第14話 日本国特区ガンジス諸島、実家


 勇凪は布団の傍に置いていた鞄に手を伸ばした。簡素な肩掛け鞄に入っているのは、論文の原稿だ。

「こら」

 いつの間にかすぐ傍に忍び寄っていたレイラニが、論文原稿を掠め取った。

「体調悪いんだから、お仕事は駄目。これは預かっておきますからね……これ、なに? 英語? 論文?」

 正確には一度提出し、要リバイズで戻ってきた原稿の上に査読者レビュワーによる指摘を加えたものだ。


「りばいずってなんですか?」

 リバイズとは論文の投稿結果を受けての添削修正のことだ。

 学生や研究者というものは論文を書くわけだが、書いて終わりということは勿論無い。修士論文や博士論文などを除けば、書いた論文は論文雑誌に投稿する。投稿した論文は編集者エディターの手を通し、たいていは二人から三人の査読者に振り分けられる。査読される論文が戻ってくるまでの期間は、論文の長さや雑誌にもよるが、短くて一か月程度、長ければ数か月かかる。


 結果はおおむね三種類に分けられ、受理アクセプト要修正リヴィジョン拒否リジェクトだ。

 受理されれば、あとは十万から数十万円単位の論文投稿費を払うと論文に掲載される。当たり前だが、自分のポケットマネーからそれだけの金を出せない。普通は研究費から捻出する。研究だけではなく、論文投稿にも金がかかる、が、そこまで文句は言わないでおく。

 良い論文でも基本的に一発で受理されることはなかなかなく、多くは要修正ということで一度戻ってくる。つまり、問題点や修正点はいくつかあるが、それを修正すれば載せますよ、ということだ。

 拒否になると、大幅な訂正をして再投稿するか、他の雑誌に出すかしかない。


「ほむん」

 レイラニは、曖昧な表情で頷く。わかってくれたのかどうかがわからない。

「えっと……この論文は、ちょちょっと直せばオッケーってことだよね。良かった良かった」

 ちょちょっと直せば、ではないが、その通りだ。要修正で済んで助かった、ともいえる。「じゃあこの論文も、どこかの雑誌にそのうち出るんだね……雑誌って、漫画が載ってたり、おしゃれな服装が紹介されているわけじゃないんだよね?」

 レイラニは布団の近くに座布団を持ってきて座り、ぱらぱらと論文を捲る。

「長いね、これ……なんページくらい?」

「十二、三だと思う」

「えっ……もっとない? 三十以上あるよ」

「投稿するときは読みやすい形式にしてあるから、それを実際の論文にするときは、もっと字を細かくして段組も変わる」


「全部さなちゃんひとりで書いたの?」

「まぁ、そう」

「ほわぁ……これだけの量をよく英語で書いたねぇ」

 すごいねぇ、とレイラニが言うのは厭味でもなんでもなく、心の底からそう思って言っているのだろう。

「さなちゃんのこの論文は、どういう論文なんですか」

「タイトル書いてある」

「英語、読めないもん」

「ガンジス周辺の海面水温と雲について」


 論文は基本的に四つの大きな囲いで構成される。はじめに イントロダクション手法解説データ・アナリシス結果リザルト結論コンクルーションだ。

 まずはじめにイントロダクションがある。ここでは「なぜこの研究を行ったのか」「この研究を通して何がしたいのか」「この研究はどのようなことにどんな貢献ができるのか」ということを、これまでの同分野の引用を交えながら書いていく部分だ。引用というのは、他者あるいは自分の研究の内容を引き合いに出すことで、これがあるおかげでいちいち基礎的な内容を書かずに済むし、現在までの研究でわかっていない部分がどういうことなのかを簡単に書き下すことができる。そういうわけで、引用というのはつまり「おれはここまでちゃんと知識があるのだぞ、これまでこういった研究がこのように行われていることを知っていて、だからこうしてこれから必要なことを研究しているのだぞ」ということを示すことでもある。日本語ならまさしく「はじめに」の部分だ。

 次にデータや解析手法の説明だ。どのようなデータを使ったのか、それはどんな手法・観測装置で捉えられ、いつからいつまで、どこで得たものなのか、などを書いていく。また、それらを解析する際に使う計算式やその長所と短所を述べたり、プログラムの解説などをしていく。ここが不透明だと、今後の部分に信頼性が持てなくなる。

 もっとも重要なのが結果の部分だ。研究・解析を通してわかったことを述べ、さらに考察を述べるわけだが、あまりに結果から飛んだ内容になってしまうと、推定が過ぎるという指摘がされてしまう。論文で書くのは、あくまで結果と、そこからわかることだけだ。

 最後にまとめあるいは結論が来る。まとめでは単純に今までの内容を書くだけではなく、結果の部分に載せるには具合が良くなかった考察を載せたり、将来的な展望を述べたり、今回わからなかったことをわかるようにするにはどうすれば良いかということなどを述べる。

 工学系や文系の論文だと違うのかもしれないが、理学系であれば論文の形式というのはだいたいこんなものだ。


「ふぅん……さなちゃん、海とか雲の研究やっているんだ」

 そこからか、と思ったが、よく考えるとこれまでレイラニに自分が何の研究をしているかなどということを説明したことはなかったような気がする。

「さなちゃん、海の研究してるんだったら、お魚がどこで獲れやすいとか、そういうのはわからないの?」

「魚群レーダー」

「それは知ってるけど……もっとこう、なんかすごいの。海とかの研究してるんだったら、ほら、そういうのって、無いの?」

 勇凪の研究は地球物理学で、魚群探査は専門ではない、と言ってやる。

 そっかぁ、とレイラニは頷く。やや残念そうだ。立ち上がって、台所へと戻っていく。


 実際のところ、勇凪の研究はただちに世に役立つようなものではない。もしかすると研究成果が発展してさらなる研究が行われ、それが役立つ可能性はないでもないが、基本的には地味で利用性のない研究だ。積極的に社会の役に立ちたいと思っているわけではないが、何の役にも立たないということを改めて意識すると、虚しい。

「その、さどく? っていうのは知らなかったなぁ。誰がやっているの?」

 査読者は一般の研究者だ。雑誌によっては博士課程の学生も査読者になりうることがあるらしい。研究をしているとどこからともなく、こういう論文があるので査読をしてくれないか、というメールが来ると聞いている。断ることもできるが、研究者の義務のようなもので、理由がなければ断るべきではないという風潮もある。

 研究者というのは自分の研究分野に関してはプロフェッショナルだ。少なくとも、そうあるべし、という考えがあって、とあるテーマに関する修士論文を書けば日本でいちばん詳しくなければならないし、博士論文を書くならば世界でいちばん詳しくならなければならない、という格言もある。

 であれば、査読というのはそのプロフェッショナルが書いた内容にケチをつける行為である。査読者もそのテーマに関して非常に近いテーマのプロフェッショナルであるとはいえ、指摘内容が必ずしも正しいとは限らないし、読めばわかることを誤って解釈している場合もある。

 だから、論文投稿とは査読者との戦いのようなものだ。

 いかにして相手の指摘を受け止めて修正するか、あるいは指摘が間違いだと逆に指摘してやるか、はたまた折衷案を取るか、という戦いだ。自分の知識と知恵と度胸、相手のそれらを比べる戦いだ。 


「ふぅん……難しいんだね」

 レイラニは「身体に良いから」と言いながら白湯を淹れて和室まで戻ってきた。身体に良いというのは、たぶんテレビか何かの受け売りだろう。影響されやすい。

 白湯に口をつける。

 雨が降っていた。ガンジスの冬は雨季だ。雨が窓を叩いても、家には勇凪とレイラニのふたりきりだった。唯一の肉親であった母がいないからだ。


 母、未明が脳卒中で死んだのは、勇凪が学会のためにアメリカへ向かう前日だったという。レイラニが仕事に出ているときで、助けようもなかった。帰ってきたら、冷たくなっていた。

 勇凪はその事実を、日本に戻ってくるまで知らなかった。レイラニが言わなかったからだ。

 レイラニは、レイラニはおそらくは考えたのだろう。母がまだ生きていて、死ぬ間際に息子に一目会いたいだとかならともかく、既に死んでいるのならば、出かけようとしている勇凪を止めることはない、と。

 いや、これは勇凪の想像だ。レイラニは「ごめんね、言わなくてごめんね」としか言わなかった。

 毎年定例で開かれている学会だ。気象や地球物理の分野では最も規模が大きい学会ではあるが、それだけだ。勇凪が華々しい研究成果を挙げて表彰されるだとか、そういうことがあるわけではない。一学生として、ポスター発表をするだけなのだ。

 だがきっとレイラニにとっては、その学会発表というものが、とてつもなく重要なものであると思っていたのだろう。出立前の勇凪に連絡は無かった。アメリカに行っている間も。日本に戻って来てから知った。何もかも終わっていた。葬式も。通夜も。


 そうして正月、遅くはなったものの、勇凪は久しぶりに実家に帰ってきた。

(それでこの有様だ………)

 レイラニは泣いたりはしなかった。勇凪が帰って来てから、一度も。

 いや、泣いたのだろう。

 記憶を失い、身体が不自由になった彼女に、最初に手を差し伸べたのが母だ。母には懐いていた。母が死んだときは泣いたのだろう。十二分に泣いて、それで悲しさが癒えたわけではないが、落ち着いてきた。我慢ができるようになった。笑えるようになった。今がそれで、だが傷が癒えたわけではない。傷は、残る。引きずる足がそれを証明している。

 帰って墓参りをした勇凪が体調を崩してから、レイラニは飯を作り、布団を用意し、病院に連れていき、甲斐甲斐しく看護をした。休みたいのは自分のほうだろうに。母が死んでから、葬儀やら死亡時の手続きやらで働き詰めだったはずだろうに。

 レイラニを見つめる。


 彼女は変わっただろうか。見た目は、少し大人びた以外はそう変わっていない。勇凪が家を出て行った八年前から。

「お腹減った?」

 レイラニが首を傾げて問いかけてくる。飯を食べたばかりで、しかも体調が悪いのに、腹が減ったか、などという問いかけもないだろうに、間が抜けているのは変わらない。

 だが変わった。月日が流れただけ、確実に。

「レイラニ、一緒に暮らそうか」

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