51.ココアパウダーはひとりで

 小山真紀は渋谷区千駄ヶ谷四丁目の十階建てマンションを見上げた。マンションの北方向には首都高速と都道414号線が走り、他には明治通りと山手線の線路もすぐ近くにある交通量の多い地帯だ。


「今さら驚かないけど相変わらず一輝の情報網は凄いわ。普通、警察でもないのに名前と勤務先だけで住所まで割り出せる?」

『ふふん。そこはエスパー矢野くんだからね』


真紀の隣で矢野一輝は得意気に人差し指を左右に振った。


『赤木の部屋は804』

「804ね」


オートロックの呼び出しボタンで804号室の部屋番号を押したが、しばらく待っても応答はなかった。


『日曜の午後3時だからなぁ。どっか出掛けてるのかもな。どうする?』

「令状もないから踏み込めないし……。留守なら夜にまた出直すか、明日職場に行ってみるか……」


 真紀は不在の予感が漂う804号室のメールボックスを見た。十階まで全室の部屋番号が並ぶメールボックスは銀色の冷たい光を放っていて、その無機質な集合体をずっと見ていると不気味な生き物にも見えてくる。


早河と矢野が接触した記者の西崎沙耶の証言で姿を現した10年前の共犯者。矢野が掴んだ情報によれば共犯者と目されている赤木奏はこのマンションの804号室に所在している。

赤木が10年前に佐久間芽依と共謀して佐久間夫妻を殺害した犯人ならば、決定的な物証が出れば赤木を逮捕できる。


『……真紀。こっちに人が来る』


 矢野がオートロックの硝子扉で仕切られた向こう側を指差した。大きなゴミ袋を抱えた初老の男がオートロックの扉を通って歩いてくる。


男はぶつぶつと独り言を言いながら804号室のメールボックスを開けていた。

804号室は赤木奏の部屋のはずだが、赤木の年齢は三十代と聞いている。この男が赤木本人ではないのは一目瞭然だった。


「失礼ですが赤木さんのお知り合いですか?」

『違いますよ。ここの管理人です』


管理人と名乗った男は804のメールボックスからダイレクトメールや広告を出してゴミ袋に雑に押し込んだ。そして持っていたガムテープで804のメールボックスの投入口を塞いでしまった。


「管理人さんでしたか。804号室は赤木奏さんのご自宅ですよね?」


 彼女は警察手帳を掲げた。警察手帳を目にした管理人は目を丸くして、それまでの乱雑な態度を改めて縮こまる。


『えっと……そうです。赤木さんの部屋です。でもあの人引っ越すんですよ』

「引っ越す? いつ?」

『いつと聞かれても……私も昨日聞いたばかりで本当に突然だったんですよ。急に引っ越すことになって家具や荷物は持っていかないから、うちの方で処分をお願いしますって。来月分の家賃や家具の処分費用も口座に振り込んであるから敷金礼金と合わせてそれで処理してくれと頼まれましてね。鍵も昨日返却してきましたよ。ここに戻る気はないみたいですね』


真紀と矢野は顔を見合わせた。真紀達が赤木に辿り着いた矢先の部屋の退去……タイミングが良すぎる。


「赤木さんの部屋はもう片付けられました?」

『いいや……家具は業者に引き取ってもらいますが、他の荷物の片付けはまだです。日常のゴミの処分は昨日のうちにやってあると赤木さんが言っていたのでとりあえず目についたゴミをゴミ袋に入れただけです』


 管理人は大きなゴミ袋を二つ抱えていた。このまま部屋を片付けられては、手に入れられる物証も捨てられてしまう。


「赤木さんのお部屋を見せていただきたいのですが。捜査への協力をお願い致します」

『はぁ……いいですよ。しかし刑事さんも大変だねぇ。お腹にお子さんがいるのに。最近冷えるから身体大切にしてくださいな、うちもねぇ、来月に孫が産まれるんですよ』


妊婦姿で刑事の肩書きを背負う真紀はある種の異様な視線で見られる。それほどに刑事と妊婦はひとつの線で結び付かないのかもしれない。


初孫の誕生を心待ちにする管理人の世間話に少しだけ付き合った後に真紀と矢野はオートロックの向こう側、住居フロアに足を踏み入れた。


『俺達の動きに勘づいて逃げたか?』

「でもどこで? 勘づかれるほどこっちは派手に動いてないよ。私達は清宮芽依との接触もまだなのに……」

『派手に動いてたのは西崎沙耶だけど、赤木が西崎沙耶に10年前のことを突っ込まれただけで逃げるとは思えない。西崎沙耶は事件そのものよりも事件後の芽依の動向を追っていただけだからな』

「赤木に警察の動きを察知するコネでもあるのかしら」


 エレベーターを八階で降りて、804号室に到着した。管理人に借りた鍵で扉を開けて二人は赤木奏の部屋に入った。

家宅捜索の令状はなく正式な捜査にはならないが、真紀が欲しいのは10年前の犯行現場に残された遺留物であるAB型の毛髪と同等の物的証拠。


「管理人さんが片付けた後だと物がないわね」


 ワンルームの部屋にはベッドとローテーブル、本棚とテレビや冷蔵庫の家電しかない。本棚に入っていたと思われる本は積まれて紐で縛られている。クローゼットの中の洋服もわずかだった。

日常のゴミは赤木本人が片付けたと言った管理人の証言通り、部屋のゴミ箱にゴミはない。


 真紀は浴室に入った。風呂とトイレが一緒になっているユニットバスタイプだ。

妊娠中の膨らんだお腹で下を向いてしゃがむ姿勢はなかなかにキツい。彼女は浴室の入り口から矢野を呼んで、排水溝の蓋を開けさせた。

排水溝のヘアキャッチャー部分に黒色の毛髪が絡まっている。


『ラッキー。排水溝に髪の毛残ってた』

「他の場所は念入りに掃除しても水回りは盲点なのよ。風呂場の髪の毛を処分する余裕もないくらい慌てていたのかもね」


真紀がピンセットを使って排水溝から毛髪を抜き取り、採取した毛髪はビニール袋に保管された。


「この髪をDNA鑑定して10年前の遺留物の毛髪とDNAが一致すれば赤木の逮捕状を請求できる」

『動かぬ証拠だな。問題は赤木の行方か。でもこれだけ部屋に何もないと行き先の手掛かりになる物は見つからなさそうだな……』


 浴室の隣はキッチンになっている。矢野がふと目を留めた食器棚の上には真新しいココアパウダーの袋がひとりぼっちで佇んでいた。

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