第八十話 全部あなたのもの

 日は西に傾き、空が赤みを帯始める頃。ゆりはひとり、礼拝堂でピアノを奏でていた。


 大聖堂での一件から既に数日が経過している。

 ナオトがあの後どうなったのか、無事目覚めたのか、ゆりは知らなかった。正確には、知ることを許されなかった。


 ナオトの部屋には常に神官が配置され、見舞いをやんわり断られた。まさか力尽くというわけにも行かず、ゆりは何度かの訪問をその度無言で辞していたのである。

 あれだけ大勢の前で原初の獣に変わって周囲を驚かせてしまったのだから、教会が神経質になるのも無理からぬことなのだろう。呪印の封印の緩みが気掛かりだが、それもいざとなれば浄化の儀式で多少は持ちこたえることができるはずである。今は教会に全てを委ねるしかなかった。



 ゆりは全ての憂いを忘れるため、自らの奏でる音に没頭した。左手のリハビリを兼ねて念入りに音階練習をし、漸くショパンでも、と弾き始めたところで。

 突如礼拝堂の正面扉が開き、夕焼けの逆光の中に何者かが佇んだ。

 ゆりが驚いて手を止め光の中に目を凝らすと――それは、赤銅色の髪を夕日に煌めかせたナオトだった。


「ナオト……!? もう、大丈夫なのっ?」


 ゆりはピアノの椅子から転がるように滑り下りると、そのまま駆け寄る。ナオトは後ろ手に扉を閉めるとゆっくり歩を進め、ちょうど礼拝堂の中央あたりでその胸に飛び込んできたゆりを抱き留めた。


「ああ、良かった……! 本当に心配したんだよ、だって突然獣になっ……」


 そこでゆりは固まった。

 最後にナオトと抱擁したその日、ナオトが恐ろしげな瞳で、容赦ない力で、アラスターの匂いをちらつかせたゆりを喰らわんとしたことを思い出す。あの時の底冷えするようなナオトの声が脳裏をよぎり、怖々と顔を上げると。

 そこには、宝石のように澄んだ相眸そうぼうが真っ直ぐゆりを映していた。


「……ナオト……。私、何か匂い、する……?」


 ゆりが恐る恐る尋ねると、ナオトは意味ありげに目を細める。


「ああ、するね。甘ったるい薔薇の匂い。あとそれから、ゆりは今日だ」


 ずばり当てられ、そのデリカシーの欠片もない発言にゆりは真っ赤になった。


「ちょっ……! ……こ、この間みたいには、ならない?」


 伺うように覗きこんだゆりに、ナオトは一度視線をくるりと宙に浮かべると、再び彼女を見た。


「ん? 嫉妬? ……そりゃ、するよ。オレが倒れた日、あの後……。大聖堂でアーチボルトとかましたんだって?」



 ――

 言うまでもなく、アラスターの左腕を治すために交わした口付けのことだった。



「な……! なんで、それを」

「神殿中で噂になってるっつーの。オレの耳に入らないとでも思った?」


 ナオトがじっとこちらを凝視したので、ゆりは再び固まった。

 あの時、大聖堂には教導や神官長の他、複数の神官達もいたのだ。誰にも口止めなどしていないし、刺激の少ない教会で二人の艶事が噂の的になるのは当たり前と言えば当たり前のことだった。

 別にやましい気持ちがあったわけではない。あれは、怪我の治療のために必要な行為だった。


 ――そう、頭ではわかっているのだが。



 気まずさのあまりゆりが二の句を継げずにいると、ナオトはゆりをぎゅう、と腕の中に閉じ込め、その黒髪に顔を埋めた。


「……もうさ、」


 頭にぐりぐりと鼻を押し付けながら、ナオトは続けた。


「もう、どうだっていいんだそんなことは。オレはさ……。ゆりがキスして、血をくれる度――その魔力の中にある、ゆりの“声”を聞いてた。呪いに曇らされて気付けてなかったけど、オレの中のオレは……ちゃんとそれを、聞いてた」


「私の、声……?」



 ――私の声。私の本当の気持ち。



 ゆりがハッとした表情で見上げると、ナオトは意地悪そうに微笑んだ。


「そーいえば、直接言われたことはなかったな~。あーオレ、きっとそのせいでウジウジしてたんだわ」


 そう言って耳と尾をパタパタと動かし始めたのを見て、ゆりはナオトのシャツの胸元を握り締めた。決意したように一度口を引き結ぶと真っ直ぐナオトを見つめる。そして震えながら、しかしハッキリと口にした。



「わた、わたし。――ナオト。私は、あなたが好き。あなたが大切なの。あなたが死んでしまうなんて、耐えられない」



 ナオトは一言も逃さないかのように耳をピンと立て、ゆりの口から紡がれる言葉を聞いていた。


「ナオトが好きなの……。だから、あなたの呪いを解きたい。不可能だと言いたくないの。どうしても、解きたいの」


 そのままゆりはナオトの胸に顔を埋め、その鼓動を聞いた。


「あなたが不安なら、何度でも言うから。何度でもキスするし、その……。あなたになら、全部あげてもいい。私の血も、内蔵も、全部あなたのものだから。だから、だから、あなたが欲しいなら――食べても、いいよ」



 ――そう、これが私の声。私の本当の気持ち。

 臆病で、勇気がなくて、言えなくて。ナオトに頼りきり、不安にさせてしまった、私の罪。



 目を瞑り、全てを委ねるように立ち竦んだゆりの身体を、ナオトはもう一度抱いた。重みをかけて覆い被さると、ゆりは堪えきれず仰向きに倒れる。逞しい腕がそれを受け止めたかと思うと、そのまま壊れ物を扱うかのように、整然と並んだ長椅子のひとつに優しく横たえた。埃ひとつなく磨かれた木製の座面に黒髪を乱したゆりを見下ろし、ナオトが切なげに息をする。その呼吸に合わせて獣の耳がぶるりと震えた。


「オレはゆりが好き。全部欲しい。残らずオレのものにして、ゆりの全部をオレで満たしたい」


 そう言って、赤らんだゆりの頬に触れる。暫くそうやって上気した熱を感じ取るように撫でると、不敵ににやりと笑ってみせた。


 それは、傍若無人で如何なる道理も折り曲げてしまう、いつも通りの、出会った頃の“勇者ナオト”だった。その自信に満ちた瞳が真夏の太陽のように眩しく輝いた時――、ゆりの目には自然と涙が溢れ出た。

 ゆりは湧き上がる歓喜に身を震わせると、ナオトの首に腕を回し、力一杯齧り付いた。


「良かった。ナオトが、帰って来た。眩しくて、きらきらしてる、私の大好きなナオトが」


 そう囁いてぽろぽろと涙を零すと、ナオトは巻き付けられたゆりの腕を優しく剥がし、そのまま彼女の頭上に縫い付けた。



「ねぇ、ゆり……キスしよ。義務じゃないキス」



 そう言って、見上げるゆりの頬に、髪に、首筋に、キスの雨を降らせる。


 ――義務じゃないキス。


 そう言ってみたところで、特別にそのキスの何かが変わるわけではなかった。

 だが、それは以前、この礼拝堂でナオトが想いを打ち明けた時以来の――何の打算もない、ただのキスだった。



 “女神の御許で不埒なことはしないと、今、ここで誓え”



 硬質な座面に触れた「自由の鎖」が首の後ろでしゃら、と音を立てる。ゆりは今更になってエメのその言葉を思い出したが、全てはもう遅かった。


「……ゆり、すき、ゆりは、オレの“特別”なんだ」

「ぅん……ナオ……ト、……」


 ナオトが唇を食み、熱い舌がそれを抉じ開ける。おずおずとそれに自分の舌を絡めて応えると、あっという間に吸い付かれ、貪るように求められた。

 冷静でいようとする思考とは裏腹に、吐息と吐息が混じり合い、互いの熱が高まれば、その世界は二人だけのものになってゆく。手首を抑え付けていた節立った手は、額から耳に添えられ、髪を撫でて首を滑り、柔らかく双丘を包んだ。何度も重ねられる唇から、与えられ、奪われた切ない息を飲み込むと、その度二人を隔てる身体の境は曖昧になった。


 頭の奥にじんわりとしたしびれを感じながら、ゆりは朧気にずっと考えていた疑問の答えを見つけた気がした。



 ――愛し愛されることとは。


 誰かを“特別”にすることなんだ。

 他の誰でもなく、たった一人を。


 この世界に来て、たくさんの人と出会い、たくさんの大切な人が出来た。その気持ちに優劣も順位もないけれど。


 でも、私の“特別”は、ナオトだけ。

 ナオトだけが、私の“特別”なんだ。

 理由なんてわからない。ただ心が、魂がそうだと決めたから。



「ゆり、ゆり……。大好きだよ。ゆりだけなんだ。ゆりしかいらない。ゆりの全部が欲しい」



 いいよ。あげる。私の全部は、あなたにあげる。



 理性も羞恥も全部頭から追い出して、ゆりの中にひとつの覚悟が生まれた時。ナオトはそっとキスを止め、ゆりの額に掛かる髪を梳いた。ゆりが熱を孕んだ瞳で黄金色を見上げると、その輝きは麗美に細められ、優しくゆりを見下ろした。



 そして、全てを凍らせる絶対零度の声音が唐突に告げた。



「――だからゆり。今すぐ神殿ここから……。オレの前から、いなくなって」

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