マスターはバーにいない

へんたん

第1話 大いなる眠り

深夜3時に店のドアに「Close」のプレートをかけると男はため息をついた。


オフィス街のビルの地下にあるカクテルバー『CONCUBIN』のマスターだ。


彼は自分の事は語らないので、彼の私生活は謎だ。


客の中でも彼の名前を知ってるのはごく僅かに過ぎない。


バーの名前『CONCUBIN』と言うのはフランス語で「人生のパートナー」と言う意味だ。


マスターは店のソファーに座り

「ふぅー疲れた」と弱音を吐いた。


慣れているとはいえ、50歳を過ぎた頃から深夜の仕事は少し辛くなっていた。


「そろそろ潮時かな?」


とはいえ彼の肉体は50歳とは思えないほど鍛え上げられている。


彼は若い頃からボクシングをしていて、プロの資格も持っている。


ランニングは毎日欠かさない。


精悍な顔は目付きが鋭く、初対面の人には少し怖がられる事もある。


今でも節制した食事を心がけているので、体には無駄な贅肉は無い。


彼は後片付けと売上の計算をして、バーを出ると階段を上がって行った。


地上に出て、空に浮かぶ満月を見上げながら舗道を歩き出した時、突然頭に強い衝撃を受けて道に倒れた。


痛みがひどい。意識が遠ざかる。


微かに残る意識は、特徴のあるルブランの革靴の記憶だけを覚えていた。







俺は気がついたら病院のベッドの上に横たわっていた。


頭がズキズキ痛む。


何が起こったのか分からなかった。


ナースコールを押す。


しばらくして看護士が来て

「目が覚めました? 直ぐに先生呼んで来ます」と言って出て行った。


直ぐに若い医者がやって来て

「頭は10針縫っていますが幸い脳波等には異常がなかったので安心してください。痛みが引けば退院出来ますよ」と説明してくれた。


看護士に鎮痛剤の注射をするように指示して医者は出て行った。


医者が出ていくのと入れ替わりに二人の男が入って来る。


警察手帳を出して

「この度は災難でしたね。話せるようでしたら襲われた時の状況を聴きたいのですが?」と年配の刑事が微笑みながら聞いてきた。


「状況と言われても。突然だったので」と答えると


「誰かに恨まれる覚えはありますか?」と若い刑事が聞く。


「さあ、覚えは無いが、今の世の中どこで恨まれるか分かったもんじゃ無いでしょ?」と答えた。


「成る程。おっしゃる通り」と年配の刑事が訳知り顔で頷く。


「あなたは襲われた時、貴重品は盗られていませんので恨みの犯行だと思われます」と若い刑事が説明した。


「何か覚えてる事はありませんか?」と年配の刑事が聞いてきた。


俺はしばらく考えて

「そう言えば靴が。確か特徴のある。そうだ多分ルブランの靴だった」と思い出した。


「ルブラン?」

若い刑事は知らないようだ。


「成る程『クリスチャン ルブラン』ですね。では襲った人物は特定出来るかも知れません」と年配の刑事は物識りだ。


それから幾つか質問の後

「分かりました。また伺いますのでよろしく」と言って二人は出ていった。



「恨まれる覚えか」


考え無くてもいくつもあるが、全て昔の事だ。


今さら襲われるとは思えないが。


まあ世の中には執念深い馬鹿がいるから。


鎮痛剤が効いてきたのかまた眠くなった。


目を閉じて眠りに就くことにした。

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