第66話 後始末
圭太が涼介の家に向かった頃、泊まるはずだった宿の食事処では山吹が一人で4人前の食事を堪能していた。温泉に入って暑いせいか、もともと包み切れていない胸のあたりをはだけているので、実に大胆な姿だった。宿の人に対し、急に具合が悪くなった子が居て、などと適当な話をでっちあげた後の話である。
「お姉さん。大生追加ね」
ドンと空になったグラスを脇に置くと、先付の品に箸を伸ばす。料理との相性的には日本酒の方が合いそうだが、ひとっ風呂浴びた後の喉を滑り降りていく爽快感がたまらない。
お替りが来たところでスマートフォンが鳴った。
「あ、石見。あんたどこにいるのよ? 早く戻ってこないと先に食べ始めてるわよ」
「……あんたねえ。お嬢様ほったらかしにして何やってんのよ?」
「だって、宿に戻って後始末しろって言ったの石見じゃない」
「そりゃそうだけど、いつまでそこにいる気よ? 後でどうなってもしらないわよ」
「どうせ、もうお終いなんだから、最後ぐらいは楽しませてもらわないとね。あんた、それでどこにいるのよ?」
「お嬢様が戻ってくるのを家で待ってるところ」
「ふーん。いざとなりゃ電話かかってくるだろうし、あんたも圭太さま連れてこっち来れば?」
「そんなことできるわけないじゃない」
「じゃあ、圭太さまだけでいいから」
「……。バッカじゃないの?」
「え~。だってさ。これからあの部屋で一人寝してもつまらないじゃない。もうお嬢様は諦めたみたいだし、私が寝ても問題ないと思わない?」
「1ミリたりとも思わないわよ。本当に殺されたいの?」
「ちぇ。せめて料理と温泉だけは楽しんで帰るわ。じゃあねえ」
「ちょっと。まちな……」
終話ボタンを押すと山吹はスマートフォンを放り出した。しつこく着信するのが煩わしくなったのか電源を落とす。
「まったく、石見も真面目だよねえ。一体何が楽しくて生きているんだか。あんな姿見られちゃったら、二人の仲もさすがにもう終わりじゃん。長期休暇も打ち切りになりそうだし、最後ぐらい羽目を外せばいいのに」
ぶつくさと独り言をいいながら、ジョッキに手を伸ばして一気にあおる。
「お姉さん。秋誉をぬる燗で2合ね」
***
石見はやきもきしながら待っていたが、結局宇嘉が帰ってきたのは夜遅くになってからだった。電話をしても出ないし、それまでは隣の圭太の家では何やら激しく暴れている影法師が見えるのをぼーっと眺めるぐらいしかすることが無かった。もう一度、圭太が訪ねて来るかと思ったがそれもない。
玄関に宇嘉の気配を感じて出てみたらひどい有様で立っていた。どこを駆け回ったのか手足に引っかき傷ができ、浴衣もあちこちが裂けている。なにより宇嘉の表情がまるで幽鬼のようだった。どんよりと曇った目は焦点があっておらず、頬には涙の跡が残っている。
「うう。あああ」
石見は宇嘉を抱きしめる。ぎゅっと腕に力をこめると宇嘉が体重を預けて静かに泣き始めた。好きなだけ泣かせてやりながら背中をさすってやるとすすり泣きの声が小さくなっていく。
「お嬢様……」
石見はいたたまれなくなる。普段はあれだけ颯爽としている宇嘉がこのような姿をさらすとは思いもよらなかった。ただただ宇嘉が落ち着くのを待つことしかできないのが歯がゆい。
「ねえ。石見」
「はい。なんでしょう?」
「もう諦めました。後始末をお願いできるかしら」
「お嬢様。よろしいのですか?」
「だって、仕方ないじゃない。あんな姿をさらしちゃったんだもの。せっかく人の姿をして圭太に近づいたのに、全部むだになっちゃった……」
「圭太さまは何も言われてないですし、まだチャンスは」
「ないわよ」
宇嘉は石見の腕を振りほどく。
「そういえば、圭太はちゃんと回復した?」
「はい。夕刻にここへ一度来て門を叩いておりましたが、勝手なこともできずお入れしませんでした」
宇嘉は寂しそうに笑う。
「それでいいわ。あなたも質問されても答えられないものね。私が何者なのかと聞かれても……。実は人じゃなかったなんて」
「申し訳ありません」
もし留守宅にいたのが山吹だったら、また別の展開があったかもしれない。宇嘉が戻ってくるまで圭太を軟禁するぐらいのことはしたはずだ。
「山吹はまだ戻ってないのね」
「はあ。宿の後始末をしているようです」
宇嘉は自分の着ている浴衣をみてほろ苦い笑みを浮かべる。
「宿の浴衣を勝手に持ってきてしまいました」
「それは山吹が適当に処理するはずですのでご心配なく」
「そうね」
「石見。あなたには貧乏くじを引かせてしまったわね」
「いえ。そんな」
「どうせ山吹は最後の思い出作りに励んでいるのでしょう?」
「さあ。どうでしょうか」
石見の言葉は歯切れが悪い。
「まあ、いいわ。まさかこんな形で終わりになるとは思っていなかったけれど、もう休暇はおしまい。いい夢が見れたわ」
石見は居住まいを正す。
「お嬢様。そんなに簡単に諦めてよろしいのですか?」
「しょうがないわよ。もう圭太と契を交わすこともないし、人として添い遂げることもないわ」
「私が圭太さまを押さえておきます。その間に……」
「もう私の正体が知られてるから無理よ。心が通わなければ意味がないわ」
宇嘉はすっくと立つと奥へ向かう。
「着替えてまいります。その間にここを引き払う準備をしておいてください」
口を開きかけた石見は宇嘉の目を見て動きを止める。これ以上は何を言っても無駄だと悟った。
「お決めになったのであれば、もう意見はいたしません。ただ、あと4か月の間はどうされますか?」
「どうせ年始はまたボランティアに駆り出されるのです。京都に適当な住まいを設けてください。3人が暮らせる広さがあればいいわ」
肩を落として歩み去る宇嘉の背中を見ていた石見だったが、ふうっと息を吐くとこれからの段取りを考え始める。山吹が居ないので2人分働かなくてはならなかったが、今回は新居を構えるのではなく撤去なのでなんとかなりそうだった。いざとなれば申し訳ないがお嬢様にも手伝ってもらえばいい。
失恋の痛みを癒すには忙しくさせるのも一つの手だ。どうせもう失うものは無いのだから、最後にもう1回だけ圭太さまをかき口説けばいいのに。石見はそう思う。歯がゆさを感じながら、屋敷の奥の方へと向かって行くのだった。
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