第8話・上京
マンガ家になるために上京する。小学生の頃に「マンガ家になれたらなあ」と夢想したことはあったけど、そこまで実際的な筋書きは考えたこともなかった。それにしても、なんて心踊る話だろう。マンガ家になれるかどうかはさておき、この田舎での停滞状態から抜け出すことができるのだから。オレの興奮は、未来へ向かうことよりも、現状を過去にできることの方に向いている。躊躇などない。受話器を置くとすぐさま、学校にあてて辞表を書いていた。
「一身上の都合により・・・」
高校教師が、二学期を前に職を辞するとはけしからん話だが、校長はあっさりと了承してくれた。さすがはバブルの時代だ。軽薄で、大らかで、頓着というものがない。代理の教師もたちまち見つかった。とんとん拍子だ。夏休みが明けて、一週間だけ挨拶のために登校し、担任の引き継ぎをする。
「おまえらがオレに大声張り上げさすから、のどにガンができたのだ・・・」
東京で高度な医療を受けるために、泣く泣く辞めねばならんのだ・・・と、生徒たちの前でのうのうと嘘をつく。ところが、やつらはしょげ返るかと思いきや、特に感じるところもなく、へえ、という素っ気なさだ。おかしいな、オレ、たしか人気教師だったはずだよな・・・そして後任の女性教師を紹介すると、生徒たちは、わーい、オンナだ、と大喜びしはじめる。結構なおばはんなのだが、おちちがふくらんでさえいればいいらしい。まったく男子校とは哀れなものだ。憐憫の落涙を禁じ得ない。ま、後はよろしくやってくれ。
同様に、学習塾の予習地獄からもおさらばし、晴れて自由の身となった。思えば、しがらみだらけの毎日だった。子供たちに対する責任感にがんじがらめにされ、自分が自分でなくなっていた。こんなカイシャインみたいな生活は、二度とやるまい。これからは、どこにも属さない人生を生きるのだ。悪魔の館も引き払い、生涯七度目の引っ越しに取り掛かる。いざ、都へと。
東京には、学生時代にちょこちょこと遊びにいっていた。武蔵美には高校の同級生が何人も入っていて、例の米軍ハウスでも、未来の世界的デザイナー氏たちに世話になった。多摩美にはキシが三浪ばかりした末にようやく這い込んでいて、なぜかボクシング部のリングでどつき合いまでした。東京芸大のある上野公園では、よく野宿をしながら、園内にある美術館をめぐり歩いた。そして日芸のある練馬区の江古田には、彫刻展への出展のお願いに日参したものだ。
「住むとしたら、江古田の雰囲気がいいな、なんとなく・・・」
西武池袋線の江古田は、武蔵大、武蔵野音大、そして日大芸術学部がごちゃごちゃと鼻先を突きつけ合う学生街だ。ざっくばらんな飲み屋も多く、下町チックな人情味あふれる商店街がありながら、池袋から三つ目という、都会すぎないが田舎すぎもしない感じがいい。のちに気づくことだが、ひとつふたつ向こうの駅には、かの有名な「トキワ荘」がある。かの手塚治虫や藤子不二雄、赤塚不二夫、石ノ森章太郎などが切磋琢磨したアパートだ。そのせいか、この近辺にはマンガ家も数多く住んでいるようだ。この地に導かれたのは、偶然ではない気がする。不動産屋をまわり、目につくかぎりでいちばん格安だった2万6千円という、6畳一間、風呂なし、トイレ共同のアパートに決めた。
後日、引越しをすませ、「電話をくれた編集のひと」に挨拶にいく。神保町の小学館ビルは、まさに天空に反り立つ威容を誇るイカツさだ。なんの工夫もない四角四面の箱型なのが、かえって堂々として見える。一階受付で入館許可の書類を書き、きれいなお姉さんに渡すと、上階の編集部にいくように促される。エレベーターで運ばれていくときの周囲の同乗者は、見るからに業界のヒトビトだ。緊張。6階に着き、広大なフロア内で「スピリッツ編集部」を探す。少年サンデー、ビッグコミック、サライ・・・どのブースもデスクがごちゃごちゃに入り乱れ、どのデスク上も原稿や書籍でごちゃごちゃに散らかされ、これで仕事ができるのか?の環境だ。そんな雑然とした風景の中を、ギョーカイジンたちが忙しく行き交っている。人いきれと、タバコの煙と、紙とインクの匂い。その只中に、目的の人物がいた。座った回転椅子が、くるりと翻る。
「やあっ。みきですっ、よろしくっ」
歯切れのいい話し方をする、いくつか年上のこの若者が、どうやらオレの担当編集者のようだ。
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