ライセンス! ~裏世界で生きる少年は、今日も許可証をもって生きていく~

ともはっと

第一部:その許可証の名は

――許可証所持者『シグマ』――


「はあはあ……はあはあ……」


 一人の男が走っている。


 立派に肥えたその男の姿は、『悪どい』ことをして裏で私腹を肥やす小金持ちの典型的な姿だった。

 決して綺麗な太り方をしているわけではなく、ただ毎日を怠惰に過ごした結果がそのまま脂肪となってついたであろう姿。

 肥えた男の汗の量は酷く。服は全面汗で色が変色しており、男がこれまで死に物狂いでかなりの距離を走ってきたことを物語っていた。


 疾走を終えれば、間違いなく何キロかは痩せているだろう。

 この運動で痩せてから同じように活動をこれからも行えば健康的に過ごせることができるかもしれない。

 ただ、それは逃げるという行動を行っている原因から、逃げ切ることができれば、の話ではある。


 必死に逃げるその男の後ろには、黒い中国服を着た細身の男が、ゆっくりと一定の距離を保って追いかけてきている。

 その表情は長いつば付き帽子で隠れて、みることはできない。


 男の背後には、遠くからでもはっきりとわかるほど赤い紅蓮の炎に身を焼かれた屋敷があった。

 肥えた男の夢と欲望が詰まった屋敷だ。


 汗まみれの男は汗なのか涎なのかもわからない液を飛び散らしながら、全てを投げ捨てて逃げる。


 生き残るために。








「はあはあ……」


 どれだけ走っただろうか。体はすでに限界に達していた。いくら酸素を吸っても意識は朦朧とし、どこを走っているのかさえ分からなくなる程走り続けていた。


 まだ追ってきているであろう男を確認する為、恐怖に歪んだ顔で背後を見る。


「はあはあ――はあ……?」


 いつの間にか、黒服の男はいなくなっていた。


 諦めてくれたのだろうか。

 いや、自分を狙うが、そう簡単に諦めるだろうか。


 だが体はすでに限界だった。

 男はゆっくりとスピードを緩め、やがて止まる。


 肩で息をし、地面に座って咳き込む。咳き込みすぎて気持ち悪くなったのか、スーツが汚れることも全く気にせず、胡座をかいたまま自分の足に向かって嘔吐した。


 ほんの少しの落ち着きと、辺りの静寂に、男は逃げ切ったと感じて安堵した。


 真夜中の逃避行。


 自分の屋敷から遠く離れているとはいえ、自分の屋敷の周りは森林地帯だ。

 こんな森林地帯に拠を構えなければ、もう少し逃げる方法もあったかもしれない。自分が次に狙われるようなことがあればもうこんな場所に拠点を構えることはないだろう。

 そう思うと、逃げ切れた安心からか、目から涙が零れ、笑いが止まらなくなった。


「なんや。笑い出したで。もう鬼ごっこは終わりかいな」


 急に男の声がして、男は青ざめる。

 辺りを見渡すが、大きな大木だけが周りに見え、声の主はどこにもいない。


「よく逃げきれたと思うけど?」


 追い打ちのように女性のような声が聞こえた。

 誰かがいる。

 追いかけてきていた男とは違う声と、その人数に、男はまだ自身の危機が去っていないことを感じ、戦慄した。



 二人目の声に、男はその声の場所を特定した。

 頭上からその二人の声が聞こえていたのだ。


 見上げると、大木の太い枝の上に二人の男がいた。


 二人とも、どこから見てもどこにでもいそうな男達である。


 そのどこにでもいる男達が、いい歳の大人の男を追いかけ回していたのだ。

 正確に言えば、彼等がいい歳の男を追いかけ回していたわけではなく、彼等は彼の通る道を予想して、ここで待ち構えていたわけだが。そんなことは男は知る由もない。


「き、貴様等ぁ……こんなことをして、ただで済むと思っているのかっ!」


 男は、その成人まもないほどの姿を見て安心したのか、急に強く出る。

 この二人は、先ほど自分の屋敷を襲った中国風の服を着た殺し屋とは違う。

 ならば、まだあの殺し屋が追い付く前であればまだ逃げることはできるだろうと考え、男は整い切らない呼吸で、あらん限りに啖呵を切った。


 そんな男の行動に、方言混じりの男がため息をつく。

 黒い学生服を着て髪も整えていないそばかすの男。人を馬鹿にしたようなそのため息は、裏社会で何十年も生きてきた男の神経を逆撫でるには十分だった。


「な、き、貴様等ぁ……」

「……あのなぁ。何でお前等はおないなこというねん」

「そうだね。彼みたいな人は、僕等を見ると決まって同じことを言うね」

「お前等ぁぁぁぁぁーーーーーっ!」


 笑顔を絶やさないそばかすの男からの自分を愚弄する追撃の言葉に、思わず大声を出していた。


「なんや。急に大声出したで」

「まあ、逃げ切れるわけでもないですから、そのまま言わせておきましょう」

「そうやな。あいつも来たことやし……」


 会話に耳を傾けていた男は、それを理解し、自分が今逃げていたことを忘れてしまっていたことに気づいた。


「は……は、あああ……」


 瞳に、恐怖が宿る。

 後ろには、男を追いかけていた黒い中国服の男がいた。


「大丈夫ですか?」


 男の隣には女性が追加されていた。彼女を心配して彼女を待ったおかげで、彼は男の追跡を一時、中断したのだ。


「大丈夫だよ」


 彼女から声が返ってくる。それを聞き、彼は被っていた帽子を深く被り直す。


「……さてと。『ガンマ』。『フレックルズ』。『戦乙女ヴァルキリー』。……久しぶりの僕の仕事に協力してくれてありがとうございます。……僕が決め、もらっていいですか?」

「いいでぇ、『シグマ』」

「いいですよ。『シグマ』」

「いいよ~『シグマ』。元々あなたの受けた仕事だし~」


 自分より遥かに若い男女に囲まれていた。だが、囲まれたことよりも、男は彼らの話の中に現れた名前に絶望した。

 先程自身の屋敷を焼き尽くした中国服の男のコードネームは、『裏世界』に関わる者であれば、誰もが知る物だ。


「ひ……は……『シグマ』、だと?」


 裏国家最高機密組織『高天原たかまがはら

 その組織が出した、裏世界で生きる者が誰もが恐れる証明書。


 それを所持する者の中でも、今もっとも勢いのある存在。


「では。……こほん」


 わざとらしく咳払いをして、中国服の男は帽子をさらに深く被る。


 まさか、私は……こんな大物に狙われていたのか、ならば、逃げ切れるわけがない。


 裏世界、表世界で人を殺す許可を得られる証明書。

 そしてそれを持つ彼らの存在。


 その名前が、男の脳裏を木霊するかのように埋め尽くす。


「……あなたは、法を犯しました。……よって、あなたを……滅します」



 その許可証の名前は――




 ――殺人許可証ライセンス




 宣告が辺りに木霊し、血飛沫が舞った。

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