いつか出逢ったあなた 36th
ヒカリ
第1話 「わざわざ来てもらって、すみません。」
〇桐生院知花
「わざわざ来てもらって、すみません。」
あたしはそう言って、瞳さんに頭を下げた。
…瞳さん。
あたしの、腹違いの姉。
だけど、あたしは瞳さんを『お姉さん』と呼んだ事はない。
瞳さんだけじゃない。
実の父親である、高原さんの事も。
『お父さん』と呼んだ事はない。
桐生院の父は、とても優しかった。
あたしを大事に育ててくれた。
その父が、高原さんの事も『お父さん』と呼んで甘えてあげなさい。と言ってくれたけど…
父の生前、あたしは一度も…高原さんをそう呼ばなかった。
…呼べなかった。
それは…桐生院家と、高原さんの…複雑な関係にあった気がする。
そして、瞳さんと…
瞳さんのお母様である、藤堂周子さんの事…。
「いいのよ。最近は圭司も映も忙しくて、あたしは一人で居る事が多いから。」
瞳さんはそう言って、庭を見渡して。
「…ここ、本当にすごいわね…気持ちが落ち着くわ。」
ゆっくり、目を閉じた。
「今、母がお茶を入れてくれてるので…もう少し待ってもらっていいですか?」
「え?何?」
「ちょっと…話があって…」
あたしがそう言うと、瞳さんは少しだけ距離を縮めて。
「…もしかして、父さんとさくらさんを結婚させたいって話?」
あたしの耳元に手を当てて言った。
「あたしは大賛成よ。周りから固めるでも何でもしてちょうだい。」
「……」
あたしがキョトンとして瞳さんを見ると。
「あら…違ったの?」
瞳さんは、驚いた顔。
「あ…今日の話は違うんですけど…瞳さんも、そう思ってくださってたんですか?」
嬉しくて…つい笑顔になってしまった。
「当然よ。父さんは…ずっと、さくらさんの事、想い続けてたんですもの…」
瞳さんは少し遠い目をしながら。
「…もう、自分の気持ちを…縛らないで欲しい。」
そう言った。
自分の気持ち…
本当に、そうだ。
父と高原さんと母さん。
三人の間に何があったのか…あたしは知らないけど。
きっと、みんなが感じてたはず。
高原さんが…母さんだけじゃなく、父の事も…大事に思ってくれてた事。
だから余計に…
高原さんには、幸せになって欲しい。
「お待たせ。何だか女三人でお茶なんて、ワクワクしちゃうわね。」
あたしと瞳さんが庭を眺めてる所に、母さんがお茶を持ってやって来た。
…相変わらず、少女のような母さん。
本当に、ワクワクしてる。
「それで?何の話?」
広縁にお茶とクッキーを並べて、母さんは楽しそうに笑った。
「…瞳さん。」
あたしは、瞳さんに…言う。
「高原さんが、夏に事務所を挙げての大イベントをする話、聞きましたか?」
この夏…ビートランド所属アーティスト総出の大イベントが、開催される。
あたしはそれを、二日前…千里から聞いた。
瞳さんは、お茶を一口飲んで。
「ええ…聞いたわ。」
首をすくめた。
「歌わないかって、父さんに言われた。」
それを聞いた母さんは。
「まあ、素敵。私、瞳ちゃんの歌、聴きたいわ。」
指を組んで笑顔になった。
「あたしなんて…もう何年も歌ってないし…」
瞳さんは、そう言って唇を尖らせたけど…
「もったいないですよ…ボイトレして、参加されませんか?」
あたしは、真顔で言った。
「まさか。もう…あたしは裏方でも手伝おうかなって思ってるぐらいだし。」
あたしは…知ってる。
瞳さんが、まだ歌いたいと思ってる事。
だって…瞳さんの旦那さんはギタリスト。
息子さんは、ベーシスト。
音楽に囲まれた家族。
あんなに歌が好きだった瞳さんが…歌いたくないわけがない…。
それに…夏のイベント。
毎年、周年パーティーは開催されるけど…
なぜかあたしには、高原さんが何か特別な意味を持ってやろうとしているとしか…思えてならない…。
〇東 瞳
「もったいないですよ。」
あたしは、知花ちゃんにそう言われて…内心…複雑だった。
あたしの、腹違いの妹。
知花ちゃんは…
世界的に有名なバンド、SHE'S-HE'Sのボーカリスト。
あたしは…知花ちゃんの歌を初めて聴いた時、震えが止まらなかった。
怖かった。
こんなに歌える女の子がいるなんて…って。
そう思ったのは、あたしだけじゃなかった。
知花ちゃんの存在だけじゃなく…SHE'S-HE'Sのプレイを耳にしたアーティストは、だいたい少し自信喪失の状態に陥ったと聞いた。
それほどの…実力者揃い。
だけど、あたしは…知花ちゃんの才能を認めた途端…彼女の歌が大好きになった。
そして…
あたしは、自分が歌う事をやめる時も…
彼女の歌を聴いて、諦めがついた。
「…知花ちゃんぐらい歌えれば、あたしも…頑張ろうかなって思えたかもしれないけど…」
嫌味でも何でもない。
素直な気持ちだ。
あたしは、高音は出ても低音が弱い。
取り組む方法はいくらでもあったけど…
あたしに…そこまでの熱が無くなった。
…誰のせいでもない。
あたし自身の問題だ…。
少しだけ笑って、お茶を飲む。
桐生院家の立派な庭を見ながら、知花ちゃんとあたしと、さくらさんとのささやかなお茶会。
今日は、お茶をしませんか?と、知花ちゃんに誘われた。
そして…話がある…とも。
つい、この間…あたしは、さくらさんを訪ねてここに来た。
父さんと結婚して欲しい…と。
そして、出来ればあたしも…さくらさんを『母』と呼びたい…と。
だけど、さくらさんは静かに笑うだけだった。
母である藤堂周子の…願いでもあるのだけど…
それは、叶える事が出来るのだろうか…。
「瞳さんは、低音こそ苦手かもしれないけど…」
知花ちゃんは、いつになく…真顔。
「あっ、気にしてたのに。」
あたしは少し大げさに言ってみたものの…
「すみません…でも…高音は、武器になるほどの音域じゃないですか。」
知花ちゃんは、変わらず真顔で言った。
「…高音だけが出てもね…」
つい、溜息が出てしまう。
父さんから、夏のイベントで歌わないかと言われたけど…
あたしには、自信がない。
母のトリビュートアルバムが、事務所を挙げて制作されていると言うのに…
あたしは、それにも参加しなかった。
…参加、したくなかった。
あたしの中で…
あの数年間の間に、母の存在が恐ろしく変わってしまったまま。
あたしは…それを許せずにいる。
「あたし、瞳さんが歌った周子さんの曲、大好きです。」
知花ちゃんが…柔らかい笑顔で言って。
「特に、あの…恋してるならもっと…って、可愛い歌。」
あたしがファーストアルバムに入れた歌のワンフレーズを、口ずさんだ。
それは、母の昔の歌で…
アメリカのシンガーが歌っていた曲だ。
「…恋してるなら…誰だって魔法が使える…」
ふいに、さくらさんが続きを口ずさんだ。
「…聴いて下さったんですか?」
あたしが驚いて問いかけると。
「あ…ごめんね…瞳ちゃんのCD、私は最後のしか聴いてないんだけど…今の歌…」
さくらさんは、何かを思い出すように…
「私も…大好きな歌だった気がするわ…」
さくらさんにそう言われたあたしは…
なぜか…泣きたくなった。
「瞳さん。」
「ん?」
昔の歌の話になって…
少しセンチメンタルになったのかもしれない。
あたしは、自分が歌っていた事さえ…忘れたいと思った時期があったのに。
…今は…
もう少し、頑張れば良かったのかな…なんて思ってしまう。
あたしがため息をつきそうになった時、知花ちゃんが言った。
「瞳さん…SHE'S-HE'Sで歌いませんか?」
「……」
驚いて言葉が出なかった。
あたしは、何度も瞬きをして…知花ちゃんを見た。
それは、さくらさんも同じようで…
「知花…それって…」
驚いた顔で、知花ちゃんに問いかけてる。
「あたしより上のキーを歌えるのは、瞳さんしかいません。」
その言葉に…あたしの中で、少し火が付いた。
コーラス…?
「あたしに…知花ちゃんのコーラスをしろって言うの?」
コーラスというポジションが、気に入らないわけじゃない。
立派な役目だ。
だけど…あたしの、ボーカリストとしてのプライドが…僅かながら、残っていたのかもしれない。
そりゃあ、知花ちゃんの座を奪うなんて気はないけど…
だからって、コーラスという位置に立つほど、あたしは…
「コーラスじゃありません。」
「…じゃあ、何なの…」
少し、声にトゲがあったかもしれない。
だけど、知花ちゃんは変わらず淡々と…
「バックボーカルです。」
あたしの目を見て、そう言った。
「……バックボーカル…?」
「確かに、歌う箇所はメインボーカルに比べると少ないかもしれません。でも…」
「……」
「メインボーカルより、ハードなパートです。」
「……」
知花ちゃんの目は…強かった。
本気だと思えた。
あたしは…知花ちゃんから視線が外せなくて…
しばらく見つめ合ったままでいると…
「…素敵。」
さくらさんの真剣な声が聞こえて、やっと視線が外れた。
「素敵だわ…知花の声に、瞳ちゃんが本気でぶつかったら…」
さくらさんは、そう言って…両手で自分を抱きしめるみたいにして。
「考えただけで…鳥肌がたっちゃう。」
真顔で、そう言ってくれた。
だけど、そこで知花ちゃんが…
「母さん。」
「ん?」
「母さんも、ボイトレ始めて。」
「…え?」
「下のパート、歌って欲しいの。」
「……」
「……」
あたしとさくらさんは、二人して…呆然とした。
「夏まで、そんなに時間がないわ。お願いします。二人とも…高原さんのために…この大イベントを成功させるために、力を貸してください。」
知花ちゃんが頭を下げて…
さくらさんは、口を開けたまま驚いてて。
あたしも…それは同じで…
だけど…
「…夢みたいな話ね…」
さくらさんが…つぶやいた。
その、夢みたいな話…って。
さくらさんは、どういう意味で…言ったのだろうか…。
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