第7話 日本国特区ガンジス諸島、ガンジス諸島探検記念公園
空を駆けていたくるくると回るくの字は、そのままレイラニの掌に収まった。
「おー、すごーい。すごいなぁ、レイラニちゃんはすごいなー」
唱子がレイラニの気を惹こうとして大袈裟に褒めるが、レイラニは彼女が接近しようとすると距離を取って勇凪の背中に隠れてしまった。いや、褒めるのは大袈裟ではないかもしれない。投げ始めて数回で、レイラニはブーメランを己のところまで戻って来させられるようになっていた。力がないためか旋回半径こそ小さかったが、ここ数回のキャッチは百発百中だ。これだけ楽しそうに遊んでいるなら、ブーメランは足の悪い彼女には良い道具かもしれない、と勇凪は思った。
「大学の同級生の
レイラニがまたブーメランの投擲に戻ってから勇凪は隣の芝の上に座ってぼんやりとレイラニの姿を眺めていた海上保安隊の隊員——加瀬に話しかけた。
加瀬が現れたときには驚いた。というのも、というのも——勇凪はまだ海上保安隊や警察、医者などが怖かったからだ。レイラニを一度は見捨て、そのせいで彼女の脳や足に障害が残ってしまったかもしれないことを追求される可能性に、未だ勇凪は怯えていた。
だが実際は単に加瀬が唱子の知り合いであり、つまるところ彼女の待ち合わせ相手こそが加瀬だと聞いて、勇凪は安堵感を隠すのにだいぶん苦労してしまった。
「ああ、それは——」
「夏休みなんだよ、夏休み」と加瀬の言葉に割り込んで唱子が言った。「そういうただのアレだから」
「夏休みはそうだけど、なんで働いていないのかの返事にはなっていないと思う」
と加瀬が言うと、唱子が彼を睨み、それから勇凪に向き直った。「あのね、わたしは大学院生なんだよ」
「留年したの?」
「小学生でも留年って知ってるの? 漫画とかに出てくるのかな。留年じゃないよ。ドクターだ」
「お医者さん?」
「大学院生というのは、博士課程だ。えっと、小学校の次は中学校があって、その次に高校があるだろ? その先が大学で、そのさらに先の先。優秀なやつじゃないといけないんだぞ。賢いのだ」
「そんなに学校にいて、なにやってるの?」
「くそう、いちいち痛いところを抉りこんで来るね。研究だ」
「研究ってなに? 白衣着て、暗い部屋の中で薬品混ぜて爆発させたりするやつ?」
「えっと……まぁ、そうかな」
唱子さん、唱子さん、と加瀬が口を挟む。「いい加減なこと言わないように」
「でも、部屋の中でパソコンカタカタやってるだけの作業だなんて言って小学生の夢壊すわけにはいかないでしょ?」と唱子は唇を尖らせる。「研究者って三角フラスコ振って爆発頭に浴びてパンチパーマになりながら黒い息吐き出すものなんだから」
「べつに夢は持ってないけど」と勇凪は言ってやった。
さなちゃん、とレイラニがブーメランを手に、足を引きずりながら歩み寄って来る。「ちゃんと見ててよ」
「見てるよ」
「投げるよ」
「うん」
「投げるからね」
距離を取り直し、何度も何度も確認してからレイラニはブーメランを投擲した。勇凪は思ったことを口に出そうとしかけたが、いま何か喋るとレイラニの気が逸れてブーメランをキャッチするのに失敗しそうだったため、彼女がしっかり掴むのを確認することにした。
ブーメランがレイラニの手に無事収まると、また唱子は大袈裟なくらいに手を叩く。つられて勇凪も軽く拍手した。
「大人の人って夏休みがないって思ってたけど、そうじゃないんだね」
と勇凪はつい先ほど思ったことを尋ねる。
「大学生は夏休みが長いんだよ。いや、わたしは大学生じゃなくて大学院生だし、休みだからといって休みに休んでいられるわけじゃないんだけど」
と唱子はわけのわからないことを言った。
「何しに来たの?」
「聞き方がなんかアレだね。観光だよ、観光。休みだよ。悪いかね」
「ここ、観光するところなんかある?」
「場合によっては返答しにくいことを訊くな、きみは。海は綺麗だし、それだけで十分だよ。あとは……」
あの剣とかね、と唱子は視線を南へと向ける。勇凪の家の桟橋から眺めると、本島を天から貫く剣のように見える物体だ。
その物体については、学校で習ったので知っている。軌道エレベータと呼ばれる建造物だ。高度十万キロメートルの静止衛星軌道上にある建造物に続いているエレベーターだ。現代で宇宙空間に向かおうとするにはロケットで飛ばす必要があるが、宇宙からエレベータを下ろしてしまえば、リスクの大きいロケットなど使わずに済むだろう、というアイディアから作り出されたものらしい。
島があるので剣先が地表にくっついているように見えるが、実際近くまで行ってみると、接触はしていない。まだ未完成だからというのもあるが、完成しても地表には接触せず、エレベータに乗り込む際にだけ地上からクレーンで受け渡しをするらしい。
完成すれば宇宙と簡単に行き来できるようになる代物らしいが、完成はまだまだ遠く、少なくとも二十年はかかる、と授業では習った。
「こうやって見ると壮観だなぁ。ほんと、剣が突き刺さっているように見えるね」
と唱子は嘆息した。
「研究って、軌道エレベータと関係があるの?」
「いや、ないね」
「じゃあ何の研究してるの?」
「おお、想定問答で準備しうる質問が来たな。こういうときに正しく説明しようとすると、だいたい説明が下手だと言われるんだよね。えーと、なんだ、専門は放射なんだけど、えっと、空かな。うん、空」
「唱子さん、それはさすがにいい加減すぎない?」
と呆れ顔で加瀬が口を挟む。
「いや、しかし、これがいちばん伝わりやすくてね」
「ぜんぜん伝わってこなかったよ」と勇凪は正直に言った。
勇凪が理解できたのは、唱子という女性が研究者であり、よくわからない研究をしているということと、唱子と加瀬が仲が良くて、おそらくは恋人同士のだということくらいだった。だがそのどちらをも口に出さないくらいくらいの分別が勇凪にはあった。
「なんで唱子さんって研究者になったんですか?」
と言ったのは加瀬だった。
「なんかいつの間にかそういう方向になってた」
「いいかげんですね」
「ふつう、そんなもんでしょ。なにかい、加瀬くんは海の安全を守りたいとか考えて海上保安庁に入ったのかい?」
「そうですけど」
やはり加瀬は立派だ、と思っていると、ひとりで離れてブーメランを投げているのが寂しかったのか、またレイラニが駆け寄ってきた。
「さなちゃん、見て」
勇凪の手を握ってから、レイラニはまた離れていく。最初に教えられたとおり、きょろきょろと周囲を見回して安全確認をしてから、こちらを向いて叫んだ。「ちゃんと見ててね」そしてブーメランを投げた。緩やかに宙を駆けていくブーメランは傾いた円軌道を作り、レイラニの手に元通り収まった。
「レイラニちゃんはすごいなー、天才だなー」と唱子がまた大袈裟なくらいに拍手をした。
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