第四話 正義は裏切らない

「麻央。え、えっと……あのさ……」


 一連のばたばたが一段落した後、すっかり、がらん、とした居間であたしや和子おばさんや美孝を前に、パパは言いづらそうにこう切り出したのだった。


「パパと一緒に、アメリカ……行かないか?」

「やだ」


 あたしは即答する。


「だよなあ」

「だよなあ、じゃないでしょうが」


 ぱり、とお茶けの煎餅せんべいかじりながら、和子おばさんがあきれたような声を出した。


「何、納得してんの、正兄。少しは説得しようって気はないの? 麻央はこの家でもう――」


 言いかけて、ぶつり、と言葉を切る。

 独りきりになっちゃったんだよ――多分、そう言おうとしたんだろう。


「あ、あはははは……」


 ぼさぼさ頭を掻き掻きパパは笑った。


「そう言われると思ってたからねえ。嫌われてないし、大好きだって思ってくれてる自信はすっごくあるけど、もしも僕が同じこと言われたら、やっぱり、嫌だって言うと思ったからさ」

「親馬鹿なのか馬鹿なのか分かったモンじゃないね。……ま、確かに、あたしもそう言うんじゃないかなって思ってたところあるけどさ。ね? 麻央はそれで良い? 本当に良いんだね?」

「駄目?」

「良いとか駄目じゃないよ、麻央」


 そう応えたパパの顔は、いつも通りの優しい笑顔のままだったけれど、その目の奥は今まで見たことがないくらい真剣そのものだった。


「僕は君に聞いてるんだ、麻央。君がどうしたいかを聞きたいんだ。君が決めたことを、パパは応援しようと思ってる。だって僕、パパなんだからね」


 あたしはうなずき、もう一度じっくりと考えてみた。


「あたし、ここにいたい」

「じゃ、そうしよう」


 パパは頷いた――頷いたけれど、済まなそうな顔を今度は和子おばさんに向けて、ますます済まなそうな笑顔を浮かべながら頭を掻き掻き口を開いた。


「……って訳で。あの……ええと……」

「分かってる。分かってるよ。別に問題ないでしょうが、今までどおりなんだから。もちろん、貰うモンはきっちりと貰うわよ? ウチだって裕福な訳じゃないからね」




 事情が分からない人には何事かと思われそうだから、ちょっと説明しとく。


 元々あたしんち――真野家は、銀じいのさらに上のおじいちゃん――ひいおじいちゃんの建てた家。で、隣の瀬木乃家はその弟のにあたる人が建てた家。兄弟隣同士で住んでたんだ。


 で、その息子――瀬木乃のおじいちゃんは和子おばさんが小さい頃に戦争で亡くなっちゃったんだって。そこで銀じいは、『あいつの分も俺が面倒を見る』と言い出し、親戚一同の反対を押し切って瀬木乃家を支えることにした。だからあたしにとって銀じいは、じいちゃんで父ちゃんなんだよね――ことあるごとに和子おばさんは話してくれたものだ。


 だから銀じいが入院した時も、誰よりも熱心にお見舞いに通っていたのは和子おばさんだったし、そうなる前から離婚で女手のなくなった真野家の家事一切を引き受けてくれていたのも和子おばさんだった。ただ、それでも和子おばさんは若い頃から一人海外で働く道を選んだパパに対しては少し厳しかった。正兄まさにい、あんたは好き勝手してもいいよ、だけど出すモンは出してもらうからね――と言って、毎月きっちり仕送りをさせているという訳なのである。


 ちょっと格好良いなって憧れてる。

 これはヒミツ。


 だって凄く美人だし、スタイルも抜群なんだよ?

 これ、裸の付き合いができる女同士だけが知るヒミツ。




「やった! やっぱ僕、和ちゃんのこと好きだなあ! 知ってた? 昔っから和ちゃんのこと大好きなんだよね、僕」

「調子良いんだから……」


 言われた和子おばさんは、照れるどころかつまらなさそうに呟き、ひょい、と煙草を一本くわえたかと思うと、あたしたちの前だと言うことを思い出して大事そうに箱の中に戻した。


「ったく……。従兄いとこに惚れられたって嬉しくも何ともないっての。第一、相手は正兄だし」


 だね。

 このパパじゃ勿体もったいないもん。


「じゃあ、麻央? ご飯はウチで一緒に食べな。洗濯物は溜まる前に持ってくること。お風呂はあたしと二人で『杉の湯』に行く。いいね? 分かった?」

「うん。おっけい」




 ああ、そうだ。さっき言い忘れたことがあったっけ。


 朝晩ご飯は瀬木乃家で食べ、皆揃って銭湯に通い、夜はそれぞれの家へ帰って寝る――それがあたしの日常だ。こんなの下町じゃ珍しくもないなんて思っていたけれど、実はそうでもないと知ったのはつい最近のことだったりする。




 と、和子おばさんの科白に美孝がうろたえた素振りを見せて、意外そうに悲鳴を上げた。


「え? え? 俺は!?」

「おー。甘えんじゃないよ美孝。中学生にもなって母ちゃんとお手々つないで銭湯通いかい?」

「……ぞっとするな」

「だろ? これからは一人で行きな。寄り道でもしたら家入れないからね。覚えときなよ」

「わ、分かってるって」


 ごくり、と美孝が唾を呑んだ。

 身に覚えのある奴の反応だよね、これ。


「ははは……良かった。ホッとしたよ」


 そう呟いたパパの顔は、妙に優しかった。それから和子おばさんに向けて一つ頷くと、今度はあたしの方を向いて、真面目な顔してこう言った。


「あのね、麻央? パパ、もう少しで今の仕事がひと段落するんだ。そうしたら、日本に戻ってこようと思ってるんだよ。ウチの会社、日本にも研究所を作るって計画があってね。そこの研究員として立候補しようと思ってる……いや、もう、したんだ。反対はされないと思う。むしろ日本語が堪能な土地勘のある研究員が必要だ、って言われててね――」


 すっ、と目の前に右手の人差し指が一本現れる。


「一年――一年だけ待って欲しいんだ。そしたら必ず帰ってくる。これは約束。嘘じゃない」


 あたしはその指をじっと見つめた。


「……ママにもそう言ったじゃん。でしょ?」


 でも、パパの笑顔は――少しも揺るがなかった。


「もう僕は誰も裏切らない。そう決めたんだ。大好きな麻央のためだもん。そして、これは僕のためでもある。ほら、僕の名前――知ってるでしょ?」

「……まさよし」

「そうだけど違う」


 うんうん、と二回頷いたパパは、


「それ《正義せいぎ》って読めるでしょ? 覚えてる? 昔、銀じいと良くやってたでしょ、アレ」


 ずきり。

 あたしの口調は自然と不機嫌なそれになった。


「……はぁ。何で皆、その話するんだろ」

「え?」

「………………何でもない」


 パパは不思議そうに傾げていた首を戻し、いきなり立ち上がると高らかに言い放った。


「『超国際救助戦隊ユニソルジャー』只今現場到着!ってね? 僕は君の正義の味方なんだ。知ってるでしょ? だから、約束は絶っ対に守る。ね?」


 あたしは何も言わず渋々頷いた。




 でもあたしは、本当はこう言いたかったんだ。

 正義のヒーローが、いつも正しい訳じゃないんだって。


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