涼乃

第1話 

 タータンをスパイクで踏みしめる音、スターティングブロックを調整する音、競技場にいるとそんな音しか聞こえない。


 ブロックに脚を置き、白線に指をついて体重を前方に掛けたとき、生きているなかで一番胸が高鳴る。

 脚や腕の筋肉に心臓が移動したかのように、体の内側からドクドクと血液が流れるのが分かる。


 この瞬間が好きだった。








 今は二〇二〇年の夏。外はどしゃ降りの雨。

 顔や腕に直接あたる粒は硬く、強い音をたてながら打ち付けていく。


 誰もいないグラウンド。

 今日は日曜日で陸上部の練習はなく、そしてこの雨だから自主練習に来る部員もいない。久しぶりに来たグラウンドはひどく広い気がした。



 100mのスタート地点で構え、自分のタイミングで地面を蹴る。出来るだけ全力で脚を回転させる。

 途中で脚が縺れバランスを崩した。

 受け身をとれるほどの余裕はなくて、前のめりに倒れる。勢い付いたその身体は数十センチ、スピードを落としながら地面と擦れていく。


 『ジョギング程度なら走れるが、完全には治らないかもしれない』


 医者が言っていたのはこういうことだったのかと、深く心に突き刺さった。



 どんなに泣いても、雨は弱くも強くさえもしない。


 僕はなんにも出来ないのだと無力感に襲われる。

 走ることしかなかった。それが自分の存在意義とさえ思っていた。


 怪我をしたあの日から、本当は分かっていた。もしかしたら陸上を続けられなくなるかもしれないことを。


 グラウンドを走ることで救われるかもしれないと思った。もう一度、あの高鳴りを感じたかった。


 しかし、現実は甘くなかった。

 

 全力で走れないという事実に打ちのめされた気がした。

 僕は泣いた。涙も声も雨に吸収されていくようだ。


 このまま倒れていると風邪を引きそうだと思ったが、もう、どうだっていいと思いもした。


 体も心もドロドロとして、僕を蝕んでいく。この雨が、こんな惨めな僕の全てを溶かしてくれたらいいのに。









 突然、雨を裂くように声が降りかかってきた。

「大丈夫?」


 雨と涙でぐしゃぐしゃになった顔で声のする方を視線を向ける。


 傘を僕の頭上に差し出し、乾いていたはずの茶を帯びた髪がだんだんと濡れていく。

「君が風邪をひくだろ」

「あたし、馬鹿だから風邪なんてひかないよ。それより雨宿りしよう」

そう言って彼女は、早歩きでグラウンド脇の建物へと向かった。


 途中、呆然と後ろ姿を見つめることしかできない僕に向け「あ、不審者じゃないからね!?通りすがりの女子高生だからね!?通報とかナシだからね!?おーけー!?」と謎の弁解をする。生憎、僕はそこまでの警戒心なんて微塵も抱いていなくて、彼女の明るさに少し口角が上がった。


 グラウンドのすぐ側に設置されている部室の軒下で二人肩を並べた。「なんかあったっけー?」と自身のリュックの中を探し始めた。

「おー、いい感じのあるやんけー!はい!」

(ぽすっ)

「はい!」

(とんっ)

「ほーい!」

(ぺしっ)

 掛け声と共に渡してきたのは、タオルとオレンジジュース、絆創膏だった。呆気にとられて手元を見ていると「まあまあ、とりあえず一服でもしましょうや」そう言って口元にピースの形に似せた指を近づけている。たばこのつもりなのかそれ。


 彼女は、フスゥと満足げに息を吐きながら、僕の頬辺りに視線を向けてエアーたばこのポーズのままの手でチョイチョイと振っている。

「っ!」

指で触ってみると擦り傷ができていたようだった。

「はよ水で洗ってきな」

なぜかドヤ顔で彼女はそう言った。


 近くにある水飲み場の水を使い、頬の汚れを落として戻ると絆創膏を貼られた。

「……ありがとう」

「どういたしましてん」

おちゃらけたように彼女は返事をする。

真島玲ましまれいっていうんだ。よろしくね。ちなみに二年生」

真島は夏休みが明けた二学期からこの高校に通うようだった。今日は学校の周りを散策していたのだという。

「ところで、い……、キミはこんな雨の中外にいたの?」

僕はまだ名前を教えていなかったと気づいた。

成瀬泉なるせいずみ、高二。去年の秋に怪我をして、そのリハビリで走ろうとしてた」

全力で走ることができない、左足を庇って不恰好なフォームになっている、そんなことはわかりきっている。だから、誰にも見られないように今日、グラウンドに来たのだった。

「真島さんこそ、散策なんて今日じゃなくてもよかったんじゃないの?」

「あたしさ、雨好きなんだよね。洗い流してくれる気がして。まあ、怪我のこととか深く聞くつもりはないから話しづらかったら無理しないで」

なぜかこの言葉に安心した。怪我をしてから周りの人たちは、腫れ物に触るような扱いを僕にしてきた。傷つけないようにしていたのだと思う。でもそれが苦しかった。







 「僕はもう一度、走れるのかな……」

無意識のうちに口が動いた。その言葉に僕自身が驚いた。誰かに弱音を吐くことなんてなかったからだ。

「走れるよ。目標とか夢がある限り、できないことなんてないんだ」

真島さんの真剣な瞳がまっすぐ僕を射抜く。

「一つ、魔法をかけてあげる。成瀬君は今、スタートラインに立っているとしよう。一緒に競い合うのは全国の名高い選手ばかり。全身が震えているかもしれない。だけどね、緊張よりもキミはワクワクを心と体で感じてる。この勝負を楽しむしかないんだ。どう?今はまだ全力で走ることはできなくても、なんか自信が出てこない?」

「……うん。今、すごくワクワクしてる」

真島さんはニッコリ笑って視線をグラウンドに移す。どしゃ降りの雨が止んでいた。

「もう一度走ってみる?今の成瀬君なら進める筈だよ」





 大会じゃないのに、競い合う選手は今いないのに、ドクドクと心臓から音がする。





 今ならゴールまで走りきれそうな気がした。

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