彼を思う者たちのおかげで何とか危機を乗り越えました。運も実力のうちと言いますし、これでも僕は子偉殿下の事は気に入っていますから心から良かったと思っていますよ」

「……時々わしはそなたの判断に、氷雪の如き冷たさを感じるの」


 一見優しいように見えてその実、目的のためには薄情にもなれる男を前に、楊叡は現王朝の者たちが気の毒に思えた。

 こいつの上で皇帝やんなくて良かったわ~……的な事も思ったが、口には出さなかった。


「まあ、天はわしらのような仙人が下界の諸々に介入するのを余りよしとはせぬしの。そなたが基本彼らの生死に関わらぬようにするのは、むしろいいのかもしれん」


 それでも楊叡は難しい顔をしている。


「まあわしは、娘や孫に何事かが起きそうであれば、そのようなものは無視するのだろうがの」

「それはそれでいいと思いますよ。僕もそうしますし」


 肩を持つ山憂炎に楊叡は複雑な面持ちで嘆息した。


「……そなたに一つ言っておくが、店の常連になるのは良い。だが阿風にホイホイ近付くでない。全く、恋人気取りか」

「え? ああ良いですねそんな関係も! 阿風は本当にいい子ですものね。あの子となら僕も結婚したいですよ――いたあっ!」

「貴様なんぞに大事な孫娘はやらんわ!」


 楊叡から痛烈なすね蹴りを食らった山憂炎は、涙目で足を摩りながら少し落ち込んだように嘆息した。


「あはは、僕よりもあの子を欲する男はいるようですけれどね」

「何……? それはどこのどいつだ? 知っておるのなら今すぐ教えよ」

「ええと……」


 楊叡はここへの到着の差で黒蛇や肖子偉とのやり取りは見ていなかったらしい。

 見ていての発言なら山憂炎は本気で楊叡を恋愛セミナーに通わせようと思う。


「……まあ、太子時代からかなりその手の方面ではズレまくっていましたしね」

「何か言うたか?」

「いいえ~。孫の恋路まで邪魔するようでは、紫華さんに空の果てまで蹴られますよ?」


 いきなり娘の名前を出された楊叡は「くっ」と悔しげに堪えた。頑固親父よろしく娘の結婚時は最後まで猛反対したせいで、娘とは結構仲違いしていた時期があっただけに痛い所を突かれた。

 だがそのおかげで少し冷静さを取り戻せた飛仙は、ふう、と溜息を吐き出した。


「まあ、わしもだいぶ丸くなった。仮にその男をわしが認めても、阿風を得ようとするならば、わしよりも余程強固な壁が立ち塞がるだろうしの、あまり心配は要らぬか」

「ああ、なるほど」


 山憂炎は心当たりの生真面目な官吏の姿がありありと浮かんで、大いに納得した。





 山憂炎の言葉通り、肖子偉の謹慎は襲撃事件当日のうちに解け、彼は雷浩然の屋敷の居候となった。

 時々彼の屋敷には凛風が差し入れを持ってくる。

 雷浩然いわく「殿下がいらしてから凛風の来訪頻度が格段に増えました。感謝しています」らしいが、その台詞に続けて「持つべき者はやはり良き友ですね」と何故か無駄に爽やかな割にどこか無表情にも見える笑みで言われてしまった。

 彼は娘とよく顔を合わせる若い男の自分を警戒しているのか、でなければ既に肖子偉の娘への気持ちに勘付いているのかもしれない。

 筆の如くボキッとやられるかもしれない、と時々寝る前に緊張が過ぎるのは誰にも言っていない秘密だ。


 しかしそんな生活も思ったほど長くは続かなかった。


 ある日皇城に呼び出された肖子偉は、各地へ行き見聞を広めるよう皇帝直々の勅命を下されたのだ。


 国内の巡行、こちらは珍しくもない皇子としての職責の一つにあたる。

 ただ、それは裏を返せば、その地その地での人々から話を聞き国益にそぐわない困難や悪事があれば速やかに解決してこいという命を含んでいた。

 しかも勅命では公の巡行ではなく、これまで兄の肖子豪がそうしてきたのと同じように身分をやつしての巡行だ。

 取り締まりに当たっても、必要に駆られなければ肖子偉自身が身分を明かす必要はないとも言われた。


 正直なところ、兄の代わりに各地を回り、自分が兄のような成果を出せるのか、肖子偉は甚だ疑問だった。


 兄は自主的にやっていたようだが、自分は言われて初めてやるという積極性の違いもあるし、荒事もあるかもしれないと思えば、物怖じもする。

 しかしそんな卑屈な不安も皇帝の言葉で希望に変わった。


 ――将来兄の補佐をしたいと申すのであれば、それ相応の知識を体得し、経験を積まなければならぬ。これから子豪は重責を担う故、勝手に出歩いてもいられなくなるからな。


 兄は太子になれば皇帝に代わっての公務の一部をやらされたり、補佐したりと皇城内に居なくてはならない仕事が増える。ただでさえ自身の兵士たちの練兵もしなくてはならない兄なので、やはり城を空けて地方を巡る時間は取れなくなるだろう。


 自信のなさと困惑に加え、父皇の低く強い声音にはいつも身の竦む思いのしていた肖子偉だったが、この物言いにはハッと息を呑んだものだった。


 それはつまり自分にも期待をかけてくれている事の証左だ。


 肖子偉は自分が捨て置かれていると思っていた。

 わけありの過去もあったしそれでいいと思っていた。

 今までは。


 しかし雷凛風という少女と出会ってから、自分はそれではいけないのだと、いつも心のどこかで思うようになっていた。


 彼女に釣り合う男になりたいと思うようになっていた。


 これはきっとそのための試練であり第一歩。


 父としてそして偉大なる皇帝だと尊敬していた相手からの嬉しい言葉に、自身の胸に驚きと喜びが渦巻くのを肖子偉は感じていた。

 だから跪き両手を前に重ね臣下の礼を取ったまま深く俯いていたものの、勢いよく面を上げてしまった。もちろん皇帝の御前では私的な会見といえ布はなしだ。

 目を丸くする息子の無防備な表情を見つめて何を思ったのかは知らないが、五十路が近いも体力的には二十は若いと讃えられる壮健な皇帝は咎めはせず、怜悧さと冷淡さを併せ持つ整った容貌で口の片端を少し引き上げて笑んだ。


 ――子偉、大いに期待しているぞ。


 肖子偉の胸に、兄のためにも国のためにも気を引き締めてかかろうと、前向きな気持ちが湧いた。


 ――皇都を離れた地には危険が付きものだ。そこでだ、朕はお前の護衛兼補佐に山憂炎の推挙した者を付けるつもりだ。監察御史であるその者の権限で随時対処するように。


 そういえばその場には、何故かその山憂炎もいて、にこやかに微笑んでいた。

 それは心強いと素直に思い感謝の口上を述べた肖子偉は、山憂炎の笑みがより深まっていた事にはついぞ気付かなかった。

 皇帝の心の内を既に知っていただろう山憂炎は、だからこそ有能な駒として「彼」を欲したのかもしれない。


 元義賊の青年――黒蛇を。


 何と肖子偉の補佐は、あろう事か黒蛇だったのだ。


 黒蛇の随行は最早確定事項。

 否やを唱えられるはずもなかった。


 肖子偉は思う。

 きっとこれから自分や自分の周囲は望む望まざるにかかわらず、様々な変化が訪れるのだろうと。


「目下わかっている大きな変化は、私自身の出立か」


 雪露宮は綺麗に掃除をされ、改修はまだ途中ではあるがほとんど元の姿に近い。

 今は誰も住んではいないので、夜などは特に以前と変わらず静かだ。


 雷浩然も既にこちらには来ておらず、今は他の場所での仕事を請け負っている。


 彼は雪露宮勤務から本来の礼部の仕事へと戻されたのだ。


 雷浩然は祖父が職を辞すと宣言したために必然的に行われた、礼部内での人事異動を命じられた一人だった。

 貴重な史料の整理という名目はあれど、やはり本来皇子一人の世話に割くような人材ではなかったのだろう。

 皇太后の生誕祭の前後は忙しい時期でもあり、退官は落ち着いてから改めてと説得されていたために祖父はつい先日まで礼部侍郎でいたが、それももう落ち着き、雷浩然はこの宮を去った。

 資料整理には後任がいるようだが、きっちり業務終了の刻限に帰るらしいので、残業で宮に灯りが灯される事はもうないのだ。


 本当に、誰もいない。


 よって布要らずで過ごせる現在、一人見慣れた東屋の欄干に凭れて呟いた青年は、闇と同化している真っ暗な水面にじっと目を凝らした。

 そうしたところで池に残った蓮の葉の一つも見えはしないのだが。

 自分の持ってきた手持ち提灯ちょうちんの仄かな光が申し訳程度に水面に分身を落とし、微かに揺らいでいるのだけが見える。


 今度は自分も去るのだ、この宮を。


 一時的に外部に居候はしていたが、そのままにしてあった荷物もあった。だがそれも全部引き上げた。


 ここだけではなく、今日でこの皇都ともお別れだった。


 明日、勅命通り地方へと赴く。


 だから彼は見納めにここにした。


 ここで最後の――……。


「お待たせしました、子偉殿下!」


 感傷のようなものに浸っていた肖子偉は、トッという軽い着地音と共に背後から聞こえた少女の声にハッと顔を上げて急いで振り向いた。

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