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 夏はポケットの中に手を入れてイヤフォンの音楽を切った。

 ゆるやかな丘を下り始め、遠くに見えるエレベーター乗り場に向かってコースを折り返した。途中で少しだけずるをして、舗装された道を外れ、草原の上を走ることでコースのショートカットをした。

 舗装された道を外れても、足は特に痛くならなかった。地面は不思議な優しい弾力を持っていて、それに白い靴は土の色で汚れることもまったくなかった。

 行きに苦労した分、帰りの下り坂は走るのがとても楽だった。

 ゆるやかな丘が終わると、夏は舗装された道の上に戻って、正規のコースを走り始めた。

 ゴール地点に設定していたエレベーター乗り場には、一つの人影が見えた。

 それは木戸遥だった。

 遥は大地の上に立って、じっと夏に目を向けていた。

 夏は遥の姿を見て、自然とその速度を上げた。

 本当は悔しいからそうしないつもりだったのに、足が勝手に速度を上げてしまった。

 ペースを乱した夏はゴールと同時にそのまま大地の上に倒れるように寝っ転がった。ごろんと体を転がして上を向くと、そこには遥がいた。

 遥はじっと、夏を見ていた。

「大丈夫?」遥が言った。

「全然大丈夫じゃない」と夏が言った。

 すると遥はにっこりと笑い、そしてそっと夏に自分の手を差し出した。夏はその手を握って、大地の上に立ち上がる。

「仕事はどうしたの?」

「うーん」と遥は言う。

「なんか、あまり集中できなくってさ」

「……それって、つまり私のせい?」

 夏は先程見た、二人の幻影を思い出す。

 遥と雛。

 幸せそうに笑う二人の邪魔をしているのは、ある日、突然押しかけてきた夏だった。

「さあ、どうだろうね?」と言って太陽の下で遥は笑う。

 遥の笑顔は、太陽の光に照らされて輝いて見えた。

 二人はそれから近くの森を歩いた。

 手をつないだまま、風の中を散歩した。

 遥はとても楽しそうだった。

 夏も、もちろん楽しかった。

 ……幸せだった。

 本当に、幸せな時間だった。

 幸せすぎて、夏はなんだか泣きそうになった。涙をこらえるのに必死だった。その不思議な夏の感情はつないでいる手を伝い、遥にまで伝わったようだった。

「そろそろ、研究所に帰ろうか?」遥が言った。

「……うん。そうする」と夏が答えた。

 その言葉を聞いて、遥がにっこりと、空に輝く(きっと偽物の)太陽のように笑った。

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