第15話・前夜
ひと月ばかりをかけて、30ページを描き上げた。「パラダイス」というタイトルは、あるしごきじみたボールキャッチの練習方法がラグビー部内でそう呼ばれていたのと、「花園」(大阪にある高校ラグビーの聖地「花園ラグビー場」のことで、野球における「甲子園」にあたる)の英訳じみた耳あたりを狙っている。
神保町の小学館まで赴き、スピリッツ編集部の担当・みきさんに見てもらう。
「いいじゃないっ」
彼はいつもほがらかに褒めてくれる。ダメ出しのときは苦笑いだが、おおむね、後ろ向きなことは口にしないでいてくれる。ありがたきお人柄の大人物だ。
「新人賞にまわしとくからっ」
ひとつの関門をくぐった。しかし、次に待つ審査が最重要なのだ。祈って待つしかない。祈っても無駄だが、とにかく、結果が出るのはひと月後だ。そこには、人生の転換点が待っているのだろうか?
みきさんは、「メシいこうかっ」と夜の街に連れ出してくれる。行き先は、わが身が凍るような高級和食店だ。さらにタクシーに乗り込み、銀座や六本木の高級クラブに向かう。素晴らしいドレスで着飾った女性の横で、いまだデビューも果たしていないペーペーマンガ家は、緊張に身を縮こまらせるしかない。一流を知り、こうした店での振る舞いを身につけさせよう、というみきさんのありがたき計らいなのだろうが、この店めぐりをする間に、どんどんと背筋が丸まっていく。終電がとっくに出た深夜、タクシーチケットをもらって江古田への帰路につく。売れたら、自分でもあんな支払いをするようになるのだろうか?ぼんやりと考えてみるが、イメージできない。あの夜遊びがおもしろく感じられるようになるとは思えない。貧乏が性に合っているのかもしれない。
タクシーを降りて、イングレインに飛び込む。愚かな仲間たちが、まだダラダラと飲んでいる。ありがたいことに、この安酒場は、明け方の5時まで開いているのだ。ご馳走でふくらんだ腹をさすりつつ、ジンで舌を洗う。その苦味で、ようやく現世に連れ戻される。
「へえ~、作品の完成、おめでとう」
妖怪のようなママが、ベビースターラーメンをあてにサービスしてくれる。しみじみとうまい。
「賞を獲ったら、お祝いしなきゃね」
「別に、いいよ」
ふと、自分には野心も野望もなにもないことに気づく。「天下奪ったる!」みたいな体温だ。そういう、腹の底から湧き上がるもの、いわば情熱が、自分には皆無なのだ。ただ、周囲に対して恥ずかしくないだけの結果が出さえすればいい。このひとたちによろこんでほしい。ゴージャスな生活はめんどくさそうだ。「漂えど、沈まず」・・・開高健の言葉がぼんやりと頭に浮かぶ。自分の生き方そのものではないか。すでにオレの人生は、よくわからない方向に流れはじめている。
ひと月半ほどたって、結果が知らされた。
「佳作だよっ。おめでとうっ」
御木さんと、また夜の旅に出る。ぐるぐると高級店をめぐる間に、考える。いよいよデビューというわけだ。二度目の賞で、高揚感がないわけではないが、わが行く末が心配になってくる。いったいオレはどこに向かっているのだろうか?
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