第26話 皇太后の生誕宴2

 凛風は昼食の膳に間に合うように包子を届けた。


 持ってきた岡持ちは二つとも仙術仕様で他では買えない大事な物なので、宴席もとっくに終わっているだろう夕方にまた取りに来ると言い置いて、それまで皇都を観光して時間を潰す事にした。何度も来ているのに実際きちんと見て回った事がなかったのでちょうどよかった。


(昼時だし、もう包子は出されたかな。きっと彼はビックリして、それからふわーって嬉しそうな顔をするよね)


 難なく想像できるその顔を直接見られないのは残念だったが仕方がない。

 どこか適当な店で自分の昼食を済ませようとぶらぶら大きな通りを歩いていると、前方の辻で何やら通行人が騒ぎ始めた。


「喧嘩でも始まったかな」


 大抵通りで騒ぐなんてそんな理由だ。

 進行方向だったのでそのまま傍まで行けば、しかしどうも喧嘩の類ではなさそうで皆が一様に同じ方向を見つめている。

 先程までいた場所からでは建物が邪魔をして見えていなかった方角だった。


 青天に幾筋かの黒い煙が立ち昇っている。


「少なくとも三か所、いや四か所はあるな」

「ねえ、あっちの方って……まさか皇城でまた火事? ちょっと前に小火ぼやを出したばかりよね」


(皇城!?)


 今日は普通に父親も出仕している。

 そして何よりそこには大事な友もいる。


「祝いの日なのに火事だなんて……」

「だよなあ」


 同情的に嘆く通行人たちの言葉に、心の中で不安が大きくなっていく。


(そうだよ、こんな日には厨房だって他だって慎重になるはず。簡単に火事なんて起きるわけがない。しかも出火元が一つじゃない。これって――……)


 我知らず拳を握り締めていた。

 ここでただ何もせずいるのは躊躇ためらわれた。

 もしかしたら自分は金兎雲で一人でも多くの人を救助できるかもしれないのだ。


「――兎兎!」


 勝手な侵入に処罰を受けるかもしれないという僅かな葛藤を思い切り、人目も構わず雲を呼んだ。

 飛来した不思議生物に飛び乗った凛風――男装なので傍から見れば少年――に目を丸くする人々が、徐々に目線を上げていく。

 建物屋根の高さ以上に浮上した凛風は、依然として黒煙を上げている皇城方面を険しい眼差しで睨んだ。


「兎兎、皇城に行って!」


 ガッテン承知!とばかりに金兎雲は張り切って急発進。

 そんな動きにも平然として微塵も姿勢を乱さず、彼女は一路皇城を目指した。





「何だ……?」


 肖子偉が不審を抱くも兵士はあっさりと視線を外して再び歩き出してしまった。

 手には酒のかめのような物を一つ提げている。

 酒の補充係なのかもしれないが、まさかこの非常時に宴が継続されていると思っているわけではないだろう。疑問を消せないまま、気を取り直してもう一度露台から隈なく雪露宮内を確認し、ようやく自分も階下へ下りることにする。

 気付けば最上階には自分以外もう誰もいない。


 喧騒は下にあり、階上のここは周囲から切り離された空間のようにいつもの静かな光景が広がっていて、こんな時なのに少し気が休まった自分に苦笑が滲んだ。


 しかし現状を思い出し急いで階段へと向かえば、階下から上がってきた何者かが最後の段で足を踏み込んでダンッと荒っぽい音を立てた。


「ははっどうやら天は俺の味方らしい」


 鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌な声の主は、ついさっき目撃した兵士だった。

 随分日に焼けていると思ったのは彼生来の肌の色だったようで、彫りの深い顔立ちを見てわかった。

 異国の褐色の兵士は依然手にかめを下げている。

 ただ、肖子偉は相手の粗野な雰囲気から警戒心が湧き上がり、距離を保ったまま後退した。


「賢明な判断だな」


 男はそんな様子ににやりとしてみせた。

 何が賢明なのか察すれば、本能が警鐘を鳴らす。


「……何者だ? 何しにここへ?」


 男はピタリと歩みを止めると不遜にあごをしゃくってみせた。


「俺は黒蛇ってんだ」

「黒蛇? ……聞いた事がある。もしかして皇都を騒がせている盗賊の……?」

「ハハハ! 俺を知ってくれているとは光栄だぜ、第二皇子殿下」

「……そちらも私を知っているみたいだな」

「ま、顔を知ったのは最近だけどな」


 快活な笑声を上げた黒蛇は、腕を緩慢に振って酒のかめを放った。

 肖子偉が僅かに目を瞠る中、甕は弧を描いて黒蛇のやや後方、階段口付近に落下した。

 当然ながら無事なわけはなく、ガシャンと大きな音を立てて甕は割れ、幾つもの無残な破片へと成り果てた。

 床にぶちまけられ広がった酒の一部は端から溢れ階段を伝っていく。

 切迫した状況がかえって現実を現実たりえなく感じさせるのか、肖子偉は思考の片隅で酒も階下へ逃げたいのだろうか、なんてさもない事を思った。

 漂ってきた思った以上に濃厚な酒の臭いに眉根を寄せた。

 明らかに今日出された物とは異なる。


「何のつもりだ……?」


 黒蛇はそれには答えず、傍にあった凝った造りの燭台を蹴り倒した。屋内は昼とは言え一応光源が必要で蝋燭ろうそくには火が灯っており、酒の上に倒れると同時に床に炎が広がって近くの物に燃え移った。


「なっ……まさか火酒!? そなた正気かっ、それでは避難が……」

「――そ。逃げ道はな~くなったぜ~?」


 黒蛇は最早背後で壁紙に燃え移り火勢を増す炎の状態には目もくれず、肖子偉を真っ直ぐ見据えて爪先を進めてくる。


「そなた、死にたいのか?」

「さあ、どうだろうな。少なくとも今日の大仕事をしねえうちは死ねねえけどな」

「……ここに盗るような物があるのか?」


 他の部屋にならありそうだが、がらんとしているこの楼閣の最上階にあるとは思えない。

 仮にあったとしても退路を断つ真似は解せない。


「あるぜ」


 黒蛇は獲物を定めるように鮮やかな緑色の瞳を細めると、腰から二振りの短刀を抜き放った。

 湾曲し刃幅が広く、直線的なこの国の剣とは異なる形状を有している。珍しい物には違いなく、おそらくは遠い異国で暗器として用いられる物だろう。

 盗賊が持つ武器としては確かに似合いだと、息を呑んだ肖子偉はどこか呑気にも思った。


 黒蛇は、肖子偉へと右手の武器の切っ先を真っ直ぐ向けてくる。


 さすがにここまでされては彼の目的も知れるというものだ。


「そなたの狙いは私か」


 じりじりと下がり露台に逆戻りし、気付けばとうとう背中が手摺りに当たるところまで追いつめられた。

 ここにきて邪魔だったのか兜を脱ぎ捨てた黒蛇はうねるような黒い長髪を風になびかせ、腰に手を当てわざわざ長身を曲げ下から突き上げるようにして覗いてくると、さも嬉しそうに口の片端を吊り上げた。


「御名答~。そうだぜ俺は――あんたの命を頂戴に来たんだよ、悪徳殿下!」

「悪徳……」


 自分の無謀な行いの報いと言えばそうかもしれない。

 まだ皇城の外には噂の件の真実はほとんど知られていない。だから彼のように自分をそう断じる人間がいてもおかしくはないのだ。むしろ誰にも狙われなかった今までの方が有り得ない幸運だった。

 しかし、と肖子偉は思う。


(ここでは死ねない)


 火事のせいで結局あと一歩のところで包子にはあり付けなかったし、会いたい人だっている。

 黒蛇が一気に決めようと重心を下げるのがわかった。

 彼の腕がどれ程かは知らないが、兄程は鍛錬しているわけでもない自分が不用意に応戦し無事でいられるかは甚だ怪しい。


 逃げ場は、後方しかない。


 しかし後ろは池だ。


 深さはあるだろうが、飛び下りるには些か高さが過ぎる。

 それでも一か八かで賭けるべきなのかもしれない。

 雷凛風、と彼は小さく呟いた。


「絶対にそなたにもう一度会う……!」

「逃がすかよ!」


 黒蛇が動き、肖子偉が覚悟を決めて腹に力を込めたそんな時、突如として耳朶を震わせる轟音が鳴り響いた。


「「な……!?」」


 振り仰いだ露台の二人は一時現実を忘れた。





 三つ編み尻尾を揺らし颯爽と飛行する雷凛風の目には、今はぐんぐん近付いて来る皇城だけしか入らない。

 火の手はやはり皇城内部で上がっているようで、改めて上空から確認すればそれぞれの場所同士は思ったよりも離れていた。

 やはり同時多発的に火の手が上がったとしか思えない。

 うち一つの場所を眺めやった凛風は、サッと大きく顔色を変えた。


「え、ちょっと待って、あの位置は――雪露宮! きっと宴で何かあったんだわ」


 父親は、肖兄弟は、果たして無事なのか。

 胸を占めるのは彼らの無事をただひたすら願うそんな焦燥だけだ。

 雪露宮に行くように言うと金兎雲はそちらへ向かって高度を下げ始めた。

 近づくにつれ地上の人々の混乱ぶりが見えてくる。

 当然だが、兵士たちは火消しに躍起になっているようだった。

 知り合いはいずこと忙しなく目を動かせば、


「あっ布だるま!」


 楼閣の露台に彼を見つけた。

 頭の部分は外れているようだが、布だるまはどこに居ても見つけやすいのが長所だ。

 安堵した雷凛風だったが、しかし彼の様子がおかしいことに気付いた。

 露台から続く楼閣の様子も。


「あそこにも火が!?」


 動揺している間に、一人の兵士が露台に出て来た。

 初めは、楼閣の中が燃えているのでその兵士も逃げて来たのだと思った。


「良かった。幸い一人ずつ助けてる時間はありそう。急ごう兎兎!」


 自分が彼らを順番に地上まで降ろせばいいのだと、急降下して声が届く距離まで行った時だった。


 ――あんたの命を頂戴に来たんだよ!


 そんなふざけた台詞が聞こえた。

 兵士の手には鋭く光る得物が握られ、手摺り際まで後退した肖子偉へと真っ直ぐ刃先を突き付けている。

 対する肖子偉は手摺りに背中をピタリとくっ付けた。


(刺客!?)


 雷凛風は憤りにギリリと犬歯を剥き出すようにして奥歯を噛み締める。

 かくなる上は刺客を撃退せんと臨戦態勢を取った直後、背中の方で轟々ごうごうと、濁流が下るような重い音がした。


「え、なに……――!?」


 振り返って絶句する。


 池の水が天へ向かって渦を巻いているではないか。


 初めて見る規模の人知を超えた現象に呆然としていると、天高く上った水が方向を変えて今度は降下を始めた。


(ええええーっ、ちょっと待ってどう見てもこっちに……って言うか楼閣に向かって落ちて来てるじゃない! まさかあれ消火のための水なの!? でもこのままだとヤバいでしょ!)


 火も刺客もヤバいが、今ここで最もヤバいのは――水だ。


 池の半分近くの水がそっくり空に持ち上げられているのだ。

 その重量や如何に。

 あれをまともに被れば押し潰される危険しか見えない。

 凛風は即座に金兎雲を再降下させた。


「子偉殿下!」


 彼の元へと向かいながら、腹の底からの声と共に両腕を伸ばす。

 呆然と水の塊を見上げていた彼はハッとしてこちらを見た。


「急いでそこから飛んで下さい! 私が受け止めますから!」


 刺客の方もここにいては自分も危ないと、小さく舌打ちすると短刀を仕舞って苦い顔で駆け出した。


「雷、凛風……?」


 肖子偉は幻でも見たように呆け、鳥よけの案山子かかしか何かみたいに突っ立った。

 彼の心境を表すように布が中途半端に肩からずり落ちる。


「子偉殿下! 早く!」


 巷の女子が胸キュンするような抱擁力抜群の逞しい表情で両腕を広げる女――雷凛風。

 彼女は見るからに肖子偉を横抱きにする気満々だ。

 つまり肖子偉は皇子でありながらお姫様抱っこされる、という展開が待っている。

 彼は金兎雲には乗れないので落っこちないためには凛風が抱き上げるしかない。

 それは、わかる。

 わかるがしかし……それは男としてどうなのだろう、と彼は一丁前に思って迷いを浮かべた。

 脅威はすぐ傍まで迫っている。


「ええと……」

「ああもうっ」


 もたもたする肖子偉へと、言葉遣いなんて選んでいる暇もなく、凛風は「とにかく!」と前置いて、咽を枯らさんばかりの声量で叫んだ。


「――来いっ子偉っ!!」


 彼は、跳んだ。

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