第八十九話 優しい景色

 中央都市モルリッツ内の最北、旧王城の魔道研究所にて。

 ゆりは大きなフラスコに両手を添え、じっと眺めていた。


 彼女がユークレースから与えられた使命ミッション。それは血液を提供しつつ、神霊薬エリクサーの精製を見守り、その完成品に魔力を込めること。



 “あんたがこの薬を完成させて、何を為したいのか。そのイメージをフラスコの水面に映すんだと思え”



 “魔力の込め方”についてユークレースから与えられたそのアドバイスは、ゆりには全くピンと来ていなかった。既に何の手応えもないまま一週間以上が経過している。

 始めは手の平に物理的に力を込めてみたが、これではフラスコが割れかねない上、腕がぷるぷると震えてきて一日ももたない。

 手の平に汗をかくほど必死に「魔力よ来い!」と念じてみても、ただただ眉間の皺が増えるだけだった。


 “何を為したいのか。”


 何日にも及ぶ試行錯誤の末にようやく立ち戻ったその問いに、ゆりはナオトの煌めく黄金色の瞳と、それをくしゃりと少し意地悪そうに細めた笑顔を思い出していた。



 ――そうだ、私はこの薬でナオトの呪いを解き、彼の笑顔をもう一度見たい。子供のように純真で、太陽のように明るいその笑顔を。



 難しいことはわからない。

 だが、心に刻まれた彼の姿を思い浮かべることならできる。

 ゆりは彼と出会ってからのこれまでを、ひとつひとつ記憶の本棚から取り出し、その頁を開いた。

 自信満々の顔、少し怒った顔、真剣な顔、優しい顔、そして泣きそうに歪められた顔。

 その全てを慈しむように胸に抱くと、いつの間にかゆりの心は幸せな静謐に満たされている。泉のように湧き出る想いをそっと両手で掬い上げると、それはさらさらと零れ、意思を持つかのように淡く光輝いた。



 ――ナオト、笑っていてね。

 あなたの全ての憂いを拭い、悲しみを取り払うから。

 あなたの幸せを願ってる。あなたの笑顔が、いつまでも続くように。



 研究室の後方で通常業務に勤しんでいたユークレースは、突然部屋中に神々しい魔力が溢れかえるのを感じ取り、驚いて振り返った。目覚めるように翼を広げたその魔力は、やがて収束し、ゆりの手の内――神霊薬エリクサーの滴り落ちるフラスコに満たされてゆく。

 ゆりは目を瞑り、愛しげにその両手を伝わる感覚に身を委ねていた。



 ――冗談ではなく、この地味女は本当に神話級の霊薬を作り出してしまったかもしれない。



 ユークレースは図らずも奇跡の瞬間に立ち会ってしまったことに畏怖を覚え、思わず喉を動かした。




 そして一日の終わり。

 不思議な疲労感に包まれたゆりは、研究室で回転椅子に身を預けるユークレースに茶色の封筒を差し出していた。


「ユークレースさん、遅くなりましたけどこれ……。部屋の契約書と、三ヶ月分の前払いの家賃です」

「ふうん」


 ユークレースは片手でそれを受け取ると、ちらりと横目でゆりを見る。先程の魔力の残滓ざんしを微塵も感じさせない、いつも通りの地味な女だった。笑った顔はまあ、悪くはないかもしれない。

 こいつの魔力に美的感覚が狂ったのかな、と嘆息しながらユークレースは契約書に目を通す。



賃借人、矢仲ゆり。

保証人、ドーミオ・スアレス。

そして同居人――ナオト。



「モルリッツオールスターみたいな契約書だな……」

「ふふ、ドーミオさんが気前良く保証人を引き受けてくれたので良かったです」


 その契約書に並ぶ錚々そうそうたる顔ぶれに、ユークレースは珍獣を見るような目で、屈託なく笑うゆりを見た。


「同居人も――あんた、これで良いの?」


 ユークレースは、容赦なく問うた。勇者ナオトはゆりが神殿を追い出されてからこのかた、こちらに気配すら見せない。それに――。


「変ですよね、本人に確認したわけでもないのに。でも誰かと暮らすとしたら……他には、思い付かなかったから」

「そうか……? わりと身近にいると思うけど」

「えっ?」



 ――いるじゃないか。毎日毎日あんたに猛攻を仕掛けているアラスターが。



 ここのところのアラスターは女神もかくやという溺愛ぶりで、毎日定時に仕事を切り上げてゆりを送り、休日には外に連れ出して束の間の会瀬を満喫しているようだった。ユークレースも先日、ゆりの招待を受けてアラスターと共にゆりの家で夕食を共にしたばかりである。


 その日、“張り切りました!”と言ったゆりの食卓に並んだ料理は、どれも驚くほど旨かった。約束通りアパルトマンの共有部分も美しく保ってくれているし、部屋や設えられた魔道具も丁寧に扱ってくれているようだった。

 ゆりを保護したあの日に、家政婦ハウスキーパーとして彼女を連れ帰っていれば……と、ユークレースは研究室同様に散らかり放題の我が家を思い浮かべる。逃した魚が思いの外有能だったことに気付かされたが、隣で一見涼しい顔で葡萄酒ワインを嗜んでいるアラスターが、その内心で狼の牙を隠し持ってこちらを警戒していることを知っているので――今更何かを変えようという気は起こらなかった。


 “この前アランさんが食事に来てくれた時、間違えてヒロコロネギを出しちゃったんですよ”


 囲んだ食卓で、まるで楽しい失敗談とでもいうていで爆弾発言をされ、ぎょっとして隣のアラスターを見ると……。平然とした顔で、“ああ、あの日の食事も旨かったな”と返していた。


 この時、ユークレースはてっきり二人は既にいて、アーチボルト家に引き取られるのも時間の問題なのかと思っていた。

 しかしゆりは、しっかりと契約書に前家賃を携えて差し出して来た。しかも同居人に、別の男の名前を書いて。



 ――なるほどな、とユークレースは二通の契約書に再び目を通し、契印となるサインを綴りながら考えた。

 要はあの男アラスターは、ポーカーフェイスの裏で焦っていたのだ。この女を手に入れるなら、天敵ゆうしゃのいない今しかないと。

 もし本当に既にこの女を自分のものにしているなら、こちらに対する態度にももっと余裕がありそうなものである。



 なかなか面白いことになってるなあ、と考えながら、本来あまり他人に興味のない性分のはずのユークレースは契約書を封筒にしまった。そして不敵な笑みを湛えて立ち上がると、隣で佇むゆりの顎の下に人差し指を滑らせ、顔を持ち上げた。


「そうだな……、例えば、僕とか? 美しくて、天才で、資産もあるし、幻鳥族だ。更に絶滅危惧種の僕の子を生むと、評議会から生活援助金が支給される」

「へえ……」


 この手の色仕掛けには耐性ができてしまっているのか、ぽかんとした様子のゆりに、ユークレースは直球で畳み掛けた。


「地味子、あんたひとり生んでくれない? 評議会からせっつかれてて、困ってるんだよね。でもせっかく幻鳥族の子孫を残すなら、魔力のある相手じゃないと意味がないし」

「へっ!?」


 漸く口説かれていると気付いたのか、途端に顔を真っ赤にしたゆりに、さてどうやってからかってやろうかとユークレースが意地悪く口の端を持ち上げていると――

 突然物凄い勢いで研究室の扉が開き、アラスターが雪崩れ込んできた。


「フラハティ!!!! 貴様、死にたいのか!?」


 剣の柄に手をかけ、今にも斬り伏せんとするアラスターにユークレースはほらやっぱり、と心の中で舌を出した。


「ムキになるなって! じょーだんっ、冗談に決まってるだろ!!?」

「冗談でも許さん……!」


 そんなやり取りを繰り広げながら狭い研究室をバタバタと走り回る男二人。それを暫くきょとんと見ていたゆりは――やがて、声をあげて笑った。


「あははっ、二人ともいい大人なんですから……ふふっ、だめですよ! あはははは!!」


 その笑い声に、二人はぴたりと動きを止めた。

 ユークレースは、彼女が大口を開けて笑うのを初めて見たので呆気に取られている。そしてアラスターは……まるで太陽の熱に溶かされた蝋燭のようにデレデレに相好を崩し、耳を垂らしていた。



 ――ナオト。

 辛いこともあったけど、やっぱりこの世界は輝きに溢れてる。教会の外には、こんなにも優しい景色が広がっていたよ。

 ナオト。早く会いに来て。

 ナオト。あなたに会いたい――。



 だがそのゆりの願いとは裏腹に、待てど暮らせど彼がゆりの元を訪れることはなく――彼女が神殿を出てから二十日近くが経過した。




 その日も、研究所からの帰り道をアラスターに送り届けられ、ゆりはアパルトマンの正面口で彼に別れを告げた。三階へ上り、部屋の鍵を開ける。一連の動作も既に大分手慣れてきていた。


 玄関を入ると、メインルームの右手で薄手のレースカーテンが揺れた。

 もしかして窓を閉め忘れたまま出てしまったのかしらとふとその窓を見遣ると――。



「……エメ?」



 開け放たれた窓の横に、白尽くめの男――トゥ=タトゥ聖教国から帰還したエメが立っていた。

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