第23話 紀子(4)

 私たちは寺岡支店長と再度待ち合わるため、また新逗子駅へ向かいました。寺岡さんはでっぷりお腹をユサユサさせて辺りをキョロキョロしていましたが、車に気付くと最初にお会いした時のように人当たりの良い目に戻っていました。

 彼は、別れてから、私たちに収穫があったかどうかとても気がかりであったらしく、

「いやあ、どうでしたか。何か収穫でもありましたか」と、開口一番に聞いてきました。

「ええ。おかげさまで。お気遣いありがとうございます」と、雅美さん。

「そうですか、いやあ、それはもう、あれから気になっておりましてえ」と、寺岡さん。

「ここじゃなんですから、どうぞ車へお入りください」と、雅美さん。

「え?そうですか、じゃあ、それはもう、ちょっと、お邪魔します」と、寺岡さん。

 雅美さんは寺岡さんを車内の後部座席に招き、聞き取りが不十分だったいくつかのことを改めて聞いてみました。

「早速なのですが、寺岡さん、時系列でもう一度伺いたいと思いまして」

「はあ、何でしょう」

「紀子さんと息子さんがこちらへ移られたのは平成元年でしたね」

「はい、それはもう、確かにそうです」

「紀子さんと息子さんは何歳でしたか」

「ええっと、それはもう、私の五つ下だったと思いますのでね、そうですね、紀子さんが二十七歳、お子さんは五歳か六歳」

「お子さんのお名前は何と言いましたか」

「ああ、息子さんね。紀子さんはこうちゃん、こうちゃんって言ってました」

「で、その次の年に祖父が亡くなりますね」

「ええ、そうですね、そうですね、先ほど申し上げた通りです」

「紀子さんは祖父の葬式には?」

「ああ、いやあ、それはもう、ないです」

「ん?ないとは?」

「ああ、それはその、お亡くなりになったことをすぐに紀子さんに知らせなかったという意味です」

「というと?」

「というと?って。あの、それはもう、社長が口外無用とご指示になったものですから」

「父がですか」

「ええ。あ、いや、た、ただですね、通夜だの葬式だのがひと段落して、いつだったか、社長がプイッとお出でになって」

「父がですか」

「ええ。それはもう、私に『妾のところに連れて行け』と吐き捨てるように。私はもうそれは、ははあ、事後処理ってやつなんだなと」

「なんでそんな大事なことを、さっき言ってくれなかったのですか」

「ああ、いやいや。それはもう、大変失礼しました。いやあ、それはもう、私もどこまで喋れば良いものか、わからんかったもんですから。ふう」

 私は詰め寄る雅美さんをなだめて、

「寺岡さん、私たちは今、大切な任を受けてここに来ています。寺岡さんにはご存知のことを全てお話しいただきたいと思っています。どうぞご理解下さいませんでしょうか」

「はい、それはもう、かしこまりました」

 寺岡さんは、まな板の鯉のごとく身を雅美さんに委ねる覚悟を決めたように、

「で、その、紀子さんのところへ社長をお連れした次第であります」

「それだけですか」

「はい、そのときはもう、それだけです。迎えはいいと仰ってました」

「『そのときは』というと」

「え?」

 寺岡支店長は、なかなか鋭い所を突いてくるなという顔をしましたが、

「あ、いや、何度か社長は紀子さんを訪ねておられるようでした」

「寺岡さんは同行しなかったのですか」

「はい、それはもう、社長は『場所はもうわかっているから一人で行く』と。『店の車を貸してくれ』と」

 雅美さんは、私に車から出るよう目配せした上で、

「ちょっと失礼します」

 と寺岡さんに言い、車から出て、私に、

「全部、聞いちゃいましょう」

 と言いました。私は「はい」と答え、再び車内に入り、

「寺岡さん、紀子さんですが、二人目を妊娠されたのはこちらに来てからですか」

 寺岡さんは、もうだめだという顔をして、

「そこまでご存知ですか。もう本当に、私が知っていること全部、お話しします。はい、妊娠は本当です。それで社長は何度も逗子へお出でになっていました」

 雅美さんは、激しい動揺の色を濃くして、じれったいという体で、

「父親は誰ですか」

 と聞きました。それに対し寺岡さんは、

「父親。。。それは、ようわかりません。美人ですしお年頃でしたから、先代のほかに相手が出来て、という可能性はゼロではない、あ、いやいや、も、もちろん、先代が倒れる前に、その、先代との間で妊娠したのかもしれませんが」

「その時、祖父は子どもをもうけるなど、そんな健康な状態ではありませんでした」と、雅美さんはきっぱり。

「うん、まあ、そうでしょうな」と、寺岡さんは、徐々に逃げ場を失いつつある将棋の王将のように、脂汗をしきりに拭い、

「と、とにかく、それはもう、紀子さん本人は亡くなっているし、今となっては、二人目の子の父が誰なのかをご存知なのは社長だけではないでしょうか」

 ここでも鍵を握っているのは父なのかといった顔で、雅美さんは脣を噛みました。すると、寺岡さんは、

「でもお子さんは生まれなかったと社長から聞きましたけど」

「生まれなかったあ?!」

「はい。死産だとか」

「死産?!」

「はあ。私は御先代が亡くなって紀子さんもさぞ気を落としておられるのではないかと内心心配しておりまして。そこへ持ってきて妊娠、出産でしょ?社長にそれとなく聞いたんですよ」

「何て聞いたんですか」

「いやいや、それはもう、出産の日に社長が来られたので、純粋に、『男の子ですか、女の子ですか』って」

「そしたら?父は?」

「それはもう、先ほど申し上げた通り、『死産だった』と『口外無用』と、それだけですわ」

 しばらく、私と雅美さんは顔を付き合わせ、何事か考えていました。そして雅美さんが、

「寺岡さん、それは紀子さんが気が触れたことと関係ありますか」

「むむむ、、、なんで、そこまで、ご存知。。。ええい、こうなったら、もう。いえ、それについては、そこまで立ち入った事情は存じません。ほっ、本当ですよ!で、でも、こ、個人的には、そ、それはもう、う、生まれなかったことと、き、気が触れたことには、それはもう、い、因果関係として、か、可能性は高いと、お、思います、ふう~」

 重っ苦しい空気が流れました。車のラジオはヴィヴァルディ「四季より~冬~」を流していました。ちょうどフォルテシモで風雪が吹き荒ぶ描写のところでした。

「で、紀子さんが気が触れたのは出産の前ですか後ですか」

「いやあ、昔のことなんでねえ、どうだったかあ、後じゃないでしょうか」

「焼身自殺したのはいつですか」

「正確には覚えておりませんが、わ、わかりました、今思い出しますので。あれはあ、御先代が亡くなって翌年の確か十一月だったかと」

「ということは、祖父が亡くなったのが平成二年ですから、平成三年の十一月ですね」

「はあ、そうなりますかねえ、ええ」

「紀子さんは、なぜウチまで行き、なぜ自殺しなければならなかったのですか」

「さあ。そこらあたりのことは、いくらなんでも。私には解りかねます」

「支店長は、紀子さんの行動をどう思われましたか」

「私ですか、ううん、私には女性の気持ちは計りかねますが、死産のショックというものは、何よりも耐え難いし、受け入れ難いし、悲しみと報われなさが本人を襲うのではないかと」

「つまり、死産のショックで紀子さんが病み、異常な行動、つまりウチへ来て焼身自殺するきっかけを作ったと、支店長は思われるんですね」

「はあ、確証はございませんが」

 雅美さんは一旦外を見つめしばらく何かを考えていました。そして、

「私には、そうは思えません」と言いました。

「というと?」「何故ですか?」と、私と寺岡さん。

「気が触れたことと、ウチへ行き自殺することの間に、何かがあると思えてなりません。死産したらまず子を弔おうとするのが母だと思います。自殺するかどうかはその次です」

 と、雅美さんは誰に言うともなしに、しかし毅然と主張しました。寺岡支店長は、

「そう言われると、お子さんの葬式などはこっちでは無かったですよ」

「無かった?!」

「なんでも社長が『一切の事は私が済ませるから』と仰っていました」

 また社長が出てきました。

「どういうことですか」

「いや、そこまでは、私にも。さっき雅美様は『何かがある』と仰っていましたね」

「はい。言いました。それを支店長がご存知ではないかと思ったのですが、ご存知ではないわけですよね」

「はい、存じ上げません。確かに仰るように、それはもう、子を弔おうとするでしょう。自殺を考えることはあってもまずは子の弔いですな」

「私は、自殺のきっかけは死産ではないと思っているんです」

 あまりの雅美さんの熱の入れように、寺岡支店長も返す言葉をなくしていました。しかし、実はこの事は事件解決の大きな鍵になっていました。私は、少し視点を変えて、

「息子さんが紀子さんの実家へ引き取られて行ったのはいつですか」

「それはよく覚えております。紀子さんが亡くなって一ヶ月ほど経った頃です」

「ということは、平成三年の十二月」

「そうなりますねえ」

「一ヶ月もの間、その息子さんはどうやって暮らしたんですか」

「いや私もね、それがもう心配で、ちょくちょく様子を見に行ってたんですが、学校に行ってる時間は給食も出るから良いとして、学校から帰ると近所の方が代わるがわる面倒を見てくれて、一緒に飯を食べさせてあげたり、泊まってけと言ってやったり、風呂に入れさせてたらしいですよ」

「その間、ウチの会社の人間は?」

「いや、社長から、一切手を出すなと言われてまして」

「それでも支店長は様子を見に行ってくれていたんですね」

 じっと黙って成り行きを見守っていた私ですが、感極まって、そう呟いていました。寺岡支店長は少し照れたような恥ずかしげな顔をして、

「ご実家の叔父にあたる方が引き取りにいらしまして、その時も、私、心配で立ち会ったんです。寒い日でねえ。ここは山から吹いてくる風がきついから。しかし、でも、それはもう、不憫でねえ。可哀想でねえ。一人になってしまってねえ。でも気丈に振る舞っていましたよ、まだ小さいのに偉いなと思いました。本人はそれはそれは寂しかったと思いますよ。母親も父親もいなくなって二番目も死産でしょ?『こうた』だ、思い出した。こうたって言うんです、その子。こうただから『こうちゃん』だ、そうだ」

 ラジオの電源は切ったので、唯一聞こえるのはエンジンのアイドリングとエアコンの音だけでした。寺岡さんは、実家の人が引き取りに来る時、立ち会ってくれた。会長は亡くなっていたし社長から関わるなと言われていたのだから、そこまでしなくてもよかったのに。あの人柄がそれを善しとはしなかったんだ。時折様子を見にそっと顔を出していたのでしょう。そう思うと、熱いものが込み上げてき、私は涙が気付かれないように顔を外に向け風景を眺めました。でも雅美さんには気付かれたかも。この世の中、まんざら捨てたものでもない。

「寺岡さん、実家の方とは挨拶されましたか」と、雅美さんは思い出したように聞きました。

「ええ、しました」

「したあ!?」私たちは絶叫しました。

「ええ。そうだそうだ、名刺交換しましたよ」と、寺岡さんはケロリ。

「そ、その名刺、まだありますか」と、雅美さんに言われ、

「いやあ、どうでしょ、あるかなあ、わかりません、ちょっと探してみまひょか?」

「すぐにお願いします。見つかったらスキャンして携帯へ送ってください」

「は?『スキャン』?『ケイタイに送る』?いやあ、そういうの、ようわからんので。あ、じゃ、見つかりましたら若い者にやってもらいまひょ」

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