第9話 朝比奈静馬
朝比奈重蔵氏の一人息子で、雅美の父、静馬氏についてもここで触れておきます。
静馬氏が生まれ物心がつく頃になるとしばらくして、重蔵氏は初台御殿に静馬氏専用の離れを建て増します。離れといっても、専用の玄関や水回りなどが一式完備で、母屋とは廊下でつながっているものの、単独で生活するには十分な広さと機能を持っています。
静馬氏は、元々、どちらかというと冷静沈着な性格で、激動の時代を海千山千渡り歩いてきた重蔵とは全く対照的な性格です。片田舎の農家出身で一介の不動産業者から日本を代表する大企業を構築した重蔵氏に比べ、静馬氏は初めから御殿での生活からスタートします。幼稚園から大学まで同じ学園に通い、大学生になった時には彼専用のスポーツ車を駆り、家に帰れば彼担当のお手伝いが食事から何からすべて上げ膳据え膳してくれるのでした。
しかし、とはいえ、彼は、ともすれば“良い家のボンボン”と周囲から見られがちな環境で生まれ育ちながら、自身にはそんな家を守る宿命を負っている覚悟が若い頃からあったようです。それこそ大学時代は入学祝に買ってもらったスポーツ車を運転するのがとても面白く、当時付き合っていた彼女や友人を連れ出しては、箱根や軽井沢など各地をドライブする遊びを覚えましたが、それは稀なことで、高校生の頃に自分で買ったどこにでも売っているデジタルのチープな時計を腕に巻き、学校へはもちろん電車で通い、学食で日替わりランチを食べ、バーゲンの時にしかモノは買わず、アルバイトをし、得た給料は一部を家に入れました。友人同士の付き合いは割り勘が原則。だからちょっと見ただけでは、誰もが知る朝日奈ホールディングスの御曹司だとはわからなかったといいます。よくありがちな“我儘なボンクラ”とは真逆の人物評価を当時の大学時代の友人から受けていました。
日頃より、重蔵氏から「お前は会社を継ぐ人間だ」と言われ、大学を卒業すると朝日奈ホールディングスへ入社。初めは営業畑で商売の基本を学び、そののち、全国百箇所を超える支店を持つ不動産賃貸の子会社へ、そして全国に十ヶ所の支社を持つゼネコンなどを経て、事件当時は十を超える関連会社と二万人を超える社員を擁するホールディング会社の経営本部直下の取締役社長室長として企業経営のいろはを父重蔵の元で学んでいきました。所謂、帝王学です。
静馬氏が社長に就任したとき、
「創業者の会長が築き上げた事業を承継することこそが、自分に課された使命だ」
と言って憚らなかったといいます。今でも、経営については、堅実を絵に描いたようだという評判を得ています。現に、株価は常に安定し、“失われた二十年”とも言われた、経済が不安定な平成の世にあって、「就職したい企業」ランキングでは毎年ベストスリーに入っています。
父重蔵が会長に退き、程なくして亡くなったとき、静馬氏は、
「人生の大きな目標であり壁であったものが一気に崩落し、心に残ったものは無だ」
と周囲に漏らしていたといいます。そのような気持ちが他の者に伝播したのか、後継者としてのスタートは茨の道であったといいます。幸い、朝日奈家としての葬儀は滞りなく終えることができ、会社としての社葬は総務部長が陣頭指揮を執ってくれたことで無事乗り越えることができました。しかし、地表すれすれの水面下では、
「朝日奈ホールディングスの後継者は本当に静馬で良いのか」
という噂が早速立ち始めたのです。
静馬氏は社葬がひと段落すると、社長室に幹部を一人一人呼び出します。幹部は会長派と社長派に分かれていました。静馬氏は噂を流した会長派から呼び出しました。次に社長派を呼び出しました。すると妙なことに全ての幹部は明るい表情で社長室を後にしたという。一体何が社長室で起きたのか。あまりここでくどくどと一部始終を説明することは本論から逸脱するので割愛しますが、要するに会長派も社長派も自分の身が一番可愛いだけなのでした。これで朝日奈創業家は盤石。
一方、静馬氏には看過できないことがありました。会長が美子の存在を恐れたことと似ていますが、今回は会長の妾の問題でした。静馬氏は、単身逗子へ向かいました。そこには父が最後に愛した妾がいる。全てを終わらせねばならぬと思ったに違いありません。これで朝比奈家にとっての妾問題は断ち切った、筈でした。しかし、静馬氏も重蔵氏と同様、女性に走る傾向があるとか、ないとか。重蔵氏が亡くなると、いよいよその奔放ぶりが増してきたと、噂が立っていました。波風なく生まれ育ち、生来真面目で、事業に関してリスクを伴う冒険を善しとせず、父重蔵の作り上げた富や名声を後に継承することで存在意義を示してきた者に限って、人間ひょんなことでわき道に逸れるのかもしれません。とうとう噂に尾ひれや背びれが付いて、
「社長には隠し子がいる」
とまで、実しやかに囁かれるようになったとか。
なお、妻で朝比奈不動産専務の良子との間にはなかなか子宝に恵まれませんでしたが、結婚十一年目にしてやっと雅美さんを授かります。
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