第五十三話 手負いの獣

 ナオトが傷を負ったまま消息を絶ち、少なくとも一日と半分は経つ。

 まもなく夜が明け始める深夜の終わり、部屋の灯りを灯したままナオトを待つゆりが、流石にうつらうつらとし始めた頃。


 空気が渇き、砂のようにさらさらと吸い込まれていく感覚がして、ゆりは覚醒した。


「あれ、この感じ、どこかで――」


 ゆりが立ち上がり、不穏な気配を捕まえようとした、その時。



 ギュァァァァアアアーーーッッ!!!


 パリィィィィイン!!



 空気を引き裂くような獣の声がして、次の瞬間、ゆりの部屋の窓が粉々に割れた。


 ゆりの部屋の窓を割り、提燈ランタンの灯りを反射する硝子の破片を踏みつけて。白金に輝く一匹の獣が突如としてゆりの部屋に飛び込んできた。



「ナオト!!」



 窓枠に後ろ脚をかけ、窓辺に置かれたゆりのベッドの上に降り立ったナオトは、ぎらりと輝く黄金の瞳でゆりを睨み付けた。

 赤銅色のたてがみ、毛並みの良い黒の斑。険しげに息をするその横腹には、深々と切り裂かれた傷があり、真っ赤な血が滴っている。


「ナオト、怪我……!」


 不死者アンデッドに付けられた痛々しい傷を見て、思わずゆりがふらふらと歩み寄ろうとした、その時。


  ―――シュカカカッッ!!!


 銀の輝きがゆりの頬を掠め、ナオト目掛けて襲い掛かる。

 獣が後ろ脚だけで横に跳んでそれをかわすと、三本の銀のナイフはそのまま窓の木枠に突き刺さった。


「エメ!? やめて!」


 ゆりが後ろを振り返ると、獣の咆哮を聞き付けたのだろう、銀のナイフの主・エメが音もなく現れ、ゆりの右腕を乱暴に掴んだ。


「バカなの? 手負いの獣に、理性はない。殺すか、昏倒させないと、こちらが、死ぬ」

「でも、ナオトが!!」


 グルルルルルルルァァァァッ!!!!


「ッッ!?」


 獣が咆哮をあげたその瞬間、巨大なうねりが意思を持ってエメに襲い掛かり、凄まじい風圧で白いローブごと廊下の壁に叩きつけた。衝撃で壁に亀裂が入り、銀のナイフが一本、音を立ててエメの立っていたはずの床に転がった。


「エメ!!」


 ゆりは驚きエメの名を呼んだが、駆け寄ることはできなかった。獣の纏う殺気に本能が恐怖し、身体を強張らせたからだ。

 エメからは何の反応も返ってこない。


 獣とエメの間に立つような形になったゆりは息を飲み込み、もう一度正面からナオトを見た。

 瞳に警戒の色を宿した獣は肩を震わせ、荒い息を繰り返している。



『俺は、自分が怖い』



 ゆりはあの夜、狼に変じたアラスターの言葉を思い出していた。



「ナオト、」



 ゆりがナオトの名前を呼ぶ。

 真っ直ぐ、正面から、確かめるように。



「ナオト、こっちにおいで」



 グルル……



「大丈夫。大丈夫だから」


 ゆりはその場に膝をつき、何もないよ、と示すために両腕を広げた。

 獣が一歩、前に出る。傷口から流れ出た鮮血がベッドに落ちて、染みを作る。

 ゆりはそれを見て、悲しそうに眉を寄せた。


「ナオト……痛いね。辛かったね……」


 ゆりからその言葉が発せられた刹那、突如獣は跳躍し、ゆりに飛び掛かった。


 獣の前脚がゆりの上体を掴んで押しかかり、ゆりはその重みを支えきれずに仰向けに打ち付けられた。ゆりの身体を床に押し付け、体重をかけた獣がゆりを見下ろす。ふー、ふー、と熱い息がかかり、苦しげに喉を鳴らした口からは鋭い牙が覗いた。



 それは、初めてナオトに出会った時と同じだった。



 ゆりがこの世界に落ちてきた時、鬱蒼と繁った森の中で。その時も獣はゆりを捉え、ぎらぎらと輝く瞳で見下ろしていた。

――妖しく獰猛な、捕食者の瞳で。


 その揺らめきにぶるりと身を震わせたゆりは、心の中でいいや、と頭を振った。



 あの時とは違う。

 今の私は、ナオトを知っている。

 この美しく恐ろしい獣は、尊大で、軽薄で、自分勝手で――寂しがりの勇者。



 ゆりは手を伸ばし、獣に触れた。


 押さえつけられた身体からなんとか右腕を伸ばし、指の先で口の端、頬の辺りを撫でると、『ゆり、』と自分の名を呼ぶナオトの声が聞こえた気がした。



 だが、次の瞬間。


 突然獣の右肩辺りに禍々しい紋様が浮かび上がり、赤黒く明滅した。獣はゆりから飛び退くと、もがきながら苦しげな咆哮をあげた。



 ギュォォオオオオオオオッッ!!!

『痛い』『苦しい、怖い』『ゆり』『熱い』『こないで』



 叫びとともに、ナオトの声がバラバラに砕かれた破片になってゆりに降り注いだ。右肩の紋様が脈動すると、それに呼応してまた獣が引き裂かれるような叫びを上げる。



 ――それは、不死の王アンデッドキングの接吻。



 その呪印の正体に思い至ったか否や。


 ゆりは跳ねるように起き上がると床に転がっていたエメの銀のナイフを拾い上げ、躊躇なく自分の左の手の平を切り裂いた。

 ゆりは熱く脈打つ左手を握ると、血を滴らせたまま獣に飛び付き、その血まみれの拳を獣の口に突っ込んだ。暴れる獣に右手で抱きつくと、反対の左腕を肘ごとぐりぐりと獣の口に押し付ける。


「ナオト! ナオト、ナオト!」



 “ゆりさんなら……使えるかもしれませんよ”

  “なんと甘美な魔力であろうか。これほどのものは我もついぞ会うたことがない”

 “清浄な魔力を注ぐことで不浄を洗い流すことができます”


 “ゆりの汗も、涙も、血も――――。ゆりの体液からは、魔力が溢れ出てる”



 それはほとんど思いつきだった。

 だがゆりの中には不思議な確信が――否、やらねばならぬという強固たる意思があった。



 暴れる獣になりふり構わず抱きつき、離すまいと右腕に力を込めた。獣はそれに抗い、差し出されたゆりの左腕に噛みついた。


 ずぶり。


 獣の牙がゆりの白い肌を突き破り、血が吹き出す。ゆりの左拳から、腕から滴る血が、獣の喉を伝い、その肉体を巡り始めた。



 グルルルル……!



 獣がそれまでの苦しげなものとは異なる声音で唸りを漏らす。

 すると、次第に呪印の赤黒い光が弱まってゆき、やがて――発光を止めた。

 床に血の跡を残していた横腹の傷が僅かに輝き、ほんの少し、小さくなったように見えた。



 ギャオオオアアア――――ッッ



 獣は天に向かって咆哮をひとつあげると、その全身が眩い光に包まれ――


 光は収縮し、割れて弾けた。




「ゆりさん!」



 朦朧とする感覚の奥で、テオドールの声が聞こえた。

 白いローブがゆりの全身を包み、抱き上げる。


「エメ……」


 名を呼ばれた白いローブのエメは紫の瞳を歪めた。


 光の弾けたその場所を見ると、白金の鎧を着た――あの夜別れた時のままの姿のナオトが、床に伏している。

 鎧の下の白い詰襟は血に染まり赤茶けているが、裂けた布地から覗くその傷は既に出血が止まり、赤く凝固していた。そして、自らが生きていることを主張するかのように、僅かに肩を上下させている。



 ああ、よかった――。



 ゆりは目的を達した満足感に包まれ微笑むと、そのまま意識を手離した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る