if.アラスターの場合
アーチボルト家の長女エリノアには、四つ歳上の兄がいる。
眉目秀麗な容姿は元より、強靭にして優雅な身のこなし。何をやらせても完璧で、更にアーチボルト家の長子。身内の目から見てもこれ以上ない優良物件である。
だがしかし、彼には浮いた噂がなかった。いや、過去に女性との噂にその名が上ったことが何度かあるにはあるのだが……はっきり言って、そのどれもが本気の付き合いとは見えなかった。
妹のエリノアですら、それが実は男色のカモフラージュなのではないかと疑ったほど。その話を恋人――現在は婚約者――で又従兄弟のレインウェルに打ち明けたところ、腹が捩れるほど笑われてしまったのだけれど。
その堅物の兄が、何やらそわそわした様子で話しかけてきた。
「エリノア。本を……貸して欲しいのだが」
「はあ。何の本かしら?」
「……かい……せつ……」
「は?」
「『異界伝説』だ」
エリノアは一瞬きょとんとして……その次に爆笑した。
「お兄様が『異界伝説』?! あの、コテコテのラブロマンスをお読みになるんですか?!」
「……うるさい。少し予習しておこうと思っただけだ」
「は……」
ぶっきらぼうに腕を組み視線を逸らした兄の顔は、少し赤らんでいる。エリノアは、目に浮かんだ涙を拭いながらもぴたりと笑い止んだ。
「もしやお兄様……。それって例の、『眠り姫』のためかしら?」
「…………。今度、『異界伝説』の歌劇を観に行くんだ」
アラスターはエリノアの言葉を否定せずに、視線を逸らしたままゴホン、と小さく咳払いした。
“アランは『眠り姫』に恋をしてるんだ。それはもう、狂おしくね。その女性は召し人で……異世界から来た娘なんだよ”
それは、婚約者のレインウェルに教えられたことだ。
この
エリノアは、いつか兄に眠り姫を紹介してもらうためにはここで恩を売っておかなければ、とばかりに自室に戻ると、すぐに『異界伝説』の小説を本棚から取り出して戻った。
この世界では、『異界伝説』の本を読んだことのない乙女はいない。エリノアも御多分に漏れず、そうであった。
「お兄様、『異界伝説』の概要はご存知?」
「ああ、まあ、一般常識程度には……。女神と英雄の恋愛ものだろ」
部屋から戻ってきたエリノアの問いかけに、アラスターはにべもなく答えた。
「本当にざっくりですわね……。確かにそれなら、一度きちんと勉強なさった方がいいわ。こういうものは、詳しい方が観劇後の話題にも事欠かないですもの。紳士の嗜みとして」
はっきり言って、この世界で女性を口説こうと思ったら『異界伝説』は基本も基本だ。これまでの人生で触れる機会がなかったわけでもあるまいに。
この兄は関心のないものにはとことん無頓着である。
「ふふふ。異界からやって来た女神と、獣から人になった英雄――。まるで、お兄様とその召し人様のことのようよね」
本を渡しながら微笑むエリノアの言葉に、アラスターは驚いた表情で一瞬赤くなり――――すぐに、すっと凪いだ表情になると、小さく息を吐いた。
「そうだったら、いいんだがな」
その歌劇の始まりは、夕刻から。二刻以上に及ぶ上演時間を終えると、辺りはすっかり夜だ。
各分野の名工の手による贅を尽くしたモルリッツ歌劇場からは、物語の感動と余韻に包まれた人の波が吐き出されていた。
その中のひとりであるゆりは、周囲のめかしこんだ人々に比べればかなり地味だが、仕立ての良い余所行き用のブラウスとロングスカートを身に付けていた。靴もいつもの履き慣れたブーツではなく、少し踵の高い品の良いパンプスである。
「はあ……。とっても素敵でした」
「そうか」
うっとりとため息をつくゆりにそっけなく返したのはアラスターだ。
こちらも普段の騎士団の鎧ではなく、控えめな光沢を持つ濃灰のチェスターコートに黒のトラウザーズという出で立ちだ。めかしこんでいる風もなく、かといってこの場に相応しい品の良さも失われておらず、程良い力の抜け具合だ。
実は張り切るエリノアに金ピカの王子風に仕立てられそうになったのだが、普段から慎ましい装いのゆりに合わせてアラスターが慌てて自分で選び直したものだというのはここだけの話である。
「歌も、音楽も、衣装も……。何もかもキラキラしてて、夢みたいでした」
「そうだな」
「アランさん、今日は付き合って下さってありがとうございます」
「いや」
「……? あの、アランさん……。なんだか、怒ってます……?」
そう言ってゆりが立ち止まり顔を覗き込んできたので、アラスターは己の内心を看破されたのではないかとひやりとした。
そう。観劇前にゆりを神殿に迎えに行った時は、いつもと違う彼女の姿に上機嫌だったはずのアラスターは、歌劇を観終わる頃にはすっかり不機嫌になっていた。
それも全部エリノアがあんなことを言ったせいだ――とアラスターは思う。
“異界からやってきた女神と、獣から人になった英雄――。まるで、お兄様とその召し人様のことのようよね”
確かにエリノアの解釈も間違ってはいない。
実際、女神サーイーは召し人で、オスティウスは神獣人だとするベストセラーの新訳小説も実在する。
だが、その考えは肝心のところが抜けている。この物語はそもそも――――女神と勇者の恋物語なのだ。
恋の欲目でゆりが女神だと言うのに異論はないが、その相手が勇者だと言うのなら、アラスターはそのものずばりの人物を知っている。
自分でも子供じみた理由だと思いながらも、アラスターは物語の英雄――勇者オスティウスに嫉妬していたのだ。
「いや、違うんだ。すまな……」
「きゃっ!」
アラスターが怒っているわけではないと弁明しようとすると、人の流れがあるところで立ち止まっていたからか、不意にゆりが誰かの肩とぶつかりよろめいた。反射的にアラスターが腕を伸ばすと、ゆりはそれにしがみつくように体勢を崩した。
「ごめんなさい! …………痛っ」
慌ててアラスターの腕から離れようとしたゆりは、一瞬顔を歪めてその腕を掴んだ。
「足を挫いたか?」
「あ、いえ違うんです、大丈夫ですから……」
「拗らせると良くない。一度座れるところで診せてくれ」
そう告げると、アラスターは有無を言わせずゆりの膝下に腕を差し入れ横抱きにした。
「えっ! あ、えっ?」
突然景色ががくんと揺れたのでゆりは驚いたが、アラスターはまるで重さなどないかのように颯爽と歩き出す。
しばらくあたふたしていたゆりだったが、自分が暴れるとアラスターが歩きにくいだろうと気付くと、大人しくなり、上半身を安定させるためアラスターの首に腕を回した。アラスターはゆりの体重が完全に自分に預けられたのを感じ取ると、にこりとゆりに微笑みかけた。
アラスターはやや早足で歌劇場前の通りを突っ切ると、向かいにある公園へ向かった。この公園は日中は多くの人で賑わうが、街灯が一般的ではないこの世界では、夜は真っ暗である。星と月以外に照らすもののないこの場所は、今の時間帯は人通りはほとんどなかった。――束の間の会瀬を楽しむ若い男女の他には。
夜目の効くアラスターはそんな男女との遭遇をさりげなく避けつつ、ゆりを公園の隅にあるベンチに座らせた。遠くからは、歌劇の余韻に浸る帰り道の人々の明るい笑い声が聞こえる。
「痛むのは右足か? 靴を脱がせても?」
「うう、あの、……はい」
アラスターはあの一瞬で、どちらの足が痛んだのかまで見抜いているようだった。未だ真っ暗な夜に慣れないゆりはほとんど何も見えず、アラスターに全てを任せることしかできなかった。
アラスターはベンチの前に片膝を付くと、片手でゆりのふくらはぎを支えながら靴を脱がせた。するとゆりの白い足首が、夜の闇の中にくっきりと浮かび上がる。
アラスターはその細く小さな足の踵部分をそっと手の平に乗せると、まじまじと凝視する。
「腫れはないな。筋を痛めてはいないか? 少し動かすぞ」
「はい、あの……大丈夫です。さっき痛んだのは挫いたとかではなく、多分その……靴擦れだと思います」
背伸びをして慣れない靴を履いていたのだと思われるのを恥じたゆりは、小さな声で伝えた。アラスターがゆりの足の先を見ると、確かに小指部分が赤く擦れている。
白い足に一点浮かび上がった赤のコントラストはゆりの身体の内にある熱を想起させ、アラスターは思わず喉を鳴らした。
「…………」
アラスターがゆりの足をじっと見つめたまま無言になってしまったので、ゆりは戸惑いと羞恥から、なんとかこの沈黙を解消しようとやや唐突に先程の『異界伝説』の話題に水を向けた。
「さ、さっきのお話、アランさんはどこが印象に残ってますか?
私はそうだなあ……やっぱり、最初にサーイーとオスティウスが出会うところなんて素敵だなあと思ったんですけど」
「“――――天に星は
ゆりの言葉を受けアラスターが静かに呟いたのは、劇中の勇者オスティウスの台詞の一節である。それは、天界へ還らなければならない女神サーイーに勇者が愛を打ち明ける重要なシーン。
ゆりはアラスターの言葉を引き取り、その台詞の続きを諳じた。
「“例え幾千夜廻ろうとも、私は必ずこの星の海から貴女を見つけ出す――”。 ふふ。私も好きです、このシーン」
「――ああ、そうだな……。過去の偉人達も、この勇者の言葉を借りて愛を語ったのかもしれないな」
「ロマンチックですね」
「…………。“だが、願わくば”」
アラスターは小さく息を吐いた。そしてゆりの足首に視線を落としたまま、一旦中断されたその一節に、再度命を吹き込んだ。
「貴女を地上の星とし、この
彼の口から紡がれたその言葉は、流れるようでありながらも淡々と調子だった。
だがそれは。
劇中の勇者役の朗々とした告白とはまた違った種の……アラスターらしい抑制された情感を帯びていて、ゆりをどきりとさせた。
この勇者の台詞の後、劇中では女神と勇者の鮮烈なキスシーンとなる。アラスターはゆりの足首を捧げ持つとそっと――――その白い足の甲にキスをした。
「!」
ゆりが驚きから動けずにいると、アラスターが顔を上げる。切なげに細められた二つの薄金の瞳が、ゆりを見つめた。
「……おつき、さま……」
その美しい輝きに、緊張に身を疎ませていたはずのゆりは思わず、ぽつりとそう呟いた。
「勇者は女神をお星様に例えたけど……。アランさんの瞳は、お月様ですね」
ゆりはその引力に引き寄せられるようにアラスターの目元に手を伸ばし、触れていた。
「静かで、優しくて――。こんなに真っ暗な中でも、この瞳を見れば絶対にアランさんだとわかるから。見てるとなんだか安心します」
にっこり。
想像しなかったタイミングで満面の笑みを向けられ、アラスターは固まった。ゆりは自分と夜空の星を映すアラスターの瞳を覗き込み、本当にきれいだなぁ、と笑っている。
無邪気に微笑まれ、「安心します」とまで言われてしまい。アラスターは完全に次の言葉を失ってしまった。ゆりは知らずのうちに、牙を向いていたアラスターの内なる狼を殺していた。
何故か自分がとても悪いことをしようとしていたような気にさせられたアラスターは、小さく嘆息した。
「…………。ふ。貴女は歌劇の英雄も真っ青の殺し文句を持っている」
「こ、殺し文句だなんて、思ったままを言ったまでなんですけど……」
アラスターは自嘲気味に笑うと、ゆりの右足に丁寧に靴を履かせた。
「ゆり、知っているか。狼は満月の夜に豹変するらしい」
「知ってますよ。本当なんですか? 今日は……三日月ですけど」
「さあ、どうだかな」
貴女を映す俺の瞳は、いつだって満月だ。
けれど、俺の女神は届きそうで掴めない。星のように美しく――気まぐれだ。
「送っていこう。今日は三日月……だからな」
そう言って再びゆりを軽々と横抱きに抱え上げると、神殿へと向かってのろのろと歩き出した。できるだけその体温を、自分の身体に留めておけるように。
空では三日月が、その口の端を持ち上げてニイと笑っていた。
帰宅後、待ち構えていたエリノアに今夜の一部始終を白状させられたアラスターは、「据え膳食わぬは狼族の恥!」と、その意気地のなさを散々説教されたのだった。
――足の甲へのキスは、「隷属」。
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