見てみよう、その を

5章 1

 悲鳴にも似た声に少女は目を開けた。


 その場所がどこかわからない。

 交差点を見渡せる場所で、周りには同じように交差点の中心を見つめている老若男女。そして交差点の中心では普通乗用車とトラックが衝突していた。

 信号は普通乗用車側が青になっている。トラックは信号を無視して無理に交差点に侵入。そして普通乗用車の左側からぶつかっていった。普通乗用車の助手席側はそれはもう目を背けたくなるような状況で、頭部から血を流しながらなんとか車から抜けだして運転手の、おそらく母親だろう女性は助手席側に回って惨状に誰かの名前を叫んで、急いで運転席へと戻って内側から助手席へと身を乗り出している。

 誰か助手席に座っていて、トラックの衝突でひどいことになっているんじゃないか。少女の周りの野次馬が口々にそう言う。

 悲鳴にも似た声が、誰かを呼ぶ声が少女の耳に強く残った。


 目の前に、教室のドアが突然現れてそこが学校の中だと留美は知る。

 直前まで見せられていた光景はなんだったのかと思いつつ、ドアの凹みに手をかけて開く前に呼吸をする。

 教室の中は外からでも聞こえる程度に騒がしい。その中に入って行かなければならない。手を離して教室を後にすることだってできる。しかし留美はドアを横に開いた。すると、外からでも聞こえるほどの賑やかさが、彼女が入ってきたことにピタリと止まった。いつもの事だ。驚くことではない。自分は空気になるだけ。

 席まで行ってなにかされていないか念入りに確認して、あとは空気になるだけ。うつむきながら教室の中ほどまで移動した時だった。


「おはよう水無月さん!」


 静まった教室の中で彼女の名を呼ぶ声はよく通った。

 名前を呼ばれた留美だけではない。この時教室の中にいた全員が名前を読んだ少年、秋山玲へと振り向いていた。


「おはよう!」

 もう一度挨拶が飛んでくる。

 イスに座ったまま体の向きだけを彼女へと向ける玲は、自分以外の全員の視線を浴びながらも気にする様子もなく、ついには手も振ってくる。それでも留美の返答がなかったからだろうか。もう一度挨拶をしようと口を開きかけた所で

「お、おはよう」

 教室が静まり返っている今だからこそ聞こえる程度の小声で、それでも返してくれた小声を耳にして、それまで以上に激しく手を振る玲。満足したのかそれまで会話をしていたクラスメイトとの談笑を再開するが、相手のクラスメイトは会話の言葉が詰まってしまっている。一方の留美は胸をドキドキさせながら自分の席まで移動して、イスを引いてイスの上に置かれていた画鋲を掴もうとして、心臓の鼓動の速さに慎重さを欠けさせてしまい、ほんのちょっとだけ指先を指してしまった。しかし痛みはそれほど感じなかった。それほどまでに、彼女は動揺をしていた。


 声をかけてきたのが秋山玲だというのも原因の一つ。それ以上に、声をかけられたことに驚きを隠せない。胸のあたりを制服ごとギュッとつかんでうつむいて机を見下ろしたまま、呼吸を繰り返す。やがてホームルームの時間になって先生が入ってきて、それでもまだ教室内に張りつめていた今までにはない雰囲気に首をかしげつつ、

「ほら、ホームルーム始めるぞ」

 それでようやく張りつめていた空気がほぐれてそれぞれ自分の席へと戻っていく。ホームルームが始まって1時間目の授業が始まるころにはクラスのほぼ全員がいつもの様子まで戻っていた。それなのに。


「ねぇ水無月さん、いっしょにお昼ご飯食べない?」

 ようやく昼休みになって解放されて騒がしくなり始めた教室が、音を失ったように静かになる。壁を一枚挟んで廊下では購買組が我先にと可能な限り早歩きで向かい、賑やかそう。いつもであれば教室もその騒ぎが続くはずだったのに。


「水無月さんって購買で買っているんだっけ? ボクも今日はそうなんだ。なら一緒に買いにいかない? ほら、早くいかないと売り切れちゃうよ」

 声をかけられたことに驚き目を丸くする留美。

 声をかけられる前から購買へは行こうとしていて、昼休みになって片付けをしていていざ立ち上がろうとしたときには机の横に玲が立っていた。

「さぁ早く」

 腕を握られていうから立ち上げさせられて

「ほらほら」

 てきぱきとイスを机の下に収納して

「行こう」

 腕を離したと思ったら今度は手をつかまれた。

「えっ、ちょ、ちょっと」

 なにかを言う前に歩き出してしまう。このままでは派手にこけてしまいそうだと、仕方なく歩調を合わせて教室を出る。静かすぎる教室を出て賑やかな廊下へと。


「確かこっちだったよね」

 校舎2階部分の端まで移動して

「このままで大丈夫?」

 つかんでいる手を持ち上げて聞く。

 質問の意図がわからなくて適当に

「は、はい」

 と答えると、手がつながったまま階段を降り始める。

「わ、っと、あ」

 あわてつつなんとか階段を踏み外さないように降りていく。

 一階まで降りたところで

「あー。もうけっこう人並んでるね」

 階段を下りて少し進んで右に曲がると昼だけにできる購買コーナーがある。

 曲がらなくてもわかるほどに人の列が出来上がっていた。


「水無月さんはなにか狙っているパンある? ちなみにボクはカレーパン目当てかな。購買に並んでいるパンってどれもおいしいんだけど、カレーパンの中のカレーが本当においしいんだよね。パン自体のカリッとした表面もいいし。これにデザートの立ち位置でアンパンも付ければ豪華な昼食だよ。もちろんあんぱんの餡は粒あんね」


 笑顔で振りむく玲の視線の先で、かすかに留美は笑っていた。それを見られたことに恥ずかしそうに顔をそらす彼女。

「ご、ごめんなさい。そんなに真剣なのに笑ってしまって」

「いやいやそれは全然問題ないよ」

「本当にごめんなさい。真剣な顔しながらでも話しているのがパンのことなのがちょっと面白くって」

 顔をそむけながら少しだけ吹き出してしまう。

「ま、また……ごめんなさい」

 小さく頭を下げる。

「さ、さぁ早く並びましょうよ。本当になにもなくなってしまいますから……」

 人の波の中へと進みだす彼女の手を玲はそっと離した。言葉の最後に彼にしか聞こえない程度の小声で

「私はクリームパンが好きです」

 と聞こえてきて嬉しくて表情が緩んで、購買コーナーへと向かう彼女に背中を向けて深呼吸を繰り返すしかない。

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