33.青と赤の中間
定時上がりでデザイン事務所を出た赤木奏は三軒茶屋駅に向かう途中で人だかりに出くわした。
道の反対側の横断歩道の手前で数人が身を屈めて集まっている。大丈夫? 歩ける? と声が聞こえた。
面倒事には巻き込まれたくない。仮に急病人がいたとしてもあれだけ人が集まっているなら自分に面倒が降り掛かる心配はない。
彼は青信号になった横断歩道を進む。あちらに近付くにつれて、人だかりの様子も鮮明になった。どうやら急病人は若い女だ。
胸を押さえてしゃがみこむ女の子の横に二人の中年女性と制服姿の警察官がいた。
白と黒のボーダーの道を渡った赤木が間もなく歩道に到着する頃に女の子が顔を上げる。
横断歩道の信号機がチカチカと点滅を繰り返す。青から赤に変わる間の点滅は彼の迷いの時間。
進めの青と止まれの赤の中間はなぁに?
*
「救急車呼ぶ?」
中年女性が芽依の肩に優しく触れた。
芽依は無言で首を横に振り続ける。救急車なんて呼ばれたら清宮の親に連絡が行ってしまう。それだけは避けたかった。
目眩を起こして横断歩道の手前でうずくまる芽依の周りにはいつの間にか沢山の人が集まっていた。誰が呼んだか知らないが警官まで来ている。
ほうっておいて欲しかった。お願いだから構わないで、見て見ぬフリをして欲しい。
優しい人はたまに鬱陶しい。優しくしてくれない方が楽な時もある。
人の善意が今の芽依には
『交番まで歩けるかな?』
警官が芽依を立ち上がらせようと彼女の腕を掴むが、芽依は足に力が入らない。これはいよいよ救急車を呼ぼう……そんな呟きが聞こえてきても芽依は必死で首を横に振り続けた。
また何度目かの青信号になって向こう側の歩道から人がどんどん流れてくる。
『芽依……!』
雑踏の中で、あの人の声が聞こえた気がした。幻聴? 幻影? 幻覚?
目の前に現れた赤木奏の腕の中に芽依の身体はすっぽり収まった。
『こんなところで何やってるんだ!』
赤木に抱き締められて胸の奥がぎゅっと切なくなる。彼の腕の中は昔と変わらない、芽依が穏やかな安らぎを感じられる居場所だ。
あれだけ苦しかった呼吸も次第に楽になってくる。
『この子の知り合いですか?』
赤木の出現に戸惑う警官に問われて彼は頷いた。
『兄です。妹は喘息持ちで……ご迷惑おかけしました』
赤木の咄嗟の嘘に騙された警官や周りの人間がその場を散り散りに立ち去る。最後まで芽依の様子を心配していた二人の中年女性も「お大事にね」と言葉を残して横断歩道を渡って行った。
『立てるか?』
赤木が芽依の身体を支えて立ち上がらせる。芽依は赤木の胸元に顔を伏せた。
息苦しさと赤木に会えた嬉しさが相まって芽依の目には涙が滲んでいる。
「知らないフリしろって言ったのは赤木さんなのに……自分から約束破って」
『……そうだな』
自分で言ったことも自分で守れないのかと、彼は自嘲して笑った。
『何があった?』
「わからない。でも急に赤い夢が……」
『赤い夢?』
「何度も見る怖い夢。赤い水溜まりにふたつの人形が沈んでるの。それが……死んだ両親の顔で……私は両親が死ぬ瞬間を見ているの」
『芽依』
赤木の手が芽依の頬に触れる。甲に火傷の痕が残る手で優しく優しく、彼は芽依の頬を撫でた。
『それ以上思い出すな。お前にとって必要ない記憶だ』
「必要ない? 私は何を忘れてるの? 赤木さんは私が忘れている何かを知っているの?」
赤木は答えない。芽依の頬を撫でていた大きな手で赤木は彼女の手を握った。
『とにかく今はここから離れよう。行くぞ』
「でもどこに……?」
手を繋いで二人は三軒茶屋駅前に出る。駅前で拾ったタクシーに乗り込んで、芽依と赤木は三軒茶屋の街に別れを告げた。
座席に座る芽依を赤木が抱き寄せる。彼の身体に寄り添って芽依は目を閉じた。
聞こえる物音は車の走行音と赤木の息遣いのみ。
これからどこに向かうのか彼は何も言わなかった。タクシーの運転手にはスマートフォンで行き先の位置情報を見せていたようだが、それがどこなのか芽依にはわからない。
日が暮れて闇の時間がやって来る。バイトもなく、本来ならとっくに帰宅しているはずの芽依のことを清宮の両親は心配しているだろう。
あの時は呼吸が止まりそうに苦しくて携帯電話を見る余裕もなかった。帰りが遅くなるなら母に連絡しなければと、わずかに働いた思考も赤木のぬくもりに触れる喜びには負けてしまう。
このままずっと一緒にいたい。
10年前の楽しかったあの1週間のように。ずっと、一緒に。
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