鏡3
夜行列車を含む複数の列車を乗り継いで、私達はインドのバラナシへ辿り着いた。
バラナシはインド人たちの信仰する宗教、ヒンドゥー教やインドで誕生した仏教の聖地として有名だ。インドの都市は何処も人の数と、ヒンドゥー教において聖なる動物とされる牛の数がとてもが多いが、バラナシではそこに観光客も加わり、何処へ行っても息の詰まる人口過密地域となっていた。
「何処へ行っても人、人、人だな」
バラナシの駅を降りたところで、ご主人様はそう言った。
「牛も居ますよ」
私の訂正に笑み一つこぼすことなく、ご主人様は私の方を見る。
「すまないな。何処へ連れて行っても苦労ばかりかけさせる」
「いいえ、もう慣れましたとも」
これは強がりだった。けれども、そう言わなければやってられないという気持ちも確かにあった。
「それでも、きっとこの街は美しいはずだよ」
ご主人様もまた、強がりのようなことを言い出す。
「元々私は、この街に来たかったんだ。一先ず、この人混みから抜け出そうじゃないか」
「一体、何処へ行こうというんですか」
ご主人様は言った。
「この街を一望出来るような、うんと高いところさ」
そして私の手を引き、何処へともなく歩き出した。私は人混みの中で離れ離れにならないよう、ご主人様の手をぎゅっと強く握った。ご主人様もまた、私の手を、強く握り返してくれた。
手を繋いだ私達は、バラナシの街中を歩き回った。道中にはゴミを漁る野良牛や飲み物を売る街商、クリケットに興じる子供たちが居て、それぞれを横目に見ながら、私はご主人様の行先についていった。
そしてやがて道は開け、私達は自由に立ち入ることの出来る建物の屋上に着く。
「……綺麗」
地上には茶、黄土、赤土の様々な色合いの建物が並び立ち、その間に走る道には豆粒ほどの人間があらゆる方向にむかい歩いている。ヒンドゥー教の寺院も住居もホテルも、この地上では一つの混沌を構成している。その情景はまるで、人の持つ宇宙の全てが私の視界のうちに収まってしまったかのようであった。
「小説の中で書かれていたんだ。このベナレスの街並みが。だから私は一度、ここに来ておきたかったんだ」
ご主人様はそう呟き、地上を見下ろす。
私はそのうち、街の真ん中に走る巨大な川と、その周りの様子が気になってくる。川の周辺に沢山の人が居て、岸では何かが燃やされ、灰色の煙を拭き上げていた。
「あの川、なんて言うんですか?」
「ガンジス川さ。インドの民にとっては崇拝の対象だ。だから、あの川では……いや、実際に見たほうが早いかな」
言って、ご主人様は私の手を取って歩き出した。
街の中を進むご主人様の足取りは先程と違い、迷いがない。狭い道、広い道を、人混みの中を泳ぐように進んでいった。
私はこの時、沢山の人の中に居ながら、世界から浮き出るような感覚を味わっていた。水に入った人の身体が浮くのと同じように、私の心は人の波の中に浮き始めた。彼らは、同じ人間でありながら言語が違い、風習が違い、文化が違い、そして恐らく生き方も違う。
この空間に、この世界には、私とご主人様以外に『私を知る者』は居ないのだ。私はその事実に絶望するわけでも、怒りを表明するでもなく、ただただその場で『浮いている』ような浮遊感をその身に感じていた。
私とご主人様はやがて、ガンジス川のすぐ近くへ辿り着く。川は茶に濁り、何かを焼く煙と、あちらこちらに落ちている牛糞と、人の匂いとが全て同一のものとして私に迫ってきていた。
川沿いには何匹もの牛が静かに佇み、水浴びをする人々を細い目でじっと見つめている。その横を様々な分類の人々が通り過ぎていく。一目見て理解出来る激動のさなかにありながら、この場所に居る彼らはそれをさも当然と言わんばかりに自分たちの日常を過ごしている。
「ご主人様、あの煙は一体なんでしょう」
「ここで少し待ち給え。そうすれば分かるさ」
少しすると、複数の人々が、くすんだ肌色の老人を抱え、ガンジス川の水に漬け始めた。
よく見るとそれは、この川沿いのありとあらゆる場所で起こる普遍的な現象の一つであることが分かった。
「あの老人は、もう既に死んでいるよ」
ご主人様は重く、呟くように、言った。
「ではあれは何をしているのでしょうか」
「ガンジス川の水で、死者の身体を清めているんだ。そうして清められた死者は火で焼かれ、灰となり、この川に流される。そうすることによって彼らは生の苦しみから逃れることが出来る。そう考えているんだ」
「生の苦しみ……?」
「そうだ。ヒンドゥー教や仏教において生は苦しみだ。全ての生命は生きているうちに行った物事によって次の生が決まる。それを輪廻と言い、その輪から逃れることが、彼らにとっての幸福なのだ」
ご主人様が話を聞いて、あることが気になった私は、ガンジス川に浸される死者たちを見た。
そこで私は発見したのだ。
「ご主人様」
「どうしたんだ」
「見て下さい。あれを」
私は、清められる死者の一つを指差した。
「あの人、アクターです」
その女性には、古いアクターだけが持つ製造番号をその身体に刻み込まれていた。これは古いアクターにのみ見られるものだった。
私は、その情景に衝撃を受けた。
私は常に、自身と他者との違いを見つめさせられていた。人間であって人間でなく、そしてアクターとしても不完全である私は、他者と同一のものにはなれないという疎外を常に味わっていた。しかし彼女は、あの死んだアクターは、アクターとして死にながら、他の人間と同じようにその死を弔われていた。彼女は、その死によって、他者と同一の存在となったのだ。その事実が、疎外された私と、ご主人様を含む全ての人間とを一つの要素で結びつけた。
「あのアクターはきっと、家族のように大事にされていたんだろうな」
ご主人様はしみじみと、そう呟いた。
私は言った。
「ご主人様にとって、私は大事なものですか」
ご主人様はすぐさまその言葉に答えた。
「そうだとも」
それを聞いた私は心底幸せで、涙まで出てきそうだった。
「ご主人様」
「なんだい」
少し間をあけ、私は言った。
「私を買ってくれたのが、ご主人様で良かったです」
私はご主人様からの言葉を待った。けれどご主人様は、何も答えなかった。
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