¶-Sigh 『逃避行』

¶-Sigh

シャンバラ “大平野”サミル区南東 カリア・ケロス国境付近



 背後には剣戟の音。眼前遙か遠くには、カリア・ケロスに通ずる大橋。

 夕刻、ニュクス運河を真っ直ぐ横切る街道の上。いま、その石畳をわらわら駆ける集団がある。

 集団は、そのほとんどが小さなこども。白い髪と赤い眼を持つ、小さく華奢なこどもたち。

 武装した青年たちは、とうの昔に背後の戦に巻き込まれている。他ならぬ、私たちを逃がすためにだ。

……そしていま、最後のひとりが息絶えた。


「――あ゛ぁっ」


 断末魔に似た叫びのが、私の頭の奥に響いた。私たちの持つ、今となっては私だけが保有している亜人としての特質が、最悪な条件のもとに牙を剥く。


「走って、走って――早くっ」


 頭から首を伝って、全身に広がる痛み。それをあえて誤魔化すように、私は彼らを追い立てる。

 それでも歩みが遅いのは、私たちがこどもだからというわけではない。ただ、全員が疲れていたのだ。

 まとめて全員殺すでもなく、さりとて放置するわけでもなく。まず戦える男を殺し、女を一人ずつ丹念に嬲り、こどもたちを延々と余興のために追いかけ回す。そういう、たちの悪い一団に私たちは狙われていた。盾に駿馬の旗印――“帝国”の傭兵部隊だ。


 ああ、だめだ。

 背後からまた、石畳を蹴る割れた馬蹄の音がする。


 自棄に走った――いや、勇敢だった・・・・・青年たちはもう居ない。

 次はおそらく、私が嬲られるのだろう。

 今や私が最年長で、歳を重ねて彼らの欲を満たせるほどに育った女は、とうの昔に全員が死んだのだから。私が耐えきれずに死ねば、次はまたもう一回り若いこどもが嬲られる。サミル区南部に至るまで、幾度も繰り返された光景だ。


「主よ――」


 走りつつ、胸の前で斜十字サルティアを切る。

 これ以上、彼らと一緒に走っても意味など無いと、そう思ったから。


「モァン」

 

 自分の次に年かさのある少年を呼ぶ。程なくして、モァンと呼ばれた少年が私の隣に並び立った。歳にして一五をようやく過ぎたばかりの、あどけない美少年だ。

 彼はチュニックに革製の外套を羽織り、傷んだズボンと靴であった残骸をその脚にぶら下げている。

 私たちは腐っても亜人。体力に優れ、身体はそうそう傷つかなくとも、人族アルク基準の靴や道具はそうではなかった。


「モァン、宝具レガリアを持って走れる?」


 そう言って、私は自身の背を指した。示す先には、布に巻かれた巨大な槍斧が麻縄で縛られている。モァンはそれをチラリと見やって、無理だ、と首を横へと振った。


「長すぎるよ、サイ。手に持ったとして、それじゃ長くは走れない」


 それに、と続ける。 


「槍斧の加護は、もう誰も持ってないんだ」

「……そう」


 それなら、もう渡しても仕方ないかな。


「聞いて、モァン」

「なに」

月虹族ディアノは滅んだ」

「――っ」


 月虹族ディアノ

 それは、私たちの亜人としての種族名。精神感応テレパスと結界術と弓矢に長けた、忌み嫌われる一種族。

 

「もう、血を残す必要もない。ただ生きて、誰か一人だけでもいいから――カリア・ケロスの第一王女のところに行って、そして伝えて」


『あなたの救おうとした一族は、滅びました』と。

 そうでなければ、あの方は救援部隊を出してしまう。出して、“帝国”軍とぶつかってしまう。

 それは、かの国の大義名分となるだろう。――カリア・ケロスを攻めて滅ぼす、“帝国”の錦の御旗に。


「……わかった」

「行って。私は残る。あなたたちの最後の囮に」


 私の言葉に、静かにモァンはうなずいた。

 足を止める。モァンたちは走り続けて、私だけが街道の上に取り残される。

 遠雷にも似た馬蹄の音色。それを背後に・・・・・・、私は両手を重ねて突き出した。


「『いずろく、大笠の楯、我願う冬蔦の陣』――!」


 結界術、『冬蔦の陣』。

 草木の壁を幾重にも張り巡らせて、使用者が解除するまで天然の迷宮を象り続ける有限結界。

 消滅事由リミット――使用者の生命途絶。


「使いこなせはしないけど――」


 踵を返し、槍斧掛けホルダーの留め具を外す。

 布に巻かれたままの槍斧が、ずん、と音を立てて石畳の上に突き立った。


「ご寛恕を」


 誰にともなく呟きながら、覆いを破く。

 千々に破れた布の中から、槍斧ハルバードが豪奢な姿を現わせた。

 

 祭具。――あるいは、宝具。

 金と朱、銀と黒とに彩られた槍斧の威容は、レガリアの名にふさわしい。


「この身は槍斧の加護を持たぬ身。なれど、槍と斧との加護の二つを以て、御身を振るうこととします」


 唱えつ、握る。

 左には青、右には緑の光の筋が、幾重にも張り巡らされふわりと溶ける。己の備えた武器への加護が、それぞれの手に発現したのだ。

 これで、構えて振るうくらいは出来る。――少なくとも、すぐには死なない。


 遠雷のように濁った音が、徐々に、徐々に、その解像度を上げてゆく。

 騎馬隊が、近づいている。


「『満天の月、光の絹布、拒む心は乙女の如く』――」


 左手に槍斧の柄を持ち、右手を前へと向けてかざした。

 結界術、『乙女の絹布』。

 不可視の壁が物理的な干渉を拒む、強力な有限結界。

 消滅事由リミット――加護を持つ武器の貫通。

 こちらに迫る一団は、雄叫びを上げながら突っ込んでくる。

 壁のことなど知りもせず。


「みんな」


 接触まで数秒もない。まず一回は、彼らの出鼻を挫けるだろう。

 その後は――まあ、死ぬのだと思う。

 嬲られる前に死ねるかなぁ。死ねるといいなぁ。


「――生きて」


 瞬間。

 生肉が何かに強く叩かれたような、気色の悪い音が響いた。

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