第九十六話 エレキシュの書
ゆりが湖に沈んだあの時。
オレは世界を憎んだ。ゆりのいない世界も、ゆりを守れなかったオレも、みんなみんな消えて無くなればいいと思った。
でも、そうはならなかった。
ゆりがこの世界を、愛で包んだから。
“――ナオト、泣かないで。
あなたにいつも笑っていてほしいの。
何処にいても、あなたを想ってる。
私の勇者。私の太陽。”
何を言ってるの?
きみがいなきゃ、オレは笑えない。
きみのいない世界には、色も音もない。
行かないで。行かないでゆり。
逝かないで――――
「――おい! おいナオト! 起きやがれ!!」
伸ばした手が空を切る。何者かに身体を思い切りがくがくと乱暴に揺すられてナオトは目覚めた。
「…………。おっさん?」
ナオトが身体を起こすと、その両肩を掴んでいたドーミオはそれを雑に払うと威圧するように腕組みした。
神殿の自室。このベッドで目覚めるのは随分と久しぶりだ。戯れに伸びをすると、随分と身体が軽い。状況を理解しようと急速に回転を始めた脳は、覆われていたベールを取り払ったかのようにクリアだ。
その時初めて、ナオトは自分の身体から呪いが綺麗さっぱり消えていることに気が付いた。
――ゆりが、消してくれたんだ。
ナオトは微睡みの中で優しく語りかけるゆりの声を思い出し、ぎゅっと布団を握った。
牢獄暮らしに慣れてしまったせいだろうか、この部屋は妙にがらんとしていて広かった。脳は恐ろしく冷静なのに、思考は何故かふわふわとして落ち着かない。これまでの出来事全てが、まるで夢だったんじゃないかと思えるほど――。
ふと横を見れば、呪いの声に抗って掻きむしりボロボロになったままの壁がある。それだけが、あの日々が現実なのだと伝えていた。
「あれから何日経ってんだ……?」
ナオトの何処へともない呟きに、ドーミオは畳み掛けるように問い返す。
「ハア? なんのこっちゃ知らねえけどよ、一体どういうことなんだ? 何でお前がここにいるんだよ! 俺は一昨日の夜突然妙な雨が降ってきて何だか知らねえが胸騒ぎがしてよ……。朝になって慌てて嬢ちゃんちを訪ねて行ったら誰もいねえし、大家だっつう男が現れて、嬢ちゃんがその……死んだって……」
ドーミオはまるで冗談だ、とでも言うように鼻で笑った。
「おめえの姿も見えないから神殿に来てみたら、今度は家宅捜索とやらで騎士団の連中が物々しい様子で出入りしてて、こちとら取り次いでももらえねえし。んでしょうがねえから今日になって朝一番でこうやって訪ねてきてんだ! ……ったく俺の気も知らずに暢気に寝てやがって……」
つまり今は、「女神の涙雨」から二日目の朝ということだろう。布団を握り締めるナオトの手が震えるのを知ってか知らずか、ドーミオは残酷な問いを突き付ける。
「おいナオト、何があった? 嬢ちゃんが死んだって、嘘だよな??」
「――――死んだよ」
「……は?」
その一言に、威勢良く捲し立てていたドーミオの動きが止まった。ナオトはベッドを下りると、立ち上がり俯いた。
「は? ナオト、おめえ何言って……」
「ゆりは死んだ。オレの目の前で」
「……な……」
「殺された。重りを付けられて、生きたまま北の湖の底に沈められた」
「な、に……?」
ナオトの絞り出すような声に、しかしギルドの英雄は諦め悪く食い下がった。
「……だ、だが、死体は上がってねえんだろ……?」
「今目ぇ覚めたばっかだからわかんねーけど……。あの状況で、ゆりが自力で脱出するのは無理だ。それに、ゆりの魔力が、命が、水に溶けて……。……死体は……。獣になったオレが、跡形もなく消してしまったかもしれない」
ナオトはあの日、湖を干上がらせ周辺一帯を焦土にした。湖の底に沈んだ彼女の身体がどうなってしまったのか、考えるだけでも恐ろしかった。
色を失くすほど強く拳を握り込んで堪えているナオトの様子に、流石の往生際の悪いドーミオもゆりの死が事実らしいと受け入れざるを得なかった。仮にも冒険者として数々の苦渋を舐めてきたドーミオは知っている。人とは儚く、簡単に死んでしまうものなのだと。同じ冒険者として数多くの死に立ち会ってきたナオトが「死んだ」と言うのだから、その言葉自体は疑いようもなかった。
街の中で平和に暮らしてはずのゆりが、何故死ななければならなかったのか。恐らくナオトを巡るごたごたに巻き込まれたのは間違いない。だが、ドーミオにナオトを責める気は起きなかった。
彼はただふらりと力無く近場の文机に体重を預けると、憔悴しきったナオトを見た。
「…………そう、か……。だが……。ほんの短い期間だっただろうが、あんたらは幸せだったんだろ……? お前は、嬢ちゃんの願いを……叶えてやったんだろ……?」
「……?」
向けられた言葉の意味がわからず、ナオトが固まる。
「? お前、まさか……」
そのナオトの様子にドーミオの表情がみるみる曇り、巨体が震える。次の瞬間、大男はナオトの胸ぐらに掴みかかっていた。
「おいっ、手紙は読んだんだよなっ!? 嬢ちゃんからの!!!」
ナオトはその気迫に驚きながらも、気まずそうに顔を逸らした。
「――? 読んで、ない……。どうせ、オレには読めないと、思ったし、それに……」
「!!!!!」
――どうせ別れの手紙だから。
消え入りそうなほど小さく呟いたナオトの言葉に、ドーミオは顔を蒼白にすると――
次の瞬間、丸太のような拳で目の前の美しい顔を殴り付けた。
「こんの……大馬鹿野郎ォォオッッッ!!!!」
ガシャァァアアアアン!!!!
至近距離からの拳はクリーンヒットし、ナオトは吹っ飛び壁に叩き付けられた。
「そんなの、お前に学がねえことくらい、嬢ちゃんが……ゆりが、知らねえわけねえだろ!? 封を開けてすらいねえって言うのかよ!!」
「……!」
――まさか。まさか。
打ち付けられた頬を拭うナオトの心臓が跳ねた。切れたはずの口の中が渇き、背には冷たい汗が滲んでくる。
まさか。そんな。
次の瞬間、ナオトは飛び起きると先程まで眠っていたベッドを部屋の反対側に投げつけひっくり返した。床に這いつくばり、必死にそれを探す。床を這わせた手が、何かを掴み取った。――あった。ベッドの下の壁の隅、丸めて捨てられたその手紙。
ナオトは震える手でくしゃくしゃになった封筒を広げた。
“ナオトへ”
罫線の上に書かれた自分の名前。
「……ゆ、り、」
恐る恐る封筒を開ける。その中に入っているのは、封筒と同じ罫線の入った、小さな小さなノートの切れ端。そこにはたった一行、こう書かれていた。
“E・11:35”
「……!」
一見暗号のような数字の羅列。
だが、ナオトはその意味がわかった。
「これ……聖教書……。もしかして、あの時の……?」
ナオトが驚愕の目でドーミオを見る。ドーミオはただ、無言で首肯した。
そう。この数字は聖教書のとある箇所を示すもの。聖教書を読んだことのある者……つまり女神教の教えに触れたことのあるこの世界のほぼ全ての者が、この数字が聖教書を指しているのだと思い当たるだろう。それは教会に散々写本や暗唱を押し付けられていたナオトも例外ではなく。
――即ち、この数字が示すのは
『
「エレキシュの書」。
それは聖教書に収められている、聖人エレキシュの生涯を綴った言行録。十一章は愛する者を喪った男エレキシュが、故郷を離れて長い旅に出るという別れの章だ。そして三十五節は苦難の旅路の果て、エレキシュが絶望の中に一縷の希望を見出だすという箇所である。
神官長は、それを“別れの手紙”だと言った。
愛する者を永遠に失い、孤独のうちに旅立つエレキシュを、ゆりが自分に重ねたのだと思ったのだろう。
ナオトは蒼白になり、ベッドサイドのナイトテーブルの引き出しを勢い良く引き抜いた。
――あった。ドーミオが牢獄を訪ねてきた際に託された、真新しい聖教書。牢でそこらに投げ捨てたままだったが、牢獄を引き払った神官がご丁寧にナオトの部屋に戻してくれたのだろう。ナオトは震える手でその頁を捲る。
――E・11:35。
三十五節の見開きの一部分に、ペンで丸が付けられていた。ナオトはその部分を読むことはできない。だが、その内容を知っていた。
ナオトは印を指でなぞると、掠れた声で幾度となく暗唱させられたその部分を諳じる。
「“私はあなたの家。あなたの安息を守護し、共に歩む者。やがて苦難の雨は去り、ただ平穏の内に憩うだろう”――」
それは、絶望にうちひしがれた聖人エレキシュの元に、女神サーイーが現れ告げた言葉。そしてその丸印のすぐ下には。小さな鍵が一本、貼り付けられていた。
それは、ゆりの新居の二本目の鍵。
ゆりがナオトへ宛てたたった一行の紙片。それは、別れの手紙ではなかった。
孤独なエレキシュに女神が寄り添い、いつもあなたの心の内にいます、と教えたように。聖教書の言葉に託されたのは、“あなたと共に生きたい”と願う、ゆりの強烈なメッセージだった。
呆然とその頁を見ているナオトに、ドーミオが後ろから声をかける。
「俺は、ゆりの家の保証人だ。ゆりの新しい家の住所は、
その言葉にナオトは零れ落ちそうな程黄金色の瞳を見開いてドーミオを見た。ドーミオは俯きながら、震える声を絞り出す。
「嬢ちゃんは、待ってたんだよ……。お前がその鍵を使って、自分に会いに来るのを。嬢ちゃんは俺に……お前と……家族になりたいって、そう言ったんだ……。なあ、ナオト、どうして……」
ドーミオの目から、涙が流れていた。「絶対強者」と恐れられるギルドの英雄が、零れ落ちる涙を拭うこともせずその巨体を震わせている。
「どうして……! どうして嬢ちゃんの……ゆりの、ささやかな願いを……。叶えて、やらなかったんだよ……っ!」
――ナオト、笑っていてね。
あなたの全ての憂いを拭い、悲しみを取り払うから。
あなたの幸せを願ってる。あなたの笑顔が、いつまでも続くように。
「……あ……」
ナオトの手から聖教書が滑り落ちた。
それを拾いあげようとして膝をつく。すると、その黒く飾り気のない表紙にぽたり、とひとつ水滴が落ちた。
“他人に弱みを見せることは、死に繋がる。
誰にも心の内を見せるな。誰も信じてはいけない。
己の力のみが、生き延びるための唯一の糧だ”
スラムの掃き溜めで、子供のナオトに錆びたナイフを与えた誰かがそう言った。
他人を信じるなと言いながら、幼いナオトを諭すように説いて聞かせたその言葉。その主が誰だったのかはとっくの昔に忘れてしまったが、その言葉はナオトを鎖のように戒め、縛ってきた。そしてナオトはこれまでその言葉通り、誰も信じず、己の力のみに頼って生きてきた。
ナオトは信じられなかったのだ。ゆりの愛を。愛の不変を。
――ナオト、泣かないで。
あなたにいつも笑っていてほしいの。
何処にいても、あなたを想ってる。
私の勇者。私の太陽。
「う……あ…………。――――うわあああああ゛あ゛あ゛!!!ゆり!!ゆり!!!!」
母の膝にすがる子供のように。
ナオトはその日生まれて初めて、声を上げて泣いた。
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