第16話 日本国内地、東京都新宿区居酒屋『二鳥』

「寒い」

「そんな寒い?」

「日本は寒い」

 そう言って掌をこすり合わせた男は、三か月ほど船に乗っていただけあって肌が日に焼けていた。おまけに戦場や現地での肉体労働も手伝って、服の上からでも判るほどに筋肉がついているのだから、巨体も手伝って威圧感があった。久しぶりに会って待ち合わせをするには便利だが、室内仕事続きでろくろく運動をしていない勇凪としては、あまり横を歩きたい人物ではない。新宿駅を出て呑み屋街に行き、手近な店に入る。和風の居酒屋だった。比較的早い時間帯だったためか、空いている。座敷に通される。


 正月にレイラニに同居の申し出をしてから、翌年の正月の、さらにその三ヶ月後の四月。「そんなに寒いか?」

 などと言った勇凪ではあったが、もちろんまだ冬の香が残っているので寒さがないわけではない。東京は東北よりも暖かくはあったが、寒気の流入でコートを着るに足る程度には寒さを感じていた。お絞りが温かい。

「で、どうよ。新入社員になった気分はよ」

 麦酒が届き、ひとつ乾杯してから、勇凪の元同級生——井口いぐちはそんなふうに切り出した。

 元同級生であるからには井口は勇凪と同年に大学に入学していたが、新入社員はどうか、などと聞くからには、勇凪よりも就職は三年早い。つまり修士課程修了とともに就職したのだ。彼は帰国子女であり、ハイスクール途中までをイギリスで過ごしたあとに日本で改めて高校に入り直したという変わった経歴で、浪人や留年をしたわけではないのだが、同学年ながら勇凪よりひとつ年上だ。とはいえ同級生は同級生であり、特に年齢の差に関して敬意を払ったことは無い。


「たいしてやっていることが大学のときと変わらん」と勇凪は正直に言った。

「そうだろうな。見た目があんまり変わっていない」

 大学四年、大学院修士課程二年、大学院博士課程三年。浪人や留年をしていないにも関わらず、計九年もの大学と大学院生活を経て、ようやく勇凪が就職したのは東京、立川の研究所だった。気水研究所という名前で、気水というのは大気や海洋のことを指す。名前通りに大気海洋に関する研究をしている独立行政法人の機関である。

 研究機関というと白衣で眼鏡の男たちが研究をしていそうなものだが、しかし実態たるや、恰好は良くてスーツだが、悪いとTシャツにジーパン、サンダルで、つまりは大学と変わらない。山や海で観測や実地活動を行う場合は安全靴やライフジャケット、ヘッドライト付きのヘルメットなどを身につけることになるので、おそらく一般の人間はそのような姿を見ても研究者だとは思わないだろう。


 まぁつまり、大学と同じだ。そこに入所した勇凪の肩書きは特任研究員ということになっているが、つまるところPDポストドクターとして就く役職だ。PDというのは名前の通り、博士課程ドクターコース修了後の学生が次に就くことが多いポストで、実際、よほど能力があるか運に恵まれているかでもっと上のポストにありつくのでなければ、大部分の人間はPDになる。大部分は、だ。残りは研究者として生きるのを諦めて一般的な職に就くか、でなければ仕事がないままにオーバードクターといって、研究者ではないが学生でもない曖昧な立場で残り続ける。勇凪はいちおう、なんとか、ぎりぎりのところで研究職の仕事にありつけた。

「研究機関って、就活とかどうだったんだよ?」と井口が尋ねてきた。「ペーパーテストとかはないんだろ? 研究発表一本やるようなかんじか?」

「いや、特にテストはなかったなぁ。もともと一緒に研究していた人から紹介してもらった職だし、たぶんまぁ、それで問題なしってことだったんじゃないか?」


 勇凪も修士課程の頃に一般企業への就職活動を行っていたため、ペーパーテストや面接といった一般的な就職活動に関する知識はあり、それに対して今回の就職までの道程がだいぶん異なるということは理解している。そもそも気水研究所に就職することになったのは、博士課程になってから教授を通して行っていた研究で、研究機関が持っているデータの提供や観測装置に関して協力してもらったことがあり、その過程で観測活動にも関わったりもしていた。特任研究員の話を持ってきてくれたのはそのときの観測活動に関係する筆頭的な研究者であり、現在あまり活発ではない新島の研究を行っている学生ということで、いろいろと世話を焼いてもらった。今回の就職も、その世話焼きのひとつだ。研究機関に研究者として就職する道程として、自分のそれが一般的などうかは知らない。そもそも研究者という職業が一般的なものでもないような気がする。


「まぁ、ドクターまで行くと就職がないって言われているからな、良かったじゃん。気水研っていったら、独法だし、大手だろ。たぶん」

 研究機関というのは多かれ少なかれ国からの研究資金を得て研究活動を行うため、大手も何もないような気がするが、確かに一般には名は知られていないにしても、小さな研究所ではない。井口の言葉は素直に嬉しかった。

「おまえは?」と勇凪は逆に問いかけた。「いままで何処にいたんだっけ? マレーシア?」

「いや、インドだわ。昨日戻ってきたんだよな。羽田から直でここに来てやったぜ。実家も帰ってない」


 井口の仕事はエネルギー関係で、主に天然ガスの採掘に関して、現場でのインフラ構築から企画、交渉、現場作業などさまざまな仕事を諸外国に赴いて行っている、らしい。基本的なサイクルが三か月で、二か月働き、一ヶ月休む、という変わった生活を送っている。

「まぁ、それも変わりそうだけどな」

 と呑み屋に入って小一時間。互いの近況を話し、井口の仕事や、勇凪と同じく未だ大学に在学している学生たちの話が一息着いたあとで井口は現況の変化について語った。

「東京本社に異動になったんだよ」

「飛ばされた?」

「むしろ栄転だろ。いや、まぁ、べつにそういうアレというよりは、単に枠が空いたんで滑り込んだだけなんだが。あと……結婚する」

「え、なに、現地妻?」

「違ぇよ」

「あ、ホモか」

「なんでだよ」

「だって現地の同僚は全員男だって言ってたじゃん」

「休みの間に鈍らないようにジム行ってたときに出会ったんだよ」

「まさかそんな典型的な出会いから結婚に漕ぎ着けるとは思わなかった」

 と大袈裟に驚愕してみせたものの、勇凪は言葉ほど驚いたわけではなかった。というのも、勇凪たちはもう二十八歳——二十代も後半だ。結婚どころか、子どものひとりやふたりはいてもおかしくはない年齢だ。実際、ほかにも友人や後輩で結婚している者はいる。


「結婚式はいつ?」

 と尋ねると井口は渋い顔になった。「さぁなぁ……向こうはいろいろ言ってるけど、おれは御免だよ」

「そういうこと言うと離婚の原因になるんじゃない?」

「そりゃ解ってるけど、外へ出なくなるから手当ても減るし、経済的に厳しいんだよなぁ。いままで三か月に一回しか日本に帰ってこなかったから、実家暮らしだったけど……家もどうにかしないといけないし。家探すのも辛いんだよなぁ……東京で出勤しないといけないからな……辛すぎるわ」

「ついに出勤ラッシュのサラリーマンに仲間入りするのか」

「おまえもそうだろ。ああ、でも研究所は立川だっけ? だったらわりと家の場所は選べるからマシだな。家はどのへんになったんだっけ?」

「立川市内だよ。モノレールと徒歩で二十分くらいかな」

「かーっ、良いねぇ」

 おれは一時間以上かかることになりそうだ、都内で交通の便が良いところは高いんだよな、などと渋い顔で言う井口を見て、勇凪は乾いた笑いを立てた。彼には、勇凪が何を考えているかはわかっていなかっただろう。しかし何か言いたくないことがあるというのは伝わったかもしれない。井口とは同級生で……友人だ。そう深い仲ではない、が、同じ期間に在学し、隣の研究室に所属し、同じような苦しみを味わい、愚痴を言い合い、修論が終わらず、深夜に息抜きにボードゲームを始めてしまったら朝になっていた程度には友人だ。だから、言いたくない、ということは伝わったし、受け入れてくれた。たぶん、アパートで何か事故でも起こしたと思ったのだろう。それは正確ではないが、ともあれ追求してこなかったのはありがたかった。


 久しぶりに会ったとはいえ、ふたりだけでは話す話題も有限であり、時間もそう使わないだろうと思っていたが、いつの間にかもう一軒、もう一軒と酒を飲みに行ってしまった。三軒目の居酒屋を出たあと、新宿駅で井口とは別れる。時刻はまだ午後十一時過ぎ。まだ終点ではないが、立川までは通勤快速でも三十分程度はかかるため、その間に最終電車が流れてしまう。乗り過ごして八王子で降りたあと折り返しの電車がなく、泣く泣くタクシーに乗って帰ったらことがあったため、アルコールの入った頭で寝ないようにと、勇凪は立ったままで車内を過ごした。

 立川駅からモノレールで十分ほど。一ヶ月で乗り慣れた駅で降りる。深夜となれば、五月の東京でも十分に涼しい。インドネシアから帰ってきたばかりの井口であればそれを強く感じるだろうし、ましてや日頃、太平洋の只中の島で暮らしているとなれば、尚更だろう。


 八階建てのアパートの一室にはまだ明かりが煌々と灯っていたが、勇凪は玄関の扉を開けたあと、音を立てぬようにそっと家の中に入った。予想通り、人の動く気配はなかった。明かりが点いたままの新居の居間を確認してから、勇凪はシャツの背中の部分を指で引っ張った。酒を飲んで体温が上がったうえ、電車内で立ったままだったためか、汗ばんでいる。音を立てるのは不味いか、と思いつつも、どうせ最終的には起こすのだから、とシャワーを浴びた。

 風呂場を出て新居の居間へと行ってみると、それまで机に突っ伏して寝ていたレイラニが真っ直ぐに前を向いたままで、椅子に座っていた。テーブルに向かっているので、勇凪には背を向けている。そのままで動かないのだから、勇凪の足音を察知してこのような姿勢に出ているのであろう、と勇凪は想像した。無言の主張だ。


「遅いよ」

 いまや主張は言葉になされた。

「うん。井口と飲んで来たから――」

「遅くなるなら、遅くなるって、ご飯いらないって連絡してくれれば良かったのに」

 出かけるまえに言った、などとは言わない。どうせ言った、言わない、の水掛け論になることがわかりきっているからだ。いちいち言い訳じみたことを言ったとしても、それが功を奏さないのは経験的に理解している。

 レイラニは天使ではない。当たり前だ、と勇凪は思った。当たり前だが、子どもの頃は天使だと感じていた。何せ彼女は空から降ってきた。呼吸が止まっていて、勇凪のせいで障害が残った。頭が悪かった。いつも勇凪のあとをついてきていた。馬鹿だった。実際は彼女は人間だった。勇凪より賢くて、人付き合いが良い人間だ。勇凪より早く定職に就いて、きちんと稼いでいる。母を看取り、その後始末をした。勇凪とは違う。それを最近は強く感じるようになっていた。

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